山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼920号 羊蹄山はギシギシ山

【前文】
北海道の羊蹄山は、野草のギシギシの漢名の羊蹄(し)の山だとい
う。なるほど、ギシギシの葉(くさび形)は羊の蹄に似ています。
もとは後方羊蹄山(しりべしやま)といったそうです。後方は「し
りへ」で羊蹄は「し」と読みます。ルーツは『日本書紀』の斉明天
皇五年の項にある「後方羊蹄」だという。しかし本当の場所は未だ
に不明。
・北海道後志庁虻田郡ニセコ町と倶知安町(くっちゃんちょう)、
京極町、喜茂別町、真狩村の境

【本文】は下方にあります

▼羊蹄山はギシギシ山

【本文】
北海道に羊蹄山(ようていざん・1898m)という山があります。
円錐形の美しい単独峰の山で「蝦夷富士」とも呼ばれています。山
上にはお花畑が広がり、200種類以上もの高山植物が咲き乱れ、1921
年(大正10)に国の特別天然記念物にも指定されています。

この山には、父釜、母釜、子釜と呼ばれる3つの火口もあり、池塘
には「羊蹄坊主」という谷地坊主(やちぼうず)があることでも有
名です。谷地坊主とは、寒い土地の湿原などでこんもりと盛り上が
ったスゲの草の塊のことです。

ところで羊蹄(羊のひづめ)とは変わった名前です。この山は、も
とは後方羊蹄山(しりべしやま)という名前だそうです。南東にあ
る尻別岳を、前方羊蹄山(雄岳)というのに対して、この山を後方
羊蹄山(雌山)といいます。

後方羊蹄山と書いて、シリベシヤマとは読めませんよね。また意味
も分かりません。カタカナばかりで、気をつけていてもシリベシヤ
マか、シベリシヤマか間違ってしまいます。そこで、いまは「後方」
を取ってしまい、ただの羊蹄山といっています。

でも、この山のどこが「羊のひづめ」と関係があるのでしょう。実
はここに出てくる羊蹄とは、野草のギシギシのことなのだそうです。
野原や道ばたで、スカンポに似た大形の緑色の草の、あのギシギシ
です。若芽は食用にもなって、根っこにはアントラキノン類を含ん
でいるとかで、皮膚病の外用薬に利用されている、おなじみの野草
です。ギシギシは、漢名では「羊蹄」と書き、日本では「し」と読
ませるという。

これは『万葉集』や『源氏物語』にも使われています。『万葉集』
には2首あり、「年のはに梅は咲けども空蝉(うつせみ)の世の人
我し春なかりけり(万1857)」の「我し」。また、「耳成(みみなし)
の池し恨めし我妹子(わがいも)が来つつ潜(かづ)かば水は涸れ
なむ(万3788)」の、「池し」がそれだという。

『日本百名山』深田久弥も、「日本では、昔はギシギシのことを単
に「し」と呼んだ。そこで羊蹄と書いて「し」と読ませたのである。
……おそらくはその葉の形(くさび形の意味?)から羊蹄という漢
名が生まれたのであろう。だからただ羊蹄山だけでは、「し山」と
いうことになる」と、書いています。

植物といえば、植物分類学者牧野富太郎はあまりにも有名です。こ
の先生も1924年(大正13)年にエッセイのなかで、「後方」は古
語で「しりへ」であり、羊蹄が「し」であると説明しています。

つまり、後方(しりへ)の、羊蹄(し・ギシギシ)の山なのだそう
です。「後方」を「しりへ」と呼ぶのは、1901年(明治34年)に
発行された「中学唱歌」の唱歌「箱根八里」にもあります。

♪箱根の山は、天下の嶮(けん) 函谷關(かんこくかん)も もの
ならず、萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷 前に聳
(そび)え、後方(しりへ)にささふ、雲は山を巡り、霧は谷を閉
ざす……の、「後方(しりへ)」なのだそうです。

でも、ギシギシの葉のくさび形をしていて、羊の爪に似ているとい
うのは分かりますが、羊蹄山がくさび形をしていませんよね。まし
てやこの山がギシギシの特産地でもありません。また、このしりべ
しやま(後方羊蹄山)の名は、アイヌ人たちが昔から使っていた名
前ではなく、あとから入っていった日本人がつけた名前だというか
らこんがらかってきます。ちなみにアイヌ語では「マカリヌプリ」
というそうです。

さて、「後方羊蹄」のルーツは『日本書紀』にあるといいます。『日
本書紀』巻第二十六(斉明天皇五年(659年)3月の項)に、「是
(こ)の月に、阿倍臣(あへのおみ)を遣(つかは)して、船師(ふ
ないくさ)百八十艘(ももあまりやそふな)を率(ゐ)て蝦夷国(え
みしのくに)を討つ。

阿倍臣、飽田(あぎた)、渟代(ぬしろ)、二郡(ふたつのこほり)
の蝦夷二百四十一人(ふたももあまりよそあまりひとり)、其の虜
(とりこ)三十一人(みそあまりひとり)、津軽郡(つかるのこほ
り)の蝦夷一百十二人(ももあまりとをあまりふたり)、その虜四
人(よたり)、胆振(いふり・いぶり)?(さへ)の蝦夷二十人(は
たたり)を一所に簡(えら)び集めて、大(おほ)きに饗(あへ)
たまひ(饗応し)禄(もの・物)賜ふ。……。」(岩波文庫『日本書
紀(四)』から)とあります。

