山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼942号「大分県九重山と久住山・ふたつのくじゅうさん」

【前文】
九重山と久住山、ふたつの「くじゅうさん」でまぎらわしい。この
連峰は豊後と肥後とにまたがっており、豊後側九重山白水寺と、肥
後側久住山猪鹿狼寺があり、山号が「九重山」と「久住山」。当然、
地元豊後側では「九重山」といい、肥後側では「久住山」と呼んで
いたという。
・大分県九重町と竹田市旧久住町。

・【本文】は下記にあります。

▼942号「大分県九重山と久住山・ふたつのくじゅうさん」

【本文】
九重山は、大分県九重町(ここのえまち)と竹田市の旧久住町(く
じゅうまち)にまたがる火山群で、南西山ろくは熊本県にまで入
っています。九重連山、九重連峰ともいうそうです。一名「九重
三十五峰」といい、1000mを超える山が35峰もあるという。九重
の山名はトロイデ型の火山が9つ重なっていることによるとの説も
あります。

最高峰は中岳(1791m・竹田市)で、大船山(たいせんざん・1787.1
m・竹田市)、久住山(くじゅうさん・1786.8m・竹田市)の順。
ほかに三俣山(竹田市・九重町)山、稲星山(いなぼしやま・竹田
市)、星生山(ほっしょうざん・九重町)山などの峰々があります。
この山も数千年前までは噴火をくり返していましたが、近世になっ
てからはこれというほどの噴火の記録もなくなっています。ただ、
中岳北西にある硫黄山だけは、いまも噴煙を上げていて、1995年
(平成7)には小噴火もしたそうです。

最高峰の中岳直下の御池は山上の池として、また水の源として崇め
られていて、池を汚すと悪いことがおこるといわれていました。そ
のため、御池の底には参詣者が投げた賽銭がたくさん沈んでいたそ
うです。近代になって硫黄の採掘に従事したものが池にもぐって賽
銭を拾い、酒代にしたという話も残っています。

この御池に隣接して東側一段低いところに空池(からいけ)があり
ます。ここにはこんな伝説があります。昔、ここで猟師が鉄砲で猿
を撃ちました。ところが死んだ母猿は、子猿をしっかりと抱いたま
ま離しません。猟師は見せ物に売るために小さな猿が欲しかった
ので、山刀で親猿の腕を切りました。猟師が血糊のついた刀を近く
の池で洗おうとしたら、池の水がみるみる引いて、もう一方の池に移
ってしました。

水の溜まった方の池に行って洗おうとすると、こんどは水が元の池
の戻ってしまいます。何度かくり返すうち猟師は狂ってしまったと
いう。お陰で水のある池と水のない池がならんでしまいました。人
間に似た猿を撃つことは猟師も余りしないこと。まして池は聖なる
水。それを犯した罰なのだそうです。

それはともかく、九重山には「久住山」というピークがありどちら
も「くじゅうさん」と読み、まぎらわしい。そもそも九重連峰も昔
ほかの山と同じように、霊山と崇められ、信仰の対象でありました。
この連峰は、豊後(いまの大分県)と肥後(熊本県)との境界にま
たがっており、豊後側では「九重山」といい、肥後側では「久住山」
と呼んでいたという。それはふたつのお寺から来ているという。

この山中には九重山法華院白水寺(はくすいじ)と、久住山猪鹿狼
寺(いからじ)があり、それぞれが中岳山頂に近い賽の河原の「上
宮」をまつっていました。しかもお寺の山号が「九重山」と「久住
山」。九重山法華院白水寺は、豊後国(いまの大分県)岡(竹田)
藩領の坊ガツルにあり、一方、久住山猪鹿狼寺(いからじ)は豊後
国内ながら熊本藩(肥後)領の久住高原で下宮として勢力をふるっ
ていたのでした。

当然、地元の豊後側では「九重山」といい、肥後側では「久住山」
と呼びます。明治になり、地図がつくられた当時、中岳と御池がセ
ットで信仰されていました。そんななか、中岳は聖域ということで
遠慮したためか、ここには三角点が置かず久住山に置いたのです。
できあがった5万分の1地形図は、連山の中のその時点で最高峰だ
った地点に「久住山」の名がつけられました。そのため、九重山群
の最高峰は久住山だと思われていました。

明治のころも山名論争が激しかったのですが、その後、最高峰を久
住山、連峰の総称を九重山とすることで、話し合いがまとまりそう
になりました。ところが、最高峰と思われていた久住山の山頂が崩
壊。測量をやり直し、中岳に標高点を置いてみると最高峰は中岳で、
2位が大船山とわかり、久住山は3位になってしまったという。

