山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼921号 大男ダイダラボッチと房総の山(石射太郎山)

昔、大男デイダラボッチが、鹿野山から南方を眺めていました。す
ると、かなたの山の上に怪物があらわれました。大男はあわてて怪
物に向かって矢を放ちました。みごと命中。怪物は空高く舞い上が
って、南の高宕山に落下しました。その時、デェダクボは「石射た
ろう」と叫んだという。しかし、デェダクボが射たのは怪物の形を
した岩の塊だったのでした。それ以来、この山を石射太郎というよ
うになったということです。
・千葉県富津市と君津市との境。

【本文】は下方にあります

▼大男ダイダラボッチと房総の山(石射太郎山)

【本文】
昔、とてつもない大きな巨人が全国を歩きまわっていたという伝説
があります。富士山はこの巨人が造ったともいいい、その時、運ん
でいた土が、もっこからこぼれ落ちてあちこちの山々ができたとい
う。また歩いてできた足跡に、水が溜まって池や沼になったなど話
が伝わっています。

巨人の名前は、一般的には大太法師(だいたほうし)とかダイダラ
ボッチと呼ばれています。そのほか、ダイタイボウ(茨城県)、ダ
イタボッチ(東京・埼玉)、ダイダラホウシ(栃木県)、ダイテンボ
ウ(会津地方)、デイラボッチ(長野県)、レイラボッチ(山梨県)、
ダンダンボウシ(富山県)、ダタンボウ(三重県)、ダイダラボウ(香
川県)、ダイタボウ(愛知県)、デーデッポー(千葉県)などといろ
いろな名前で呼ばれています。そして各地に大男にちなむ地名伝説
もあります。

この巨人伝説は『古事記』や『日本書紀』など神話にも出てきます。
茨城県では、「昔、内原町(旧、中妻村)大足(おおだら)に「ダ
イダラ坊」という大男が住んでいた。その大男が多くの人の役に立
ちたいと自慢の力を発揮して活躍する。田畑の日陰を無くすために
高い山を動かしたり、大雨による洪水を防ぐため川を作り、池を掘
ったりした。「ダイダラ坊」が動かした山というのが、現在、水戸
市、笠間市、常北町の境にある「朝房山」であり、更に、作られた
川が「桜川」であり「千波湖」であるという。

そして「ダイダラ坊」はその後、平津の駅家(現在の水戸市平戸町)
に移り住んだという。奈良時代の『常陸風土記』那珂郡の条(岩波
書店『風土記』常陸国風土記から)に「(最前(まへ)を略(はぶ)
く)。平津(ひらつ)の駅屋(うまや)の西一二里(いちにさと)
に岡あり。名を大櫛(おほくし)といふ。

上古(いにしへ)、人あり。躰(かたち)はきわめて長大(たけた
か)く、身(み)は丘壟(おか)の上に居ながら、手は海濱(うみ
べた)の蜃(おほうむぎ)を摎(くじ)りぬ。その食(く)らひし
貝(かひ)、積聚(つも)りて岡(をか)と成りき、時の人、大?
(おほくじり)の義(こころ)を取りて、今は大櫛(おほくし)の
岡(をか)という。其の踐(ふ)みし跡(あと)は、長さ?(しゅ
う)餘歩(あし)、広さ廾(きょう・?の間違い?)餘歩(あし)
なり。」……。

つまり、平津の駅家の西一、二里のところに、大櫛という名の岡が
ある。昔、大男がいて、岡の上に立ったまま手をのばして海辺の砂
浜の大蛤をほじって(くじって)食べた。その貝殻が積もって岡と
なった。大きくくじったことから、大櫛の岡の名がついた。大男の
足跡は、長さ40歩以上、幅20歩以上で、小便の跡の穴は、直径20
歩以上ある。というのですから半端ではありません。

南北朝時代成立の「神明鏡」(作者不詳)には「道場法師・大駄法
師」の名で記載され、下って江戸時代の「松屋筆記」(高田興清著)
巻五「ダイダラボッチの足跡」にも神奈川県相模原市の大沼はダイ
ダラボッチが富士山を背負おうとし、足を踏ん張ったときへこんだ
所だとあります。巨人足跡は関東だけでも30以上あるといわれま
す。

東京都世田谷区代田はダイダラボッチのダイタからきた地名、最近
まであった同地、代田薬師付近にあった細長い窪地は大男の足跡だ
とされています。また、長野県の飯縄山麓の大座法師池(だいざほ
うしいけ)や、埼玉県さいたま市の太田窪(だいたくぼ)、長野県
諏訪市の手長神社境内にある1反歩ほど数ヶ所の水たまりなど、す
べて大男の足跡だとされています。北アルプス後立山連峰の唐松岳
のカラマツは、この巨人が植えたものだという。

