山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼956号「山梨県・天目山と南大菩薩」

【前文】
♪武運尽きたる武田氏が重囲の中に陥りし、天目山は初鹿野(いま
は甲斐大和)の駅より東二里の道」と、鉄道唱歌にも歌われる武田
終えんの地天目山。勝頼が行くことがかなわなかった天目山栖雲寺。
ここはかつて武田信満が鎌倉府の追討を受け自刃したところ。代々
縁のあるお寺です。
・山梨県甲州市。
(本文は下記にあります)

▼956号「山梨県・天目山と南大菩薩」

【本文】
「♪武運尽きたる武田氏が重囲の中に陥りし、天目山は初鹿野(は
じかの・いまは甲斐大和)の 駅より東二里の道」と、鉄道唱歌に
も歌われている甲斐武田終えんの地・天目山。安土桃山時代の天正
10年(1582)、武田勝頼が織田信長・徳川家康連合軍に追いつめら
れ自刃したのは、いまの甲州市(旧大和村田野地区)の景徳院(正
確にはここは天目山のふもと)。景徳院にはいまも勝頼や奥方の生
害石や墓が残っています。勝頼37歳、夫人19歳、息子の信勝(母は
美濃国衆・遠山直廉の娘で織田信長の養女である龍勝院)は16歳で
あったという。

実は甲斐武田がこの地で滅亡したのはこれで2回目。南北朝時代も
終わった応永24年(1417年)、室町幕府に追われた武田氏第13代
当主武田信満が山中の木賊(とくさ)村の天目山栖(棲)雲寺(て
んもくざんせいうんじ)で自害、甲斐武田氏は一時断絶しています。
しかし再興してのち、武田氏の守護も厚く数々寄進されてきた寺。
このように栖雲寺は武田氏とは縁の深いところだったのです。武田
信満の子孫である武田勝頼が、最後を覚悟して栖雲寺を目指したの
も無理はありません。

勝頼の墓のある景徳院の田野地区よりさらに4.6キロほど日川(ひ
かわ)渓谷を上っていったところに、その天目山の木賊(とくさ)
の集落はあります。標高1050mの臨済宗建長寺派天目山栖雲寺は、
天目山護国禅寺ともいい、本尊は釈迦如来。旧称・木賊山(トクサ
は山野の湿地に生える植物の名でここに群生するため)。この寺は
もともと、南北朝時代、北朝でいう承和4年(1348)に業海本浄(ぎ
ょうかいほんじょう)という禅僧によりはじめて建てられたお寺。

業海本浄は鎌倉時代の文保2年(1318)に、古先印元や明叟斉哲、
無隠元晦ら6人の若い僧らとともに入元(中国元に留学)しました。
そして、中国の天目山(中国浙江省杭州)幻住庵の中峰明本(普応
国師)に師事、修行の末、印可を受け嘉暦元年(1326)に帰国しま
した。業海は師匠の明本の峻厳な禅風を広めるため、諸国を20余
年に渡って巡業。

その途中、甲斐国の守護の武田氏の招へいを受けてやって来たので
す。そこで甲州の木賊山を知り、この山中が中国杭州天目山によく
似ているとして臨済宗のお寺を開き天目山と名のりました。やがて
付近の山一帯が天目山と呼ばれるようになっていきます。業海禅師
はここの風光をめでて、竜門瀑、雷闘峡、山神廟(びょう)、飛猿
嶺、梵音洞、金剛崛、忿怒岩、天目井、対岳閣、伝灯庵など「天目
十境」を選び、それぞれに七言絶句(しちごんぜっく)を賦してい
ます(『甲斐国志』)。

同門の遠渓祖雄が開いた丹波の高源寺(現兵庫県青垣町)を「西天
目」というのに対して、こちらは「東天目」と呼ばれたそうです。
業海は、岩窟に師匠の普応国師像を安置し、山中の樹下石上で厳し
い座禅に精進しました。そのため里には一度も出たことはなく、牛
に使いをさせたという「天目牛」の物語もあります(『本朝高僧伝』)。

