山の伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼959号「出羽三山・羽黒岳と3本足のカラス」

【簡略文】
出羽三山といえば山岳信仰で有名な羽黒山、月山、湯殿山の総称で、
なかでも羽黒山は羽黒修験の根拠地です。羽黒山の名は、ここを開山し
た蜂子皇子が3本足の大カラスに案内され、羽黒の阿古谷で修行したと
いう。その時のカラスの羽の色から、羽黒山と名づけたという。
・山形県鶴岡市。
(本文は下記にあります)

▼959号「出羽三山・羽黒岳と3本足のカラス」

【本文】
 出羽三山といえば山岳信仰で有名な羽黒山、月山、湯殿山の総称
で、なかでも羽黒山は羽黒修験の根拠地です。この三山がまとまった信
仰対象となったのは中世後期のことらしいという。それより前は、湯殿山
を奥ノ院として、「羽黒山・月山・鳥海山」で三山とするか、「羽黒山・月山
・葉山」を三山とする試みもあったという。

 この三山も和歌山県の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊
野那智大社)を模してできたものらしく、もとは天台系修験者が活躍して
いた地だったという。いまでは羽黒山修験本宗あが独立し、またそれとは
べつに三山神社などの団結などで、羽黒修験の根拠地になっていま
す。

 三山詣でが盛んになってのは江戸時代に入ってからで、手向(とうげ)
地区、大網地区、注連掛(しめかけ)地区、肘折(ひじおり)地区、岩根沢
地区、本道寺地区、大井沢地区の7つもの登拝口がありました。羽黒山
修験は一大勢力をもち、「武家不入」の特権をもち、坊も衆徒の数も膨大
になっていきました。

 しかし、明治維新の廃仏棄釈(はいぶつきしゃく)で一山は崩壊してし
まいました。ただ民俗的な三山信仰では、今日まで一貫した信望を集
め、東日本中心に、「三山講」の石碑や搖拝所としての塚もよく見かけま
す。冬の期間は、積雪で三山のうち、月山と湯殿山への登山が困難なた
め、羽黒山に三神合祭殿(山形県羽黒町手向)で行われています。

 出羽三山も昔は、ほかと同じように女人禁制でしたが、どういうわけか
羽黒山だけ女性の入山が許された山だったといいます。羽黒の名は、三
山を開山したといわれる蜂子皇子(はちこのみこ)を誘導した3本足のカ
ラスの黒い羽の色(羽が黒)に由来しているという。山頂には出羽神社
(羽黒神社)があり、伊?波(いでは)神をまつっています。

 伊?波(いでは)の神は、倉稲魂(うがのみたま)命のことだともされる
穀物の神。羽黒山はそもそも、飛鳥時代第32代崇峻(すしゅん)天皇の
時代(在位587〜592)、聖徳太子が甲斐の黒駒に乗って仏教繁盛の
霊地を求めて全国を回っていました。

 たまたま出羽国にかかったとき、紫雲たなびく山がそびえているのを見
て、「こここそ仏・菩薩の霊地なり」と訪ね確かめたところ、大杉の根本に
正観音の霊像がおわすのを見出しました。一方、そのころ崇峻(すしゅ
ん)天皇の第3皇子に参弗梨(さんふつり・参払理とも)の大臣という皇子
がいました。

 「この人は御顔醜く、眦(まなじり)長く髪の中に入り、口は脇深く耳の
根をとおり、鼻は下がること一寸、面の長さ一尺」もの異相の持ち主で、こ
のためか春日(とうぐう)にも立たなかった…」(「出羽国羽黒山建立の次
第」)だという。その「余りにも暴荒なる相なるによって、北海の浜辺に捨て
られたと書く本もあります。

 捨てられた太子は仏門に入り、聖徳太子を師として修行に励み、法名
を弘海(こうかい)といっていました。やがて聖徳太子の教えに従い観音さ
まがあらわれた霊地に向ったのでした。そして三本足のカラスの導きで、
羽黒山の阿久谷というところに入り、そこで聖観音の霊像を感得したとさ
れています。

 阿久谷で修行した皇子は国司の腰痛を治したり、村人のさまざまな苦
しみを取り除きました。人々は喜び皇子を能除(のうじょ)太子(または能
除仙)と呼んで感謝したという。

