山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼960号「青森県恐山・常陸坊海尊天狗の伝説」

【前文】
恐山は霊場の総称。日本三大霊場のひとつ。ここは死者の魂が集ま
るとされ、夏には多くの人がイタコの「口寄せ」を聞きに集まりま
す。ここには常陸坊海尊伝説があります。義経が衣川で戦ったとき
海尊は山寺に出かけていたという。その海尊が江戸時代になって姿
をあらわしたという。
・青森県むつ市。
(本文は下記にあります)

▼960号「青森県恐山・常陸坊海尊天狗の伝説」

【本文】
 修験道の最北青森県下北半島の霊山恐山は、恐山火山を中心とす
る霊場の総称。於曽礼山、鵜翻(うそれ)山、地獄山、焼山、釜覆
山などの異名もあり、死者の山として知られています。日本三大霊
場(比叡山・高野山・恐山)(「日本三霊山」の富士山・白山・立山
は別)のひとつ。カルデラ湖である宇曽利(うそり)山湖の北岸一
帯は、硫黄や間欠泉が噴出して草木も茂らない地獄の風景になって
います。

 恐山は宇曾利山とも「おそれやま」ともいっています。このうそ
りとか、おそれの語源由来は分からないそうですが、オソ、アソは
アイヌ語の噴火を表す語ともいう。カルデラの周囲を蓮華八葉(れ
んげはちよう)の火口丘や外輪山が囲んでいます。蓮華八葉は、(1
:剣山(400m)、(2:地蔵岳(330m)、(3:鶏頭山(321m)、
(4:円山(まるやま・897m)、(5:大尽山(おおつくしやま・828
m)、(6:小尽山(こつくしやま・513m)、(7:北国山(844m)、
(8:屏風山(628m)の8峰。さらに南には下北半島の最高峰の
釜臥山(878.6m)が、西には朝比奈岳(874m)がそびえていま
す。

 カルデラ中央には宇曾利山湖(恐山湖)があり、北東端から流れ
出す川は、正津川(しょうづがわ・三途の川)と呼ばれています。
ここは死者の魂が集まるところとされ、夏には多くの人が死者の霊
を呼ぶイタコの「口寄せ」を聞きに集まります。ただイタコの「口
寄せ」が行われるようになったのは、明治末年から大正初年ごろか
らだという。湖の北岸には女郎地獄とか血の池地獄、賽の河原など
が広がり、またそれらを背に極楽ノ浜もあります。この地獄と極楽
を含む霊場全山をまとめて恐山菩提寺と総称され、中心となってい
るのは地蔵堂。

 本尊は慈覚大師円仁(天台宗)作と伝える地蔵菩薩で、江戸時代
以降、むつ市田名部(たなぶ)新町の曹洞宗円通寺の支配下に置か
れているという。外輪山の南方に接して寄生火山の釜臥山があり、
恐山の奥の院になっています。『奥州南部宇曾利山釜臥山菩提寺地
蔵大士略縁起』(『山岳宗教史研究叢書17』)(1810年・文化7年に
再刊)という文書によれば、そのムカシ慈覚大師円仁が中国で修行
中、「或夜、霊夢あ利、一人の聖僧、忽然と現れ、大師に告て曰、
汝本国に皈朝(帰朝)の後、当東方而去其王城行程三十余日許(ば
かり)にして、乃在霊山。…」。つまり「帰国したら、京都の東方30
余日の行程のところに霊山があるので訪ねるべし」という霊夢を見
たという。

 円仁は帰国後、夢のお告げどおり東国への旅をつづけ、青森県下
北半島まで行き、釜臥山に籠もりました。ある日円仁は、鵜(う)
が両翅(りょうし)を翻(ひるがえ)して北の山上に飛んでいくの
を見ました。円仁がそこへ行ってみると、美しい湖があって後方に
山をひかえた森の前は「猛火?々(えんえん)として、苦器相視(マ
ノアタリ)に現じ」、また、その前の湖畔の浜は「金砂涼々として
正に浄土を観ずるにあり」という、地獄と極楽浄土が一体となった
ような場所でした。そこで、こここそ夢のお告げの所であると、地
蔵尊像を彫りお堂を建てて菩提寺にしました。そこから自分が籠も
っていた山を見ると釜を臥せた形をしていたので、覆釜山(釜覆山)
と名づけ菩提寺の山号にしたそうです。また、鵜が翻って飛んでい
ったことからこの地を「鵜翻(うそれ)山」ともいうようになりま
した。

しかし、円仁は中国で9年の留学を終えて帰朝したのは承和14年
(847)。貞観(じょうがん)2年(860)出羽立石寺の開創、そし
て貞観4年(864)の恐山開闢、承和6年(864)比叡山での示寂し
ており、帰朝以後、17年間の事蹟は大体分かっており、遠い陸奥
の国までの行脚の暇はなく、恐山の開山は怪しいらしいとのこと。
「しかし恐山では1862年(文久2)に、恐山開創1000年祭を盛大
に厳修した記録が記録が残っているから、この縁起はそのままそっ
としておこう」(『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳氏)とのこと。