つまり、この月に天皇は阿倍臣(あべのおみ)という将軍を遣わし、
船軍180艘(そう)を率いて蝦夷の国を討った。そして阿倍臣は、
飽田(秋田)と渟代(能代・のしろ)の2郡の蝦夷241人と、その
捕虜31人、そして津軽郡の蝦夷112人とその捕虜4人、胆振?(い
ぶりさえ)の蝦夷20人を一ヶ所に集めて、大いに饗応し禄(もの
・物)を与えた。

その時、問?(という)の蝦夷のイカシマとウホナという2人が進
みきて【後方羊蹄】に、役所を設置してほしいと願い出ました。…
(※ここに【原注】が入る)…。そこで、阿倍臣はイカシマらの言
葉にしたがって、そこに役所を設置して帰ったというのです。

この文の中の(※【原注】)に「……。後方羊蹄、此(これ)をば
斯梨蔽之(しりへし)と云ふ。……。」とあります。これが、そも
そも後方羊蹄(しりへし)の始まりだというのです。なるほどです。

ただ『日本書紀』はいいのですが、この後方羊蹄(斯梨蔽之・しり
へし)という場所がどこかというのが問題になります。『日本書紀』
の、この後方羊蹄(斯梨蔽之)が、いまのように北海道の後方(し
りべし)地方に決められてしまったのは、江戸時代の儒学者新井白
石が書いた文章かららしいです。

その著『蝦夷志』(えぞし)で、白石は『日本書紀』の内容を引用
し「安倍の臣を遣わし、飽田・淳代・津軽・膽振祖等の酋帥を率い
て以て蝦夷を伐つ。乃ち其の地を徇え、遂に治を後方羊蹄に置きて
還る。(後方羊蹄は読んで「シリベシ」と云う。即ち今の「西シリ
ベチ」の地なり。)……」としています。

『蝦夷志』は、江戸時代中期の享保5年(1720年)、日本最初の本
格的な蝦夷地の地誌で、松前藩の情報などを参考にして作成したも
のです。以後、発表される蝦夷に関する文書はこの説に影響されて
いったようです。

江戸時代後期、天明元年(1781)地元で編纂された『松前志』も新
井白石の説に影響され、シリベシ地方一番の山を「後方羊蹄山」と
しています。その後も『日本書紀』の「後方羊蹄」を即、北海道の
後方(しりべし)地方とする風潮になっていきます。

さらに下って幕末になり、蝦夷探検家である松浦武四郎という人が、
安政5年(1858)の2月に、この山に登ったというのです。この人
は蝦夷地に「北海道」の名を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国
名・郡名を選定したといういうすごい人。ただ、後方羊蹄山に登っ
たというのはどうもウソっぽい。

その日記『後方羊蹄日記』には「尻別岳は、尻別河の上にあるとこ
ろからの名前で、アイヌ人はマチネシリ、ピンネシリと呼ぶ。ピン
ネシリは傍らにあって、高さはマチネシリの半分にも及ばない。こ
れがいわゆる日本書紀に出てくる後方羊蹄山である」とまで書いて
います。そして南東にある尻別岳(前方羊蹄山・雄岳)の下に祠を
まつってから、後方羊蹄山に登ったとあります。

しかし、厳寒の2月にそう簡単に山頂まで往復できるわけがありま
せん。尻別岳の下に祠を置いて後方羊蹄山に向かったかも知れませ
んが登頂したというのはどうも怪しいのです。彼の登山記の関連資
料を詳細に調査すると、記録のあちこちに矛盾がでてきてしまうと
のこと。そして結局、国威を示すためのフィクションらしいという
のですから困ったものです。

このように、いまでもここが『日本書紀』のいう後方羊蹄(しりべ
し)であるかどうかはわからない状態だそうです。オイオイ、それ
はないだろう。こんなに苦労して文献を調べてきたのに……。つま
り結局分からずじまい。謎の山「羊蹄山」でありました。

▼羊蹄山【データ】
【所在地】
北海道後志庁虻田郡ニセコ町と倶知安町(くっちゃんちょう)・京
極町、喜茂別町、真狩村の境。JR函館本線倶知安(くっちゃん)
駅からバス、羊蹄山登山口下車、歩いて5時間で羊蹄山。一等三角
点名「真狩岳」(1893.02m)がある。三角点より南に最高点(1898
m)がある。

【位置】
・【三角点】:北緯42度49分41.69秒、東経140度48分40.24秒
・【最高点】:北緯42度49分36秒、東経140度48分41.4秒

【地図】
・旧2万5千分の1地形図名
・【三角点】「倶知安」、「羊蹄山」
・【最高点】「羊蹄山」

【参考文献】
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本書紀』720年(養老4):岩波文庫『日本書紀(四)』校注
・坂本太郎ほか(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『牧野新日本植物図鑑』牧野富太郎(北隆館)1974年(昭和49)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)
・『山の名前で読み解く日本史』谷有二(青春出版社)2002年(平
成14)

ゆ-もぁ画文・イラスト・漫画
山と田園の画文ライター
【とよだ 時】

山旅イラスト【ひとり画展通信】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ【戻る】