山の民俗伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼1000号「富士山にもあった地球空洞への入り口・人穴」

【序文】

地球の中は空洞であり、中には別の世界がある…。これは「地球空
洞説」です。富士山の下にも空洞があり、別の世界があるという。
裾野の富士宮市には中へ入る入り口があるという。源頼朝の子、鎌
倉2代将軍頼家は家臣新田四郎に「富士の人穴(ひとあな)」の探
検を命じました…。
・静岡県富士宮市

(本文は下記にあります)

▼1000号「富士山にもあった地球空洞への入り口・人穴」

【本文】

地球の中は空洞であり、中には別の世界がある…。これは「地球空
洞説」です。また甲賀三郎が長野県蓼科山(2530.31m)の山頂の
穴から地底にある別の世界を遍歴した話もあります。ところがここ
富士山の山ろくにも、別世界への入り口の穴があるというのです。
その穴を「富士の人穴」といい、大昔から語り伝えられてきたとい
う。

その中でも、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』の建仁(けん
にん)3年(1203)6月1日と3日、4日の条にあるのが記録の
最初らしい。「…和田平太胤長(わだのへいたたねなが)が伊豆伊
東崎の洞穴に入り、また新田四郎忠常(にたんのしろうただつね)
が富士の人穴に入って翌日帰還した」とあるのがそれ。

なお新田四郎の名が、これから出てくる参考書、『富士の人穴草子』
では新田の四郎忠綱に、『鎌倉北条九大記』では仁田四郎忠常とな
り、煩雑なので以下、新田(仁田)四郎忠常(忠綱)と表記します。

その『吾妻鏡』にある史実をもとにして書かれたのが有名な『富士
の人穴草子』(室町末期成立)だそうです。その内容は、源頼朝の
子・鎌倉2代将軍頼家の命を受けた新田(仁田)四郎忠常(忠綱)
が「富士の人穴」に入り、富士山のご神体である浅間権現の案内
で、穴中地獄にかたどられた富士の人穴の中を見て回ります。

しかし新田(仁田)四郎忠常(忠綱)は権現から「人穴地獄の様
子を他人に語るな」と戒められながら、その禁忌を破って頼家に
報告したために、命を失ってしまうという内容です。

この『富士の人穴草子』の本が出てからは、『鎌倉北条九代記』延
宝3年(1675)や、江戸享保(きょうほう)年中(1716〜36年)
の『翁草』(※江戸時代後期の随筆)などが著わされます。そして
そのほかにも次々と似たものが発表され、読まれ広まり、明治時
代の末期ごろまで続いたといいます。そして最期には、新田(仁
田)四郎が神奈川県江ノ島洞窟に抜け出たとする本までがあらわ
れたそうです。

そもそもこの人穴とは、富士山ろくに流れ出した溶岩流の中に出
来た溶岩トンネルなのだそうです。その中は天上が美しいアーチ
形の曲線を描いた、かまぼこ形の横断面をしており、床面は洞窟
の中に流れ込んできた2次溶岩流の表面で平らになっているそう
です。

この古くからある富士の人穴は、富士山の神・浅間大神にまつわる
地として神聖なところ。ここで修行を積んだのが長谷川角行という
富士行者という富士講の創始者です。こうしたことから、人穴は
富士信仰(富士講)にとっての一大聖地になりました。そのため人
穴周辺には信者による碑の建立が相次ぎ、いまでも230基の碑が建
ちならび「人穴富士講遺跡」として保存されています。

ここはいまは富士五湖めぐりのコースになっていて、付近に田貫
湖、白糸の滝があり、遺跡案内人もいる観光地になっています。
ただし穴のなかに入るのは、取材に行った2017年(平成29)12月
現在、崩落の危険性があるために立入禁止になっています(穴の
中を整備して2,3ヶ月のち開放するとの話もあるそうです)。

さて、いままで出てきた古書の内容をふり返ってみます。一番最初
の『吾妻鏡』は、鎌倉時代の建仁三年(1203)六月大の条)にあ
ります。そのの内容は、「(※6月)一日、丁酉(※ひのととり)、
晴、将軍家、伊豆の奧の狩倉に著御(※着き御(たまう)、而(し
かる)るに伊東崎と号するの山中に大洞有り、其源の遠さを知ら
ず、将軍之を恠(=怪・あや)しみ、巳剋(※みのこく)、和田平
太胤長を遣は(※つかわ)して之を見せらるるの處、胤長火を挙げ
て彼の穴に入り、酉刻帰参す、申して云ふ、此穴行程数十里、暗
くして日光を見ず、一(※匹)の大?(だいじゃ)有り、胤長を
呑まんと擬するの間、劒を抜きて斬殺し訖(お)わんぬと云々。」
(※この穴は富士の人穴ではない)。

