山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼943号「山梨県・大月駅前の岩殿山」

【略文】
JR中央本線大月駅の目の前にそびえる岩殿山。丹沢の姫次の名の
もと折花姫のふるさとでもあります。父親は城主の従弟小山田行村。
城主の小山田信茂は武田信玄の子、勝頼に仕えていましたが謀反を
起こし、甲斐武田氏滅亡へと導いた本人です。またここには桃太郎
伝説もあります。
・山梨県大月市。

・【本文】は下記にあります。

▼943号「山梨県・大月駅前の岩殿山」

【本文】
JR中央本線大月駅の北東、駅の目の前に大岩壁の岩殿山があり
ます。標高640mと低山ながら、富士山の眺めが素晴らしく、春
はサクラの名所にもなっています。山頂はフェンスに囲まれた山頂
部は無線等の中継基地になっていますが、16世紀、都留市の領主
小山田氏の居城で、付近には城門、兵舎、馬洗などの遺構もありま
す。また駿河の久能山や上野の吾妻山とならぶ名城として知られ、
古くは真言道場として栄えたところ。

突然ですが、丹沢に「姫次」という所があります。主峰といわれる
蛭ヶ岳から北へ行ったところです。姫次の姫は折花姫(おりばなひ
め)といい、生まれ故郷は大月の岩殿山です。父は戦国時代の武将
で、岩殿山城を居城にしていた小山田信茂の一族(従弟)の小山田
行村。天正10年(1582)、小山田信茂が織田の手によって処刑され
ます。岩殿山城の城代を勤めていた小山田行村は従兄の処刑を知り
「織田はここにも必ず攻めてくる」と、身内の者とともにここ大月
から神奈川県丹沢山中奥津久井へと逃れたのでした。

小山田行村には愛姫折花姫がいました。織田の追っ手に追いつかれ
た幸村はせめて折花姫だけでもと爺と姥をつけて山中奥深く逃がし
ました。しかし爺、婆は途中で追っ手に殺され、折花姫はひとり姫
次までたどり着きましたが、ついに追いつめられます。「もはやこ
れまで」姫は懐剣で喉を突いて自害したのでした。そのため「姫次」
の名は「姫突き」が正しいとの説もあります。

そもそも岩殿山は、奈良時代のエライ坊さん、行基菩薩にはじまり、
山岳宗教の修験道場だったという。その後室町時代の文明19年
(1487)には聖護院道興という名僧が訪れ、「あひがたきこの岩殿
の神や知る世々に朽やぬ契ありとは」と歌を残しています。戦国時
代になり大永7年(1527)、いまの都留市中津森に館をかまえた郡
内領主小山田氏が東方の相模や武蔵に対してにらみをきかせた国境
防備のため築城としたもの。

岩殿城主は小山田越中守信有、出羽守信有、兵衛尉信茂の三代続き
で、武田三代に仕えてきました。武田信玄の死後、その子勝頼は天
正3年(1575)、長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗。7年後
の天正10年(1582)、同じ織田・徳川の攻撃を受けました。長野県
高遠城で敗退したのち、築城したばかりの山梨県韮崎市の新府城に
火を放ち、拠点である府中(現甲府市)も捨てて、大月の岩殿城の
小山田信茂を頼ろうとしました。しかし、途中で信茂の謀反を知り
大菩薩嶺に向け日川を遡ろうとしました。

だが追う織田勢は、各地で徹底的な探索を行っています。手勢も新
府城で5〜600人いたものが40人ほどになっています。勝頼は笹
子峠から甲斐大和駅近くの山梨県甲州市旧大和村にある武田家の菩
提寺天目山栖雲寺へ逃げようとしましたが、途中ではばまれてしま
いました。万策尽きた勝頼主従は、ふもとの田野で互いに差し違え
自刃。こうして甲斐武田氏は滅亡しました。いまでも旧大和村田野
にある景徳院には、勝頼や奥方の生害石や一族郎党のお墓がありま
す。

その後、小山田信茂は、織田家への帰順を求め、褒美を望みました
がかえって、「主君を裏切った不忠者、信用できん」と甲府・善光
寺の織田方の本陣で処刑されてしまったのです。この小田信茂の謀
反について、『大月市史』によると、勝頼にははじめから勝算がな
く、むしろ戦いから領土の荒廃を守るための措置だったといってい
ます。毎年夏、岩殿山を中心に大月市の「かがり火」が行われ、こ
れは落日の武将たちへの鎮魂の祭だといいます。