 さて、地蔵堂は江戸時代以前は、恐居山金剛念寺という寺が守り
「峰の寺」といっていたという。だが、その峰の寺は、中世後期の康
正年間(1455〜57)に、蠣崎(かきざき)の乱のとき、滅んでしまっ
たという。その峰の寺を、田名部(たなぶ)の円通寺(曹洞宗)の
開山聚覚(しゅうかく)というお坊さんが、釜臥山菩提寺として再
興しました。そもそもここの開山は、慈覚大師円仁(天台宗)なの
に円通寺(曹洞宗)になっています。天台宗の蓮華寺は面白くあり
ません。そんなことから曹洞宗の円通寺と、天台系の蓮華寺の間で
恐山の支配権をめぐり100年近い抗争がありましたが、安永(あん
えい)9年(1780)、蓮華寺が争いに敗れ、いまのように曹洞宗の
支配となったのだそうです。

 この恐山に、武蔵坊弁慶などとともに源義経の家来として活躍し
た、常陸坊(ひたちぼう)海尊の伝説があります。東北各地には海
尊は仙人として語られており、長生きして伊達政宗に会ったという
話や、宮城県塩釜市南方岩切にある青麻(あおそ)権現は海尊をま
つった祠といわれるように、海尊の仙人伝説は多い。しかし、恐山
にいる常陸坊海尊は天狗だというのです。

 海尊は常陸の国(茨城県)の鹿島神宮の別当寺で修行し、のち滋
賀県大津市三井寺(園城寺・おんじょうじ)に移ったといわれる僧。
園城寺で修行中源義経の従者になり、弁慶とともに平家と戦ったり
奥州落ちなど、一緒に行動してきました。しかし、文治5(1189)
年、義経が衣川の戦いで敗死した日は「常陸坊を初めとして残り十
一人の者ども、今朝より近きあたりの山寺を拝みに出かけるがその
儘帰らずして失せにけり」(『義経記』巻第八・衣河合戦の事・室町
の軍記物語)なのだそうです。

 どうもこの海尊、評判もよろしくなく、『犬張子』巻之一のよう
に「昔常陸坊海尊とかや、源九郎義経奥州衣川高舘の役に、族従類
みな亡びけるに、海尊一人は軍勢の中を逃れて富士山に登りて身を
隠し、食(じき)に飢ゑて為方のなかりしに、浅間大菩薩に帰依し
て守を祈りしに、岩の洞より飴の如くなるもの涌き出でたるを、嘗
めて試むるに味ひ甘露の如し。これを取りて食するに飢ゑをいやし、
……」などと書く本もあります。川柳にも「ひたち坊風来ものの元
祖なり」などと詠まれるしまつ。

 この海尊が、江戸時代初頭になって姿をあらわしたという情報が
あります。このころの書物には「残月」または「残夢」と名のる異
様な姿をした怪老人が「わしは不老不死だ」といいながら、源平合
戦の様子を当事者であるように細かく知っていて、人々に話してい
るという。不思議に思った人が、会っていろいろ聞いてみると実は
常陸坊海尊らしいというのです。あまりの評判に徳川家康の側近の
天海(てんかい)という人が、その老人に会って確かめたところ、
海尊に間違いないという。

 この怪老人が不老不死なのは、クコや赤魚の肉、それから富士山
の岩からわき出る飴のようなものを食べているからだという。天海
もこれをまねた食事をとったところ、108歳まで長生きできたとい
うことです。海尊の出身地の茨城県桜川村(いまは稲敷市桜川地区)
の大杉神社にはこんな伝説があります。「伝教大師の弟子快賢が年
を隔ててのち、仮に常陸坊海存(海尊)となって義経を助け、平家
追討してのちにこの地に帰り、大杉大明神の像を彫刻し大杉殿に納
め天下太平五穀豊登などを願って、彩雲に乗りたちまち消え失せ給
う」とのことです。地元はやはりかばいますよね。

▼恐山(釜臥山)【データ】
・山名:(よみがな)かまふせやま

【所在地】
・青森県むつ市。大湊線大湊駅の西3キロ。JR大湊線下北駅から
バス、恐山停留所下車。一等三角点(878.2m)がある。釜臥山へ
はむつ市スキー場から3時間。釜臥山の頂上には航空自衛隊のレー
ダーサイトが設置されており、許可が必要。山頂には岳主神社奥社
など3つのお堂がある。

【位置】
・釜臥岳等三角点878.2m:北緯41度16分42.6615秒、東経141
度07分12.0515秒

【地図】
・旧2万5千分の1地形図:むつ、恐山。

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典2・青森県』竹内理三ほか編(角川書店)1991
年(平成3)
・『義経記』作者不明。軍記物語:(日本古典文学大系37『義経記』
岡見政雄校注(岩波書店)1959年(昭和34)
・『山岳宗教史研究叢書7・東北霊山と修験道』月光善弘編 (名著
出版)1977年(昭和52)
・『山岳宗教史研究叢書17』「修験道史料集1・東日本編」五来重
編(名著出版)1983年(昭和58)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・東日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『仙人の研究』知切光歳著(大陸書房)1989年(昭和64・平成1)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか(角川書店)1990年(平成2
・『日本歴史地名大系2・青森県の地名』虎尾俊哉ほか(平凡社)1982
年(昭和57)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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