山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼932号「ひつしほひつしほ…・浅間山」

【前文】
「ひつしほひつしほ、わちわち…」と熱泥流は鎌原(かんばら)村
(いまの嬬恋村鎌原区)へ押し寄せていった……。1783年(天明
3・江戸時代後期)の浅間山大噴火を記す文書です。鎌原(かんば
ら)村全村が埋没し、人口597人のうち、466人が死亡したという。
最後に「鬼押し出し」噴き出し噴火は止んだという。噴火の記録は
『日本書紀』までさかのぼるという。
・群馬県嬬恋村と長野県軽井沢町・御代田町の境。
【本文】は下記にあります。

▼932号「ひつしほひつしほ…・浅間山」

【本文】
浅間山(あさまやま)といえば、いまでも噴煙上げる、世界でも
有数の活火山として知られます。長野県佐久郡軽井沢町と群馬県吾
妻郡嬬恋村(つまごいむら)との境にあり、標高2560m。別名さ
んげんやま。ここの「鬼押し出し」の奇勝は有名で観光地になって
います。この山は、成層火山(黒斑山・前掛山・釜山)、楯状火山
(仏岩)、溶岩円頂丘(石尊山・小浅間)などの総称です。

山名の「アサ」はアイヌ語で噴火の意味だとか。また浅間は「せん
げん」で、富士山も昔は浅間山といい、ここも富士山にちなんだ山。
この山の南麓の軽井沢町追分地区にも浅間神社(里宮)があり、大
山祇(おおやまづみ)の神(富士山にまつられている木花開耶姫の
父親)と、磐長姫(いわながひめ・開耶姫のお姉さん)がまつられ
ています。

浅間山は大昔から都にも聞こえていて、古典文学では『伊勢物語』
(平安時代初期)の第八段には「昔、男ありけり。京や住み憂(う)
かりけん、あづまのかたにゆきて、住み処(か)求むとて、……信
濃なる浅間の岳に立つ煙、をちこち人の見やはとがめぬ」とか、『古
今和歌集』(平安時代前期)に「雲はれぬ浅間の山のさましや人の
心を見てこそやまめ」とあります。

また、平安時代後期の公卿、藤原宗忠(ふじわらのむねただ)の日
記『中右記』(ちゅうゆうき)に「国中有高山称麻間峰」とあり、「麻
間」、「朝間」と書かれ、さらに『新古今和歌集』(新古今集とも・
鎌倉時代初期)(巻九)「信濃なる浅間の岳に立つ煙をちこち人の見
やはとがめぬ」在原業平(ありわらのなりひら・平安時代前期の貴
族・歌人)などと出てきます。江戸中期の1760年(宝暦10)6月、
文人画家の池大雅も沓掛から登って写生し、詩文も創っています。

この山の噴火の記録は『日本書紀』までさかのぼるという。『日本
書紀』巻第二十九の天武天皇14年3月の条に「是(こ)の月に、
灰(はひ)、信濃国に零(ふ)れり。草木皆枯れぬ」とあるのが最
初だといいます。天武天皇14年といえば西暦685年のいまの暦で
いえば4月頃に当たります。

有史以後の2大噴火は1281年(弘安4)と1783年(天明3)にお
き、ともに大爆発。以来1900年(明治33)まで記録に見える噴火
だけでも44回にもなるというからかなりな暴れ山です。なかでも
1783年(天明3・江戸時代後期)の噴火は有史以来まれに見る大
爆発で、5月9日の噴煙で灰が降ったのにはじまり、8月5日まで
の88日間も活動がつづき、最後に「鬼押し出し」(延長5250m、
厚さ50〜60m)が噴き出しました。

この時の爆発で火山灰が空中にただよい、気象異変がおこり「天明
の大凶作」になりました。8月5日、最初の熱泥流は北方の上州方
面に押し出し、利根川に流入、沿岸23ヶ村を押し流し、家約1300
戸(流出1061戸、焼失51戸、倒壊100余戸)馬約500頭を一瞬の
うちに葬りました。熱泥流は鎌原(かんばら)村(いまの嬬恋村鎌
原区)を襲い、全村が埋没し、人口597人のうち、466人が死亡し
たという。

大笹村の無量院の住職の手記とされる「浅間大変覚書」には「時々
山の根頻りにひつしほひつしほと鳴り、わちわちと言より、黒煙一
さんに鎌原の方へ……」と熱泥流が鎌原(かんばら・いまの嬬恋村
鎌原区)村へ押し寄せていったと記しています。この時、小高いと
ころにある観音堂に逃げたものが助かったと伝えられています。観
音堂の石段がいま15段ありますが、地下にはまだ100段が埋まっ
ているといいます。いま地上に出ている15段まで逃げた人が助か
ったところから「生死を分かつ15段」といわれています。

1979年(昭和54)になり、村の一部を発掘、当時の生活用具など
を調査したことがあります。この時、観音堂の15段から下を掘り
下げましたが、上から50段めあたりで折り重なっている40歳くら
いと60歳くらいの女性の遺体が発見されました。あと30段ちょっ
とを登れば助かったのです。この爆発は「天明の浅間焼け」と呼ば
れました。