織田勢から逃れて、岩殿城をあとにした城代の小山田行村の一行が、
裏山づたいに落ちていく時、屏風のように三方にめぐっている絶壁
の「呼ばわり谷」まできました。ここは話し声が幾所にも響くとこ
ろ。行村の夫人が従者の小幡弥三郎と話をしたところ、声があちこ
ちに響いて大勢の声に聞こえ、追っ手の声と勘違い。その上夫人が
抱いていた乳児がお腹を減らして泣きだしました。夫人はやむなく
乳児を絶壁から投げ捨て、自分もその場で自害しました。それでこ
こを「稚児落とし」というそうです。

ここにはまた、桃太郎の鬼退治伝説もあります。昔、岩殿山の北東
にある百蔵山(ももくらさん・1003.4m)から大きな桃がひとつ葛
野川に転がり落ちて流れていきました。桃は上野原の鶴島というと
ころで洗濯していた老婆に拾われた。食べようと割ると中から男児
が誕生、桃太郎と名づけました。桃太郎が生まれる以前から、岩殿
山に赤鬼がすみつき、里に出ては女子供をさらったり牛馬を奪って
食ったりして、人々は難儀していた。この赤鬼は、岩殿山の南方に
ある九鬼山(くきさん・970m)で起こった鬼の内乱で追われてき
たのだという。

成長した桃太郎はその話を聞いて、老婆に黍団子をつくってもらい、
鬼退治に出発しました。途中、犬目宿で犬を、次に鳥沢宿でキジを、
猿橋宿で猿を家来にしました。一行は岩殿山のふもとに着き、大声
で名乗りを上げました。鬼は怒って持っていた石の杖を二つに折っ
て、一つを左手で投げつけました。それは途中の畑に物凄い勢いで
突き刺さり、轟音と共にあたり一帯を揺らしました。そのためにこ
こを石動(いしどう)と呼び、いまも畑の中に突き立っている岩が
あり、鬼の杖と呼んでいます。

桃太郎は西の方へまわりました。その桃太郎めがけて、鬼が残った
杖を投げてきました。それは笹子の白野という集落の境に突き刺さ
り、いまは鬼の立石と呼ばれています。桃太郎はなおも岩殿山の山
頂へ攻め登りました。キジが鬼の目をつつき、猿が鬼の頬にかみつ
きました。鬼の黒い血がほとばしり岩殿山一帯の土は赤土になりま
した、これを鬼の血と呼んでいます。

また、このとき鬼の流した涙が浅利川になりました。さらに犬に噛
みつかれた鬼は悶絶、逃げようと東の山へ足をかけましたが、そこ
で桃太郎に腹を切られ、桂川に転落死してしまったという。鬼の内
臓が固まったといわれるところを鬼の腸と呼んでいます。またおじ
いさんとおばあさんが百蔵山の桃を食べて若返り、生まれた子が桃
太郎だという話もあります。

桃太郎伝説は、岡山県が有名です。しかし「岡山の桃太郎」は、昭和以
降に「はやり」だしたものだというのです。昭和のはじめごろ、岡山在住の
難波金之助という人が、『桃太郎の史実』という本を出版。そのなかで桃
太郎物語を吉備津彦と結びつけ、桃太郎岡山発祥説を唱えましたが評
判はイマイチ。

時は過ぎ、昭和37年(1962)に岡山県で開かれた国民体育大会開催
の時、当時の岡山県知事が、この地域おこしの宣伝戦略として桃太郎を
利用したのが最初という。一方、明治23年(1890)の菱川春宣が描いた
桃太郎の錦絵には、背景に明らかに富士山とわかる山が描かれていると
いうのです。

だからといって即、そこが大月だとはいえませんが、貴重な物証ではあり
ます。地元大月市では、新しい名物を作りたいと、きびを栽培し大月の郷
土料理に練り込んだ「きび団子汁」を3年前に考案。また大正時代に売ら
れていた桃太郎もちの復刻版をこの春、山梨県内に住む大学生が開発
して販売もしています。山の伝説に遊ぶにはもってこいのところです。

▼岩殿山【データ】
【所在地】
・山梨県大月市。JR中央本線大月駅の北東1キロ。JR中央本
線大月駅からさらに歩いて1時間30分で岩殿山。写真測量による
標高点(634m)。電波塔がある。山頂直下に展望台と東屋がある。
地形図上には山名(岩殿山)とその標高、電波塔、城跡の記号が記
載。

【位置】
・岩殿山標高点634m:北緯35度37分18.62秒、東経138度56分
59.54秒

【地図】
・旧2万5千分の1地形図名:大月

【参考文献】
・「エリアマップ・山と高原地図・23」(塚田正信著)昭文社(昭和56
年版)
・『角川日本地名大辞典19・山梨』竹内理三(角川書店)1991年(平
成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本の伝説・甲州の伝説』土橋里木ほか(角川書店)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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