山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼918号 群馬県至仏山・至仏色はココア色

尾瀬ヶ原をはさんで、北東に燧ヶ岳、北西に至仏山とふたつの山は、
好一対をなす秀峰として並び称される火山。至仏山は大正時代、登
る道がなくてムジナ沢(渋ッ沢)沿いに登ったので、その「シブツ
沢」から来たのではともいいます。この沢の岩は、赤泥をなすり付
けたような暗赤色でココアに近い色だという。江戸時代後半の文書
には「四仏山」とも書かれたそうです。
・群馬県利根郡みなかみ町(旧利根郡水上町)と群馬県利根郡片品
村との境

【本文】は下方にあります

▼群馬県至仏山・至仏色はココア色

【本文】

▼@(Web5行HP前文)山旅漫歩゚【ひとり画信】918号(2014年11月)
群馬県至仏山・至仏色はココア色
【概略】

▼A(400字)山旅漫歩゚【ひとり画信】918号
「群馬県至仏山・至仏色はココア色」
【500字本文】

▼【山のひとり画信】918号(2014年11月)
「群馬県至仏山・至仏色はココア色」
【本文】
尾瀬ヶ原をはさんで、北東に燧ヶ岳(2356m)、北西に至仏山(22
28m)とふたつの山は、好一対をなす秀峰として並び称される火山
です。尾瀬のシンボルとなっているこのふたつの山でも、とくに至
仏山は、群馬県みなかみ町と同県片品村とにまたがり、高山植物の
宝庫でもあります。

鳩待峠のコース、とくに小至仏山〜至仏山間東斜面には6月下旬か
ら7月下旬にかけて咲く、オゼソウや、ホソバヒナウスユキソウ、
ユキワリソウ、ハクサンコザクラ、タカネナデシコ、タカネシオ
ガマ、シブツアサツキ、ジョウシュウアズマギク、カトウハコベ、
ホソバヒナウスユキソウ、タカネトウチソウ、ムシトリスミレな
どなどがあり、登山者の目を楽しませてくれます。

とくにホソバヒナウスユキソウは固有種。またオゼソウ、ジョウ
シュウアズマギクなどもこの山以外では限られた場所でしか見られ
ない貴重なもの。

この山は、全体が蛇紋岩で覆われていて、高木が育ちにくいため、
森林限界が1700mと周囲の山に比べて非常に低くなっていて、150
0m付近からすでに現れはじめます。頂上からは燧ヶ岳をバックに
尾瀬ヶ原がパノラマのように広がっているのが眺められます。積雪
量が多いため、春スキーの格好の場所で、4月下旬から5月上旬に
かけては春スキーで賑わいます。

「仏に至る」という至仏山とは何となく有り難い名前です。至仏山
の名は、江戸時代前期の『会津風土記』(会津藩藩主・保科正之の
命により編纂された藩撰地誌。寛文6年(1666)完成)にはすでに
記載されています。その後の安永3年(1774年)、『上野(こうず
け)国志』(毛呂権蔵・上野国全般にわたる歴史地理書)には「四
仏山」の名でも記載されているそうです。

至仏山には「タケクラ」という呼び名もあるそうです。至仏山は南
東麓の戸倉(片品村)側の呼び名、それに対して「タケクラ」とい
うのは西側の藤原方面(みなかみ町)の名前だそうです。明治時代
の登山家で日本登山界の大先達といわれる木暮理太郎は、『山の憶
い出』のなかで、「タケクラのクラは上州ことに山地の方言で巌ま
たは岩壁を意味している。至仏山の西側は巖や岩壁が露出している
から、藤原ではこれをタケクラと呼ぶのは当然のことである。私は
通俗的に岳倉の二字をあてた」としています。

ところで大正時代、至仏山には登る道がなくて南側から突き上げて
くるムジナ(狢)沢沿いに登ったそうです。木暮理太郎も同じ沢を
登ったらしい。続けて同書に、狢沢の「朱泥をなすり付けたような
赤赭(しゃ)色(赭は暗い赤色のような色。土の色名のひとつでコ
コアに近い色)の岩塊は、少しも滑る憂いがないので非常に歩きよ
い。この様な色の岩は今迄見たことがない。橄欖(かんらん)岩で
あるという。この岩の色から狢沢に渋ッ沢の一名があり、山名の至
仏はそれから導かれたものであろうとのことである」とあります。