さらに、「(6月)三日、己亥(※つちのとい)、晴、将軍家駿河国
富士の狩倉(※かりくら・狩猟や騎射の場として管理していた山
野)に渡御(※とぎょ)、彼の山麓に又大谷有り、<(この部分2
行書き)之を人穴(※ひとあな)と號す>其所を究め見(見極め)
しめんが為に、新田四郎忠常主従六人を入れらる、忠常御劒(重
宝)を賜はりて人穴に入る、今日は帰出せずして暮れ畢(おわ)
んぬ」。

またさらに、「(6月)四日、庚子(かのえね)、陰、巳剋(※みの
こく(巳刻)・午前十時頃)、新田四郎忠常、人穴より出でて帰参
す、往還に一日一夜を経るなり、此洞狭くして踵(きびす)を廻
らす能わず、意のままに進み行かれず、又暗くして心神を痛ましむ、
主従各松明(※たいまつ)を取る、路次の始中終(しちゅうじゅう)、
水流れて足を浸し、蝙蝠(※コウモリ)顔を遮り飛ぶこと、幾千万
なるかを知らず、其先途は大河なり、逆浪流を漲(※みなぎ)らし、
渡らんと欲するに據(※きょ・拠)を失ひ、只迷惑するの外無し、
爰(※ここ)に火光に当たりて、河の向に奇特を見るの間、郎従四
人忽ち死亡す、而るに忠常彼の霊の訓に依り、恩賜の御劒を件(※
くだん)の河に投げ入れ、命を全うして帰参すと云々、古老の云ふ、
是(※これ)浅間大菩薩の御在所、往昔(※おうじゃく)より以降、
敢て其所を見るを得ずと云々、今の次第尤も恐る可(※べ)きかと
云々」と続きます。

早い話が、建仁(けんにん)3年(1203年)6月1日、源頼家は
伊豆で伊東崎にあった大洞を、和田平太胤長に探検させました。
さらに3日になると、こんどは富士の裾野一帯で巻狩りを行いまし
た。ここにもまた大洞があり、これを人穴といっていました。頼家
は家臣の新田(仁田)四郎忠常(忠綱)を呼びつけ人穴探索を命じ
ました。忠常(忠綱)は家来5人を連れて人穴に入りました。しか
し、忠常(忠綱)たちはその日には帰ってきませんでした。

6月4日になって忠常(忠綱)が人穴から帰ってきましたが、その
報告によると、穴の中は蝙蝠が飛び交い、蛇が足元をウジャウジャ
とはっているというありさま。さらに千人もの人が鬨(とき)の声
をあげたような大音声がしたかと思うと、時々人の泣く声も聞こえ
てくるような気味の悪さです。

さらに進むと奥にこんどは大河があって渡ることができません。見
ると川の向こう側に光があり、その中に不思議な姿の人があらわれ
ました。その時、たちまち4人の家来が急死してしまいました。忠
常(忠綱)は恐れおののき、その霊からいわれたとおり、頼家から
授かった刀を川に投げ捨てて逃げ出してきたということでした。こ
の話を聞いた土地の古老は「この穴は浅間大菩薩が住んでいる場所
なのだ」といい、大昔からそこには入ってはならぬとされていると
いう。

この『吾妻鏡』の話をふまえて書かれた本が有名な『富士の人穴
草子』(室町末期成立)です。ただし、『富士の人穴草子』の本文
には「承治元年四月三日」とありますが、そういう年号は見あた
りません。これは治承元年(1177年)のことでしょうか?。しか
しこの年は「石橋山の戦い」の3年前で、頼家の時代ではありませ
ん。なお『富士山・史話と伝説』(p124)という資料では、正治(し
ょうじ)2年(1200・鎌倉前期)になっています。この年は頼朝が
没して頼家が将軍を継いだ翌年になるので、こちらが本当かも知れ
ませんネ。

ま、それはさておき、『富士の人穴草子』の本文に入ります。「抑
(そもそも)承治元年四月三日と申すに、頼家のかうのとの(※代
の殿)、和田平太を召して仰せけるは、「如何に平太、承(※うけた
まわ)れ、昔より音に聞く富士の人穴と申せども、未だ聞きたるば
かりにて、見る者更になし。さればこの穴に如何なる不思議なる事
のあるらむ、汝入りて見て参れ」と仰せければ、畏(※かしこ)ま
って申す儀、「これは思ひもよらぬ一大事の御事を仰せけるものか
な。