この話にはちょっと不思議な話があります。江戸江戸時代後期の文
人で狂歌師、太田南畝(なんぽ・大田蜀山人)の『半日閑話』巻十
五「信州浅間嶽下奇談」に、文化12(1815)年9月ころ聞いた話
として、おおよそこんなことが載っています。「夏のころ、信州浅
間ヶ嶽辺りの農家で井戸を掘った。2丈余(約6.5m)も掘ったけ
れど、水は出ず瓦が2、3枚出てきた。こんな深い所から瓦が出る
筈はないと思いながら、なお掘ると屋根が出てきた。その屋根を崩
してみると、奥の居間は暗くて何も見えない。

しかし洞穴のような中に、人がいる様子なので、松明をもってきて
よく見ると、年の頃5、60歳の2人の人がいた。このため、2人に
問いかけると彼らが言うには「幾年前だったか分からないが、浅間
焼けの時、土蔵の中へ移ったが、6人一緒に山崩れに遭い埋もれて
しまった。4人の者はそれぞれの方向へ横穴を掘ったが、ついに出
られず死んでしまった。

私ども2人は、蔵にあった米3000俵、酒3000樽を飲み食いし、天
命を全うしようと考えていたが、今日、こうして再会できたのは生
涯の大きな慶びです」と。農夫は、噴火の年から数えてみると、33
年を経過していた。そこで、その頃の人を呼んで、逢わせてやると、
久しぶりに、何屋の誰が蘇生したと言うことになった。

早速、代官所に連絡し、2人を引き上げようとしたが、長年地下で
暮らしていたため、急に地上へ上げると、風に当たり死んでしまう
かも知れないといい、だんだんに天を見せ、そろそろと引き上げる
ため、穴を大きくし、食物を与えた。2人は以前、よほどの資産家
だったらしい。」とあります。33年間も地中で暮らしてきたという
のです。

こんな話もあります。世界大戦後の1953年(昭和28)、アメリカ
駐留軍が軽井沢に浅間山の演習地使用申し込んできました。それを
聞き「ふるさとの自然を守ろう」と猛烈な反対運動が起きて地元か
ら長野県全体に広がりました。6月7日の県民大会は、5000人を
超す人々の熱気にあふれたという。この話は日米地震専門家会議に
移され、検討の結果、地震研究に支障があるとされ、ついに日米合
同委員会で使用取り消しが決まりました。こうした基地化、演習地
化の反対運動が成功した例はほかにないという。

この山にもいろいろな伝説があります。【浅間山の鬼の伝説】浅間
山の鬼と富士山の鬼(デーランボーともいう)が「山造り」の競争
をしました。富士山の鬼がまだできていないのにドラを叩いて「完
成!」と大声でいいました。浅間山の鬼は、それを聞いて「負けた
か、やれやれ」といって、モッコを放り出してしまいました。

そのため浅間山は富士山より低いのだとか、浅間山は、くやしがっ
ていまでも煙を出しているという。放りだしたモッコでできた山を
小浅間といい「ひともっこ山」というそうです。また、鬼が浅間山
を造っていましたが、夜明けを知らせる鶏の声がしたので、あわて
て逃げて行きました。その時おいた土が小浅間だといいます。

【ふたりの姫神の伝説】昔ある晩、天地が鳴動して、甲斐(山梨県)
と駿河(静岡県)の境が大きく盛り上がりました。琵琶湖がへこん
だ代わりに富士山が盛り上がり、諏訪湖がへこんだ代わりに浅間山
ができました。ふたつの山とふたつの湖が一ぺんにできたので、八
百万の神々が高天原に集まって、どうしたものかと話し合いをしま
した。

すると伊勢の国の大山祇の神が「ふたつの山は私が造りました。こ
こに私の娘の磐長姫(いわながひめ)と木花開耶姫(このはなさく
やひめ)を住まわせたいと思います。神々様どうぞよろしくお願い
します」といい、改めて天御中主神(アメノミナカヌシノカミ・造
化三神(ゾウカノ サンシン)の一柱)のお許しを願いました。

このふたりの姫神は大変長生きをしました。しかし、やがて富士山
の姉神が亡くなりました。浅間山の妹神は大変悲しみ、時々亡くな
った姉神を思い出して深いため息をつきました。それが浅間山の噴
煙となって立ちのぼるのだということです。高山植物で、浅間山で
発見されたものにアサマフウロやアサマヌカボなどがあります。

▼浅間山【データ】
◎【山名】あさまやま
◎【所在地】
・群馬県吾妻郡嬬恋村(つまごいむら)と長野県北佐久郡軽井沢町、
御代田町(みよたまち)の境。

◎【位置】
・標高点2568m:北緯36度24分23.57秒、東経138度31分22.69


◎【地図】
・旧2万5千分の1地形図:浅間山(長野6-4)

◎【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『信州山岳百科・3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』720年(養老4)巻第二十九「天渟中原瀛真人天皇
下(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみことのしものまき・天
武天皇)」:岩波文庫『日本書紀』(5)(校注・坂本太郎ほか)(岩
波書店)1995年(平成7)
・『日本歴史地名大系10・群馬県の地名』尾崎喜左雄ほか(平凡社)
1987年(昭和62)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・『半日閑話』太田南畝(なんぽ・大田蜀山人・天明期を代表する
文人、狂歌師であり、御家人)巻十五「信州浅間嶽下奇談」『日本
随筆大成』 第一期 第8巻)(吉川弘文館)1975(昭和50)年
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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