栖雲寺境内には自刃した武田信満の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
や、ともに自害した家臣達の五輪塔も建っています。境内東方の谷
間急斜面の広大な庭園も見事です。業海作と伝えられ、巨岩が累々
と重ねられた豪快な作風です。栖雲寺は開山以来、甲斐武田氏の信
望が厚く、武田氏の菩提寺としても隆盛を誇ったという。境内には
武田信満の墓、普応国師の坐像(国の重要文化財)の他、業海本浄
和尚の木像、地蔵菩薩磨崖仏などの文化財があり、庫裏右手の裏山
には、禅僧の修行の場として使われた石庭もあります。

JR甲斐大和駅で電車を降りると、駅のわきの広場で武田勝頼の銅
像が迎えてくれます。そこから日川(ひかわ)を遡ります。早速あ
ちこちに古戦場跡の碑が出てきます。しばらく行くと右手高台に景
徳院の山門があらわれます。境内には武田勝頼一族にちなむ碑があ
ります。そのひとつ「武田慕情」(いではく作詞、遠藤実作曲)の
碑がありました。「夕日に染まる甲斐の山、こだます鐘に春おぼろ、
戦い暮れたつわものの、大和心を知るように、舞い散る花は山桜」
と悲しみを誘います。

さて、日川の天目山直下には竜門峡があって遊歩道になっています。
約2キロの散策道には竜門の滝・天鼓林・平戸の石門・木賊の石割
ケヤキなどのポイントがあります。そのひとつ「天鼓林」では足で
地面を踏みならすと、渓谷を流れる水の音に混じって太鼓を叩いた
ような音が聞こえます。土の中に枯れ葉などがつまっていて、踏み
ならした音が響くのだという。昔はこれは天狗が踏みならす音だと
もいったそうです。

また妖怪に追われたときここまで逃げてきて、足を踏みならして追
い払ったという伝説もあるとか。棲雲寺から南を眺めれば、直下の
谷は竜門峡。向こうの山陰から富士山も顔を出し、なるほど景勝地
とはこんなところをいうのかと思うほどの絶景です。天目山栖(棲)
雲寺の東直下六本杉橋から北に向かって焼山沢真木林道がのびてい
ます。

正月も松がとれるころ、甲斐大和駅から景徳院、竜門峡、栖雲寺を
めぐり、この林道を湯ノ沢峠まで歩いたことがありました。途中竜
天宮社に寄ってみました。境内で氏子の人が焚き火をしています。
お焚き上げの最中らしい。静かな境内を巡るうち、「犬頭観音」を
見つけました。馬頭、牛頭、豚頭は見たことはあるけれど、犬頭は
初めてです。「これは珍しいものを見させていただきました。写真
を撮らせてください」。すると「これから山に登るのですか。これ
持って行きなさいよ」と、神前からミカンとリンゴのお供物を頂き
ました。

きょうのねぐらは湯ノ沢峠。いまの時期、夏の駐車場のクルマの数
は夢のよう、時が止まったように静かです。大菩薩嶺から南に向か
って上り下りをくり返しながら、石丸峠、狼平、小金沢山、牛奥ノ
雁ヶ腹摺山、そして黒岳、湯ノ沢峠に至る尾根筋を南大菩薩、また
は小金沢連嶺というそうです。湯ノ沢峠は焼山ノタル、雁腹摺とも
いい、南側はカヤトと高山性草原の起伏。大蔵高丸山頂までお花畑
が広がるところ。こんやは峠の避難小屋で一泊。明日は黒岳から大
峠へ下り、雁ヶ腹摺山経由、阿部清明ゆかりの「セーメーバン」の
調査が楽しみです。

▼天目山栖(棲)雲寺【データ】
【所在地】
・山梨県甲州市。中央線甲斐大和駅の東4キロ。中央本線甲斐大
和駅からバスあり、天目山で下車で天目山栖(棲)雲寺。

【位置】
・天目山栖雲寺:北緯35度39分38.89秒、東経138度48分35.69


【地図】
・旧2万5千分の1地形図:笹子

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典19・山梨』竹内理三編(角川書店)1991年
(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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