山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼919号 群馬県・赤城山の伝説

赤城山は赤き山。日光男体山の神との戦いに敗れた赤城神の血で
山が赤く染まり、その名がついたという。この日光男体山との神
争いや、榛名山との神争いの伝説は有名ですが、そのほか天狗話
もあります。ここにすむ杉ノ坊天狗は、和歌山県の興国寺(法燈
寺)を一晩で再建したという。この伝説は、群馬県側と和歌山県
側にも伝わっているから不思議です。この天狗は、天狗になる前
は「了儒」という行者ではないかという。これは赤城山で一度も
下山せずに30年あまりも修行した神業の行者だという。

【本文】は下方にあります


▼群馬県・赤城山の伝説

【本文】
国定忠治でおなじみの赤城山(あかぎやま・さん)は、上毛三山
のひとつ。標高1400mあたりの新坂平一帯は、初夏、群落するレ
ンゲツツジが満開になり、その見事さは有名です。赤城山の名は、
ムカデになった赤城山の神が、ヘビになった日光の神と戦って負
傷。山の木々が血で赤く染まったので、赤木山といったのがはじ
まりだという(林羅山「二荒山神伝」)。

ここには赤城山という峰はなく、黒檜山(くろびさん・1828m)
をはじめとする外輪山と中央火口丘との総称。赤城山は平安時代
初期の大同2年(807)に、日光を開山した勝道上人というえらい
お坊さんによって開かれたとされています。火口原には火口原湖
の大沼(おおぬま、おの)と、火口湖の小沼(こぬま、この)が
あります。大沼の東岸の最高峰である黒檜山の山ろくに赤城神社
があります。

赤城神社は全国には関東地方を中心にして約300社の赤城神社が
あるといわれる名刹。千葉県流山市には赤城神社がまつられた小さ
な山があります。ここは江戸川沿いにあるのですが、その昔、大洪
水の時、上流から赤城山の一部が流れてきたのだという伝説がある
そうです。そういえば江戸川上流の利根川は赤城山の西ろくを流れ
ています。市名の「流山」はそんなことから来ているという。

それはともかく、赤城山は赤城と日光の神争いや、赤城と榛名の
神争いの伝説は有名ですが、そのほか、天狗伝説もあります。そ
れもそんじょそこらの小ワッパ(童)天狗と大違い。大天狗のな
かでも、赤城山杉ノ坊(さんのぼう)という名前まである大物天
狗です。赤城神社は大沼神を祭った社ですが、そのそばの飛鳥社
(ひちょうしゃ)には、天狗を祭ってあるというのです。

『前上野志』という本に「大沼大塔には本社(赤城明神)の他に、
飛鳥社(天狗を祭る)、開山堂(了儒法師とて、長楽寺(※月船)
?海(ちんかい)和尚に随従せる行者を、開山と推せり)などあ
りし」とあります。赤城山大沼湖畔の飛鳥社は天狗祠だというの
です。

赤城山を開山したとされる了儒法師とは赤城山中で30年あまりも
修行したという行者。随従したと書かれる月船?海(げっせんち
んかい)和尚との出会いはこうです。そもそも長楽寺月船?海和
尚というのは、群馬県新田郡世良田村の長楽寺の法照(ほっしょ
う)禅師のことだという。

月船?海和尚は、弘安5年幕府の命により長楽寺第5世住職とな
り、延慶(えんきょう)元年(1308)没し、朝廷より法照禅師の諡
(おくりな)を貰ったエライ坊さん。『赤城秘文』によると、鎌倉
時代中期の弘安年間(1278〜1288)のころ、その法照禅師がある
とき赤城山に登ると、ひとりの行者の出迎えを受けました。

「赤城山ニ一練行(修行を熱心に練りあげること)ノ人有リ。三
十余年、影、山ヲ出ズ。木食澗飲、氷雪不凍、多クノ神異有リ。
儘、天狗ヲ友トシテ善シ。所謂魔界ナリ。タマタマ師、赤(※甚
だしく)?(※きょう・高い山)ニ陟(のぼ)リ、霊区ヲ逍遥ス。
練行ノ人、出テ迎エ、受法シテ勝因ヲ結ブ。乃チ号シテ了儒ト曰
ウ。是ヨリ一州学師ノ道者、赤城門徒ト称シ、彼ヲ以テ儒翁ノ祖
ト為シ、時ノ人、之ヲ尊ブコト神ノ如クナリ」とあります。

