山の伝承伝説に遊ぶ
山旅通信
【ひとり画ってん】とよだ 時

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▼951号「東京高尾山・奥高尾小仏峠」

【略文】
奥高尾ハイキングコ−スにある小仏峠。かつては旧甲州街道の要
所として、笹子峠に次ぐ難所。昔は関所があり、東海道の箱根、
中仙道の碓氷とともに「関東三関」のひとつ。地名は峠に1寸8
分の小さな石仏像が安置されていたことから命名されたという。
・東京都八王子市と神奈川県相模原市との境。

・【本文】は下記にあります。

▼951号「東京高尾山・奥高尾小仏峠」

【本文】
東京都民のオアシス高尾山から陣馬山へ向かう奥高尾ハイキングコ
−ス。その途中にハイカーたちに親しまれている小仏峠があります。
標高458m。かつては旧甲州街道の要所として、笹子峠に次ぐ難所
といわれたところ。昔は関所があり、東海道の箱根、中仙道の碓氷
とともに「関東三関」のひとつだったという。

地名は奈良時代の僧、行基(ぎょうき)が大日如来の小仏像を安置
したという伝説からとも、山ろくにあった大日堂本尊大日如来の小
仏に由来するとも、峠の鞍部に1寸8分の小さな石仏像が安置され
ていたことから命名されたともいう(『新編武蔵(国)風土記稿』)。

小仏峠は旧甲州街道が武州(埼玉・東京)から相州(神奈川県)へ
越す峠。いま小仏峠には、梵字の下に「高尾山道」と書かれた古い
道標と、営業休止で廃屋化している2軒の茶店、それに地蔵(白い
前掛け)のそばに、明治天皇の山梨巡幸(1880年・明治13)の時
の「明治天皇小佛峠御小休所阯及御野立所」の石碑と、同行した三
条実美の歌碑があります。

また広場にタヌキの置物が置かれ、そして小仏城山方面への登り口
に、1795年(寛政7)銘の道標つき庚申塔(青面金剛像)と、赤
い前掛けをした地蔵が建っています。この地蔵は、昔この地に関所
があったころ、道中の安全を願って建てられたもの。近年300余年
を経て修復されたというから古い。これらの前には花が供えられ、
その管理と供養が関係有志と小仏茶屋主の奉仕によって行われてい
るそうです。

このあたりは戦国時代、ご多分に漏れず合戦が行われたところ。1560
年(永禄3年)8月、越後の長尾景虎(上杉謙信)は上野国厩橋(う
まやばし・前橋城、いまの群馬県前橋市)に出馬、関東遠征を開始
します。この長尾軍に属した岩付城(いわつきじょう・現埼玉県岩
槻市)城主、太田資正(すけまさ)は、翌年2月には景虎ととも
に武蔵の霊場である高尾山ろくまで遠征。小仏谷に「於武州小仏谷、
関越所軍勢、濫妨(らんぼう)狼藉堅制止」(越後谷関東の軍勢の
高尾山に対する乱暴狼藉を戒めて、違犯したものは罪科に処す)
との制札を掲げています。

その翌年の1561年(永禄4)、謙信は、越後兵8000に関東各地の反
北条の諸将を加えた大軍を率い、北条氏康を滅ぼすべく、神奈川
県小田原の小田原城を包囲攻撃します。大軍勢に攻められた小田
原北条氏康は、駿河(静岡県)の今川氏真や、甲斐(山梨県)の
武田信玄に救援を要請し、小田原城に籠もって籠城戦に徹して耐
え抜きました。

その結果、謙信は攻めあぐね、包囲は1ヶ月の及んだものの、鎌
倉に引き上げて関東管領職に就きました。長尾景虎から上杉政虎
と改名したのはこの時のことだそうです。そしてこの年の秋、上
杉謙信は武田信玄と信州川中島で激突することになります。

小田原城を守りきった北条氏康は、再び関東支配に乗り出し、高
尾山に接近する滝山城(いまの八王子市丹木町)に、2男の氏照
を当てました。1569年(永禄12)になり、こんどは武田信玄が滝
山城の北条氏照を攻めるため遠征にでてきました。

その武田本隊とは別に、山梨県大月・岩殿城の小山田信茂は、直接
八王子へ向かいました。滝山城の北条氏照は、当時の交通路から見
て、小山田信茂は多摩川、秋川上流の奥多摩方面から進入すると予
想しました。そして戸倉城(とくらじょう・いまのあきる野市)な
どに城兵を派遣したのですが、あにはからんや小山田隊は、小仏峠
を越えて攻めてきたのです(『甲陽軍鑑』)。

不意をつかれた北条軍は大慌て。取り敢えず滝山城に籠城するしか
ありませんでした。しかしこれをなんとか防ぎきった北条氏照は、
ひとえに高尾山の飯縄権現のお陰であるとして、高尾山への信仰
をより深めたという。それからの氏照は、小仏峠をより強固にす
るために、高尾山に近い八王子城を築きます。

それについて氏照は1578年(天正6)、「八王子に新城を築いてい
るので、勝手に竹木を伐採してはいけない、山内の竹木一草なり
とも取るものがあれば、その首を切る」との制札を出します。何と
も厳しい話です。滝山城から移ってきた氏照は、小仏峠に関所を
設けます。当時の関所は、いまの峰上の道より南東方角、頂上に
松が2、3本あるあたりだったそうで、関所の礎石があるそうです。