この巨人をなぜ大太法師(だいたほうし)やダイダラボッチという
のかについては、江戸時代からいろいろ論議されてきたようです。
「大太坊蹤(だいたぼうあしあと)」(山崎美成)や「大太法師弁」
(明和舟江)、「怪談几弁・かいだんきべん」などで論じらましたが、
結局は「愚量の及ぶところにあらず」ということになっているのだ
そうです。

現代でもダイタラのタラは貴人の呼称だとする説(柳田国男)や、
製鉄のタタラと関連させ、鍛冶屋からの伝播説、アイヌ語のダイ(小
山)と、タラ(背負う)で「小山を背負う」意味から生まれた巨人
名との説。また、台湾の伝説からきているとか、はたまた、ギリシ
ャ神話まで引っ張り出して説明しようとする説まであります。

房総(千葉県)にも巨人伝説があります。ある時、デーデッポーが
富士山に腰をかけて、東京湾で顔を洗い、千葉県側にやってきまし
た。のっしのっしと歩いているときエッヘンと咳払い。すると口か
ら島が飛び出しました。それが鋸南町から見える浮島になったとい
います。

また昼寝しようと、デーデッポが横になって寝ころんだところ、足
が東京湾に届いてしまったという。その時、富山町(現在は南房総
市)の富山(JR内房線岩井駅の東3キロ。349.5m)を枕がわり
にしたため、富山は真ん中がへこみ、南峰と北峰の双耳峰になって
しまったということです。

その山麓にもデーデッポの足跡が残っています。先年スイセンロー
ドを歩いたとき、足跡を訪ねようと市の職員の方に聞いてみました
が、そこへ行く途中の道が荒廃して藪になっていて通れないとのこ
とでした。

マザー牧場で有名な鹿野山の南、野生猿の生息地でおなじみの高宕
山の近くに、石射太郎山という岩山があります。ここはもと地元の
人がハイカーのため野生の猿に餌付けをして見せていたところ。

ある日、デイダラボッチ(地元では台田久保(デェダクボ)と呼ぶ)
は、弓矢をたずさえて鹿野山にやってきました。鹿野山の山頂南側
の眼下には九十九谷が広がり谷々が重なりがつづいています。デェ
ダクボは、その起伏の妙に目を奪われていました。

すると、1里半というから6キロくらい先の、山の上に怪物があら
われたのです。デェダクボは、あわてて弓に矢をつがえて、ヒュー
ッとばかりに怪物に向かって矢を放ちました。矢はみごと怪物に命
中。怪物は空高く舞い上がって、約10丁(1キロ)南の高宕山に
落下しました。

その時、デェダクボは、鹿野山で「石射たろう」と叫んだという。
しかし、デェダクボが射たのは怪物ではなく、怪物の形をした岩の
塊だったのでした。その時の言葉をとってこの山を「石射太郎」と
いうようになったということです(『君津風土記』)。

石射太郎山には、いまは地元の地誌「清和村誌」からとった説明文
を記した掲示板も建っています。それによるとデェダクボが射た岩
は、南方半里(約2000m)もある谷間まで射飛ばされたというこ
とです。石射太郎山は、明治初期から大正初期にかけては、石の切
り出し場(いわゆる石切丁場)として、大量の石が切り出されてい
ましたが、関東大震災で破損。石切場としての役目は終えています。

▼石射太郎山【データ】
【所在地】
・千葉県富津市と君津市との境。JR内房線木更津駅からバス、
植畑上郷バス停から1時間10分で石射太郎山。地形図に山名なし
標高なし。(推定標高258m)

【位置】
・石射太郎山:北緯35度12分49.12秒、東経139度59分06.78秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「鬼泪山(横須賀)」

【参考文献】
・「清和村誌」
・『君津風土記』人見君太郎(栄光出版社)1977年(昭和52)
・「ダイダラ坊の足跡」(『柳田国男全集・6』筑摩書房
・『日本架空伝承人名事典』(平凡社)1992年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本伝説大系・7』長野担当・岡部由文(みずうみ書房)1982
年(昭和57)
・『日本未確認生物事典』笹間良彦著(柏美術出版)1994年(平成
6)
・『常陸風土記』:日本古典文学大系2『風土記』秋本吉郎校注(岩
波書店)1987年(昭和62)
・『房総山岳志』内田栄一(論書房出版)2005年(平成17)
・『民間信仰辞典』桜井徳太郎編(東京堂出版)1984年(昭和59)

ゆ-もぁイラスト・漫画家・
山と田園の画文ライター
【とよだ 時】

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