法照禅師が赤城山に登っていくと、一人の行者の出迎えを受けま
した。その行者は、木の実を食べ、谷の水を飲みながら修行をし
ているという。そんななか、30年以上も山を降りたことがなく、
氷雪にも凍えないというから 人間わざではありません。そしてい
つも天狗を友として暮らしているというのです。

その行者が、法照禅師(?海(ちんかい)和尚)が登ってきたと
知って、禅師の弟子になりたくて出迎えたのだという。そこで法
照禅師は、その行者に法を授けて「了儒」という法号を与えまし
た。開山堂の本尊はこの了儒法師であるという。この了儒の30数
年にわたる修行の様子から、天狗研究者は赤城山の大天狗杉ノ坊
は、この了儒行者の化身ではないかと推定しています。

ところで、江戸時代中期、寛延2年(1749)刊行の著者不詳とも
神谷養勇軒著ともいわれる『新著聞集・しんちょもんじゅう』に、
「天狗一夜にして法燈寺(ほっとうじ)をつくる」という一文が
あります。法燈寺は、和歌山県の由良(ゆら)町にある臨済宗の
鷲峰山興国寺(じゅぶざんこうこくじ)というお寺。

ここを開山した法燈(ほっとう)国師の名前から法燈寺とも呼ばれ
ていました。先の『新著聞集』によると、この寺はどうしたわけか、
たびたび火災が起こるのです。そこで仕方なく住職は、草葺きの仮
の庵に住んでいました。

ある時一人の旅の僧が来て「この寺が火災にあうのは、開山した
法燈国師の文字からきている。法燈の文字は、水去り火登ると書
くからだ。(法の字はサンズイ(水)に去る。燈は火へんに登ると
書く)。ただお望みなら、わしが建ててやってもよい。しかしそれ
もついには焼失してしまうが、護摩堂だけは残るだろう。わしは
上州(群馬県)赤城山の杉ノ坊(さんのぼう)というものだ。」と
言い残し、僧は寺から去っていきました。

しばらくして住職は再建を決意し、ふたりの若い僧を群馬県の赤
城山に使いに出しました。赤城山に着いて若い僧は、びっくり仰
天。杉ノ坊はここにすむ天狗の大親分だったのです。ビクつくふ
たりに、杉ノ坊は建設の日取りを決め、若い僧たちを山伏2人の
背中に乗せて、空を飛んで紀州(和歌山県)へ送ったという。

約束の日、村人がお寺に近寄らないようにしていました。夜にな
り、数十万人もの人声がして、なにやら大工事がはじまったらし
く、一晩中物音がつづきました。夜があけてみると、見事七堂伽
藍(がらん)が出来上がっていたという。しかし杉ノ坊がいった
とおり、やがてまた火災に見まわれましたが、護摩堂だけは残っ
たというのです。

紅葉真っ盛りのころ、由良町興国寺を訪れました。地元の小学生
たちや父兄が、参道途中の公園にならんでおやつを食べています。
境内にはいると大きな天狗堂があり、暗い堂内に日本一、二の魔
除け天狗面が、まっ赤になってにらんでいます。売店で厄よけの
お札を買いました。「えっ。天狗を調べて歩いているんですか。面
白そうですね。」と、若い僧侶が竹箒の手を休めて笑いかけていま
す。

それにしてもこの話は群馬県側に伝わるだけでなく、和歌山県側
でも伝承されています。由良町の興国寺のパンフレットや町の教
育委員会発行の『由良町の文化財』にも記載されているのです。
当時、こんなに離れた和歌山と群馬の間にどんなことがあったん
でしょうか。それとも山伏たちが群馬県に移り住んできてからこ
の話を広めたのでしょうか。

▼赤城山大沼湖畔飛鳥社
【所在地】
・赤城山大沼湖畔飛鳥社:群馬県勢多郡富士見村赤城山小鳥ヶ島。
両毛線前橋駅の北北東20キロ。JR両毛線前橋駅からバス、大洞
下車、歩いて20分で大沼湖畔飛鳥社

【位置】
・飛鳥社:北緯36度33分09.44秒、東経139度11分00.45秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「赤城山(宇都宮)」

【参考文献】
・「赤城・榛名・妙義の山岳伝承」都丸十九一):『山岳宗教史研究叢
書16・修験道の伝承文化』五記重編 (名著出版)1981年(昭和56)
所収
・「新著聞集(しんちょもんじゅう)」(全18巻):「日本随筆大成
第二期第5巻」日本随筆大成編輯部編(吉川弘文館)1994年(平
成6
・『図聚天狗列伝・東日本編』知切光歳(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)

【ゆ-もぁ-と】民画・漫画家・
【とよだ 時】
山のゆ-もぁ画文作家

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