くやしいのは久住山側の地元、いまだに山名論争がくすぶっている
といいます。『日本百名山』(深田久弥)は、「九重山」の項で「現
在では山群の総称を九重、その最高峰を久住と呼んで、もう誰も意
義を挟むものはいない」とありますが最高峰は中岳であり、山名論
争もはっきり決着はついていないようです。

さて、江戸時代には法華院白水寺は、豊後岡藩(大分県)の庇護を
受けてますます発展し、修験者や禅定者(ぜんじょうしゃ)がたく
さん訪れるようになりました。また猪鹿狼寺(いからじ)も熊本藩
の庇護を受け、法華院と同様に一大山岳霊場として栄えます。しか
し、山上をめぐっての争いは、同じ天台宗でありながら対立し続け
ているのでした。

そんな両寺も明治になると廃仏棄釈の嵐が吹き荒れ廃寺にされ、そ
の後猪鹿狼寺は復興されたものの、法華院白水寺は完全になくなり、
寺宝類の多くが失われてしまったのでした。取り返しのつかないこ
とになってしまいました。

この山は大昔は「タクミ山」といっていたという。『豊後国風土記』
(奈良時代の天平5年(733年)ころに成立との説)には「朽覃(く
たみ)峰」としてでており、『万葉集』(巻十一)(7世紀後半から
8世紀後半)には「朽網(くたみ)山」の名で登場しています。

ところで、豊後国岡藩の第三代藩主の中川久清は大の山好きだった
という。藩主だった間にも5回、大船山になどに登っているという。
もっとも強力が担ぐ人鞍(ひとくら)と呼ぶ背負子(しょいこ)に
乗って登っていたらしいですが。登った記録は藩主在任中の5回だ
けらしけれど、当然若いころや、隠退後も登ったのに違いありませ
んね。久清は「入山」と号して歌なども詠んでいます。

この山に訪れた文人も多い。徳富蘇峰(そほう)が「久住高源有作」
の漢詩をよみ、田山花袋も和歌2首と漢詩を詠み、北原白秋も「草
深野ここにあふげば国の秀や久住はたかし雲を生みつゝ」と歌って
います。また野口雨情も詩を読み、川端康成は九重山を訪れて『波
千鳥』(「続千羽鶴」)を書いています。ほかにも歌人や俳人、作家
で九重を訪れた人は多く、九重山域のあとこちに歌碑や句碑、文学
碑がのこされています。

久住山を主峰とする久住高原の山々からの湧水が各所で大量に湧き
だしています。とくに久住町の「老野湧水(おいのゆうすい)」は、
妙見神社の境内を川となって流れており、本堂の下などから湧きだ
しています。豊の国名水15選 (とよのくにめいすい15せん)に
も選定。江戸時代初期の元和4年(1618)、豊後国岡藩の第2代藩
主中川久盛が、大船山で鷹狩りをした時、老野地区を訪れてここの
湧き水を賞賛しました。とくに古い神の下からわき出るここが気に
入り、祠を建て直して妙見社としたのだそうです。

また「名水・池山水源」は環境庁の「名水百選」に選ばれていて、
水道水、農業用水に利用されています。泉には水神社がまつられて
います。高山植物のミヤマキリシマの大群落は有名です。山の歌に
「坊がつる賛歌」という歌があります。作詞:神尾明正・松本征夫
の1番と2番です。「1番:人みな花に酔うときも、残雪恋し山に
入り、涙をながす山男、雪解の水に春を知る。2番:ミヤマキリシ
マ咲き誇り、山くれないに大船(だしせん)の、峰を仰ぎて山男、
花の情けを知る者ぞ」。

▼九重山【データ】
【所在地】
・大分県九重町と竹田市旧久住町にまたがる。JR久大本線豊後中
村駅からバス、九重長者原-経由牧の戸峠、さらに歩いて2時間で
久住山(一等三角点1786.6m)、1時間で中岳。(写真測量による
標高点(1791m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第95番選定(日本二百名山、
日本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第95番選定(久住山)
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第98番選定

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・中岳標高点1791m:北緯33度05分9.46秒、東経131度14分56.5

・久住山三角点1786.6m:北緯33度04分55.87秒、東経131度14分
27.13秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:久住山、湯坪、大船山


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典44・大分県』竹内理三(角川書店)1991年(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系45・大分県の地名』(平凡社)1995年(平成7)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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