ところが、小仏峠は人家から遠い山中、不便でしょうがありません。
仕方なく1580年(天正8)、山ろくの駒木野(八王子市裏高尾町)
に移したという。その後、何回か関所移転がくり返されます。天
正17年(1589・安土桃山時代)には、北条氏照が甲斐方面の防備
のため、小仏峠の上に再び関所を設けます。大分混乱していたよ
うです。富士山詣の行者がここを越え、甲斐方面へ向かったことか
ら「富士関」とも呼ばれたそうです。

この関役所は、鉄砲30、弓30,計60人もの兵によって関所は固め
られていたといいます。それほど甲斐武田軍は脅威だったのです
ね。峠には昔から茶店などがあり、「昇降二里、ここに茶店二、三
件あり」、古くより名産と称して赤飯を出したと、1820年(文政3)
の『武蔵名勝図会』に記しています。また「絶頂より西方に富士
峰を望むことができるので、往古はこの峰を富士の関または富士の
峠などと称し、頂上に浅間の小祠を祀る」と記しています。

1858年(安政5)の『五海道道中細見記』という本にも、峠には
武州多摩郡側に「休所むさしや」があり、ほかに3,4軒の家が
描かれ、峠から西方に下った所に「中の茶屋」が記されています。
幕末の元治元年(1864)7月には、水戸天狗党取り締まりのため
に新規関所が設けられたりもしました。

このように何回か移転がくり返されたことから、ふもとの駒木野に
移ってからも万治、元禄、享保、元文、文政年間になるまで、しば
らくは、関所手形や鉄砲手形、女通御手形納目録などに、「小仏御
関所」だったり、「小仏関所」と「駒木野関所」を並列、また「小
仏関所」など関所の表記に混乱が見られたという。

いま駒木野の関所跡には、竹の柵に囲まれて「史跡小仏関」の石碑
が建ち、「手形石」、「手付石」という2つの石あります。この石は,
ひとつの石に手形をのせ、もうひとつの石に両手の掌をのせるもの
で、検問者はその掌を見れば、大体の職業の見当がついたのだとい
う。

さて、この関所は、信濃の飯田、高遠(たかとお)、諏訪3藩の参
勤交代の道筋で、甲州勤番ほかの旅人も多く、関所の統制は厳し
かったという。甲州道中沿いに流れる小仏川・案内(あんない)
川が合流するあたりの芝地小名路(こなじ)に成敗場があり、関所
破りの処刑が行われたそうです。実際、何件か処刑が行われた記録
があります。

その刑を見聞きした上椚田(かみくぬぎだ)村の住民の書いた「石
川日記」という文書もあります。その明和8年(1771)の「御仕置
高札之写」には、首謀者神田無宿万蔵と、万蔵に雇われて手を貸し
た下高輪(しもたかなわ)村(いまの品川区)の又兵衛、それに信
州馬籠(まごめ)村(いまの長野県山口村)駕籠かき源六の3人が、
大阪から女性を誘いだし、江戸へ向ったという。

途中、木曽福島(いまの長野県木曽福島町)の関所を破ってから、
小仏関所を抜けるために山越えした所を発見され、代官や検問役人、
奉行所などから出張、成敗場ではり付けの刑に処されたという。ま
た馬泥棒が夜陰に紛れて関所を破ろうとして捕まり、はり付けにさ
れた記録もあります。

▼小仏峠【データ】
【所在地】
・東京都八王子市と神奈川県相模原市緑区(旧相模湖町)との境。
中央本線相模湖駅の北東3キロ。JR中央本線高尾駅からバス、
小仏停留所下車、さらに歩いて50分で小仏峠。青面金剛(庚申蔵)、
地蔵、石碑、茶屋跡がある。

【名峠】
・井出孫六選定「日本百峠」(第29番選定:東京都)

【位置】
・小仏峠:北緯35度38分09秒、東経139度13分00秒

【地図】
・旧2万5千分の1地形図名:与瀬

【参考文献】
・『角川日本地名大辞典13・東京都』北原進(角川書店)1978年(昭
和53年)
・『角川日本地名大辞典14・神奈川県』伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
・『かながわの峠』植木知司(神奈川合同出版)1999年(平成11)
・『かながわの山』植木知司(神奈川合同出版)1981年(昭和56)
・『甲陽軍鑑』(こうようぐんかん):江戸時代初期に編纂された軍
書。甲斐武田氏の戦略・戦術を記した軍学書。
・『五海道道中細見記』:大城屋良助著 安政5年(1858)刊 『東講
商人鑑』(安政2年(1855)に刊行)の付録として配付された道中
図。
・『山岳宗教史研究叢書8・日光山と関東の修験道』宮田登・宮本
袈裟雄(みやもとけさお)編(名著出版)1979年(昭和54)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『新編武蔵(国)風土記稿』(『新編武蔵風土記』、外題『新編武
蔵国風土記稿』、『新編武蔵』『風土記稿』などともいう)江戸幕府
編纂の地誌(1810・文政11年):『大日本地誌大系』蘆田伊人(あし
だ・これと)編輯(雄山閣)。
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本百名峠』井出孫六編(桐原書店)1982年(昭和57)
・『日本歴史地名大系13・東京都の地名』児玉幸多ほか(平凡社)
2002年(平成14)
・『日本歴史地名大系14・神奈川県の地名』鈴木棠三ほか(平凡社)
1990年(平成2)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『武蔵名勝図会』(植田孟縉撰)1820年(文政3):多摩郡一円の
名所旧跡を名所図会風に編したもの。

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
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