 そのころ、毎夜のように光る不思議な流木が酒田の港に浮いていたと
いう。能除太子はその流木で、妙見大菩薩と軍荼利明王の仏像を彫っ
て、聖観音像とあわせて羽黒三所権現としてお寺にまつりました。それか
ら能除太子は月山を開き、また湯殿山を開いたと伝えます(ただ、真言宗
系の湯殿山4ヶ寺では、能除太子ではなく弘法大師が開山したとしてい
るという)。その後、役行者もここを訪れ、一山を中興したということになっ
ています。ただ開山説はあくまで伝説の話らしい。

 一方、ここを根拠地とする羽黒修験は、はじめ天台系の本山派(熊野
修験)に属していたそうですが、のちに真言系の当山派(吉野修験)に転
じたという。そういういきさつから、やはりここを開山したのは弘法大師に
したいところです。

 このようにして出羽三山は、その後多くの修験者たちによって聖地とし
て大発展していきます。いまでは史上初の女性行者も出現していると
か。時代は変わりました。この山の行事として、大みそかに行われる出羽
三山神社の松例祭(しょうれいさい)は有名です。

 松尾芭蕉は元禄2年(1689・江戸中期)に羽黒山から月山、湯殿山に
登っており、『おくのほそ道』に「…坊に帰れば、阿闍梨(あじゃり)の需(も
とめ)に依(より)て、三山巡礼の句々短冊に書(く)。涼しさやほの三か月
の羽黒山。雲の峰幾つ崩て月の山。語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)か
な」などと記しています。

 この霊山、羽黒山には、ちょっと変わった怪人がいることになっていま
す。その名を水天狗円光坊という。円光坊の姿が羽黒山開運「七千日護
摩行者長教」という護符(ごふ)の影像にあります。影像を見ると、もうひと
りの怪人羽黒山三光坊とならんで向かい合って立っています。円光坊と
三光坊のふたりは天狗のような姿をしていて、その下には火炎を中心に、
16匹のカラス天狗が囲んでいます。

 円光坊は口がとがりまるで河童の天狗です。髪を伸ばし後ろでしばっ
た総髪姿で、刀を差して左手で柄を握り、右手で金剛(こんごう)杖をつ
いて、沓(くつ)をはいて岩に上に立っています。この護符に火災水災除
・厄難消滅とあるところから水天狗円光坊は、水難除け担当の天狗なの
でしょうか。

 水天狗のすむ場所として、研究家は最上川の水の上か、川底か。陸
にすむとすれば陸羽西線清川駅から少し最上川上流の戸川にある仙人
堂周辺ではないかといっています。昔から羽黒山へ登る人や、羽黒修験
の山伏たちは必ずこの仙人堂へ参拝してから向かったといいます。

 仙人堂は源義経の家来であった常陸坊海尊(ひたちぼうかいそん)を
まつる廟(びょう)と伝えられているところです。このあたり一帯は羽黒山の
山内の登山口になっていたらしいとのこと。その証拠に仙人堂のあるあた
りはかつて「山ノ内」と呼んだという。いずれにしても水天狗は、全国唯一
の水の天狗であり、最上川水難守護の河童神ではないかともされていま
す。

▼羽黒山【データ】
【所在地】
・山形県鶴岡市羽黒(旧東田川郡羽黒町)。JR羽越本線鶴岡駅の東
南東14キロ。JR羽越本線鶴岡駅からバス、羽黒山停留所下車。写
真測量による標高点(414m)がある。
【位置】
・羽黒山:北緯38度42分8.91秒、東経139度58分57.75秒
【地図】
・2万5千分1地形図名:「羽黒山(酒田)」

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典6・山形県』誉田慶恩ほか編(角川書店)1981
年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書5・出羽三山と東北修験の研究』戸川安章(とが
わあんしょう)編(名著出版)1975年(昭和50)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著出
版)1981年(昭和56)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『東北の山岳信仰』岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『羽黒月山湯殿三山雅集』(野衲東水選)宝永7年(1710)成立
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年(平成
16)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

 

山旅イラスト【ひとり画展通信】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ【戻る】