天を翔(か)くる翼、地を走る獣(けだもの)を獲りて進(※まい)
らせよとの仰せにて候はば、いと易き御事にて候へども、之は如何
候べきやらむ、如何にして人穴へ入りて、又二度とも立返る道なら
ばこそ」と申上げければ、頼家重ねて是非共と仰せありければ、御
意を背き難くて、二つなき命をば、君に参らせむとりやうしやう申
し、御まへをこそ立たれける…」と長い文が続きます。

こうしてなんだかんだといいながらも和田平太は人穴に入っていき
ました。穴の中では奇妙なことが次々におこり、口から真っ赤な舌
を出した蛇がウヨウヨとうごめいています。そこを飛び越えた平太
の前に、こんどは一人の十二単衣(ひとえ)に緋(ひ)の袴をはい
た女性が現れ「すぐに帰られよ、さもなくば汝と頼家の命はないも
のと思え。

また汝は将来反逆の罪で島流しになる運命になる」との予言、その
上、岩穴の奧から生臭い風とともに毒息を吐いた蛇たちが大きな口
を開けて集まってきました。たまらず、和田平太は物もいわずにそ
のまま鎌倉まで逃げ帰ってしまいました。それを聞いた頼家は奧ま
で行けなかったことを残念がり、こんどは探検できた者には千町の
知行地を与えようと「懸賞」をつけて募集しました。

そこへあらわれたのが新田(仁田)四郎忠常(忠綱)という武将で
した。忠常(忠綱)が人穴に入っていくと富士山神の浅間大菩薩が、
十二単の女房や、毒蛇、また童子など次々に変身してあらわれます。
そして大菩薩の案内で、地獄、餓鬼、畜生各道、また閻魔庁・極楽
などを見学して帰還しました。

しかし、洞窟から出る時大菩薩は金色に光る冊子を忠常(忠綱)に
手渡し、「これを開き見るのは3年3月経ってから箱根ですべし。
また穴の中の模様も人に話してはならぬ」と申し渡されました。し
かし、主君頼家公の強い命令で、中のことを報告してしまったため、
忠常(忠綱)はその場で命を失ってしまいました。そして最後に
富士への信仰を勧めて物語は終わります。

さらにまた『鎌倉北条九代記』延宝3年(1675)という本では、「…
同じき(※建仁3年6月)三日将軍家駿河の国富士の狩倉におもむ
き給ふ、山の麓にまた大なる穴あり、世の人是を富士の人洞とぞ名
づけける、此穴の奧を見極めさせられんがためにとて仁田四郎忠常
(※ママ)を召して重宝の御劒を給わり、汝この穴の中に入て奧を極
めて来るべしとの上意なり、忠常畏まりて御剣を給わり御前をまか
り立て主従六人穴のうちにぞ入りける、次の日四日の巳(み)の剋
(※こく)に仁田四郎忠常人穴より出でて帰り来る、往還すでに一
日一夜を経たり将軍家御前に召して聞きしめす、忠常申けるやう此
洞ははなはだ狭くして踵(※きびす)をめぐらす事叶ひがたし…」
と、続けています。

要するに、「この穴の中に入て奧を極めて来るべし」と頼家から命
令を受け、劒を給わった新田(仁田)四郎忠常(忠綱)は、6月3
日に主従6人で人穴に向かいました。…そしてその日は暮れていき
ました…。巳の刻になり…、忠常(忠綱)と家来1人が帰ってきま
した。…忠常(忠綱)は、頼家の前で語りはじめました。

「洞穴は初めは狭くて首を入れると後ずさりも出来ない程窮屈でし
た。さらに手に松明を持って進んでいくと、やがて広くなり、水が
流れていて…天上からは奇岩がぶら下がっていました…その時数え
切れない程のコウモリが松明や顔にぶつかってきました。黒いコウ
モリの中には白いものも混じっていました。

先に進むと冷たい水のなかで、小さな蛇が足元に足にまといつきは
じめました。それらを刀で切りながら、やっと蛇の川から抜け出し
ました。天上からは鐘乳が何本も垂れ下がっています。そこを過ぎ
た時、ゴオーというものすごい大音響が聞こえました。

なおも進んでいくと、こんどは人間がすすり泣くような声が聞こえ
てきました。その広場を通り過ぎ、つぎの洞穴に前進しました。す
ると、ザザーッという音が聞こえ、大きな河があらわれました。渡
ろうとしている時、向こう岸に八幡大菩薩があらわれました(※こ
こでは浅間大菩薩ではなく八幡大菩薩になっている)。

新田(仁田)四郎忠常(忠綱)は、松明に火をつけました。見ると
従者はみんな倒れ伏していて、息を吹き返したのは1人だけだった
のでした。それを聞いた主君の頼家は、「もっと人数を増やして探
検して、奧の方まで調べよう」といいました。それを聞いて古老は
恐れ、「この穴は浅間大菩薩の住んでいるところだ」といったとい
うのです。

さらに江戸享保年(きょうほう)中(1716〜36年)の『翁草』(※
江戸時代後期の随筆)という本では、おおよそ、一浪士が人の制
するのも聞かずに入洞したが、なんと奥行き30間ばかりで行き当
たりとなり、ただコウモリの多いことだけで、なんの怪しきことも
なし)というような内容になっています。

そしてまた、こんな不思議な文書もあるのです。江戸の中期(元文
3年・1534)になって改めてこの人穴に入った人がいるというので
す。この人穴探検秘録によると「?(きょ)(※去の異体字)元文
三年(1738)丙午(ひのえうま)六月十一日酉(とり)乃剋(こ
く)三人連(れ)尓(=爾・に)天人穴江(へ)入(り)、一人ハ
江戸能(の)住人山中弥平歳四十三才、一人者(は)埼州尼崎の住
人前田十次郎二十四歳、一人者(は)九州長崎の人渡来源左衛門、
各三人申合(せ)後年(の)物語尓(に)せんと天(マ)則(ち)
腰兵粮(ろう)(※=糧)用(を)急い多(た)し、…」と続きま
す。

要約しますと、元文3年(1534)の6月11日に江戸の山中弥平と、
前田十次郎、渡来源左衛門が、のちの世の語りぐさにしようと、腰
兵粮(こしひょうろう)を用意し、各々松明(たいまつ)を持ち、
声をかけ合って進んで行きました。穴の入り口5町ばかりは広く、
それより先は狭くなり体も通せないほどになりました。1人がやっ
と通れるくらいで、思うように勧めません。

それから先は忠常(忠綱)が出くわしたような奇怪な出来事が次々
にあらわれます。そのうち山中弥平たちは、この地底で妙な石碑を
発見します。その石碑には「大日本山麓の穴なり。然るにここより
一里参れば大河あり。ここに参りて人命帰らず。忠常」とありまし
た。これは建仁(けんにん)3年(1203)、新田(仁田)四郎忠常
(忠綱)がこの人穴に入り、命からがら逃げ帰る時、大岩に刀で
刻みつけたものだというのです。

それを見た3人は「にわかに恐(こわ)けだち」、大急ぎで逃げ帰
ったという。ところが地上に戻った3人はビックリ仰天。せいぜ
い半日くらいの地中探検だったのに、戻った日付は6月14日にな
っていたという。地下の半日が地上では3日過ぎていたのです。「今
浦島太郎」現象だったというのです。この巻物にはイラストにあ
るように、地底内の地図らしきものまで残っています。ホントカイ
ナ。

▼富士の人穴【データ】
★【所在地】
・静岡県富士宮市人穴。JR身延線富士宮駅からバス、白糸滝バ
ス停で乗換、畜産試験場北口バス停下車、徒歩で約35分で人穴浅
間神社(人穴富士講遺跡)

★【位置】
・富士の人穴:北緯35度21分41.94秒、東経138度35分27.88秒

★【地図】
・旧2万5千分1地形図名:人穴

★【参考文献】
・「あしなか・第72輯」:『あしなか・第4冊』(第61輯〜第80輯)
山村民俗の会(名著出版)1981年(昭和56)
・『吾妻鏡』(巻之十七):『吾妻鏡・3』龍(りょう)粛(すすむ)
訳注(岩波書店)1997年(平成9)
・『翁草』(第四)神沢貞幹編[他](五車楼書店)明治38(1905)

・『鎌倉北条九代記』(浅井了意)延宝3年(1675):『鎌倉北条九代
記』(思誠堂)明治17(1884)年
・『日本架空伝承人名事典』大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成
4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『富士山・史話と伝説』遠藤秀男(名著出版)1988年(昭和63)
・『富士山の洞穴探検』(怪奇と伝説)遠藤秀男(録星社)1995年
(平成7)
・『富士の人穴草子』:(日本文学大系19)『お伽草子』(国民図書)
大正14(1925)年

 

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画
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 (主に画文著作で活動)
【ゆ-もぁ-と】事務所
山のはがき画の会

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