つまり至仏山の名は仏教系の名ではなく、沢の名・シブツ沢の「し
ぶつ」だったのです。この山にも「雪形」があるそうです。田淵行
男(大正から昭和にかけての山岳写真家、高山蝶研究家)は『山の
紋章・雪形』のなかで「馬とも鳥とも見える残雪模様が見られるし、
それと向かい合う残雪は巨大な蛙にも見える。その形、量感とも十
分鑑賞に耐えるものである」としています。

至仏山のふもとには尾瀬の湿原が広がっています。「尾瀬」という
地名が初めて記録に出てくるのは、江戸時代前期の「会津風土記」
会津松平家初代藩主、保科正之編纂(寛文6年 1,666年)だといい
ます。そこには「小瀬沼」という文字があり、奥州(福島)と上野
(群馬)の境界とされています。尾瀬ではなく小瀬なのです。これ
以前は「さかひ沼」と呼ばれ、国境となっていたためらしい。

江戸中期になり安永3年(1774年)の「上野国史」には、「沼峠 
駒ヶ岳ノ東に在り 上野越後陸奥の界ナリ 山上にアリ尾瀬沼ト云
フ……」という書かれています。また、江戸末期の慶應4年(1868
年)の「奥羽国群分色図」(作者:景山致恭)には、「駒ヶ岳」の東
に「尾セヶ原」という文があります。この駒ヶ岳はいまの越後駒ヶ
岳らしい(正確には尾瀬ヶ原や尾瀬沼は越後駒ヶ岳の南東)。

こんなことから会津(福島側)では「小瀬」と呼び、上野(群馬側)
では「尾瀬」といっていたようです。それでは「尾瀬」の名はどこ
からきたのでしょう。その主なものとして、・@尾瀬は生瀬(おう
せ)で、浅い沼や湖に草木が生えた状態の湿原の意味の「生瀬」か
ら転じたものといわれています。・A平家追討での落人の尾瀬大納
言(尾瀬三郎房利)がここに永住して尾瀬氏となったという説。・
B「前九年の役」で滅亡した奥州安倍貞任(あぶのさだとう)の子
孫がこのあたりに逃げ込んで、付近の部落を襲い、悪勢(おぜ)と
呼ばれていたのが、次第に尾瀬になったという説などがあります。

ある年の7月初旬、尾瀬ヶ原入り口山ノ鼻にテントを張りました。
燧ヶ岳往復や尾瀬ヶ原を散策、竜宮十字路の竜宮伝説、貸し椀伝説
などに思いを馳せながら数日を過ごすます。明日の帰宅を前に至仏
山経由で鳩待峠に出ることにしました。

山ノ鼻コースは表土が流失のため1989年より閉鎖され、1997年(平
成9)に再開されたコース。いまでも5月上旬〜5月下旬は通行禁
止になっています。山ノ鼻登山道から木道を歩き、森林限界が過ぎ
て岩畳を過ぎ、登山道わきのベンチで一休み。くさり場や滑りやす
い蛇紋岩の岩の上を進むとやがて高天ヶ原。

至仏山山頂には一等三角点があります。時々雨が降る中振り返って
も真っ白け。燧ヶ岳も尾瀬ヶ原もありませんでした。たったひとり
小休止。おやつをほおばります。お花畑の中鳩待峠で知人と待ち合
わせるため急ぎました。小至仏山を過ぎオヤマ沢田代分岐付近ベン
チ・テラス付近。幸運にもオゼソウを見ることができました。「日
本百名山」(深田久弥選定)、「ぐんま百名山」(群馬県選定)、「花の
百名山」(田中澄江選定)

▼至仏山【データ】
【所在地】
・群馬県利根郡みなかみ町(旧利根郡水上町)と群馬県利根郡片品
村との境。上越線沼田駅の北北東33キロ。新幹線上毛高原駅・上越
線沼田駅からバス戸倉乗り換え鳩待峠下車さらに歩いて2時間半で
至仏山。二等三角点(2228.1m)がある。ほか付近に何もなし。地
形図上には山名と三角点記号とその標高のみ記載。

【位置】
・二等三角点:北緯36度54分12.49秒、東経139度10分23.67秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「至仏山(日光)」

【参考文献】
・「会津風土記」:江戸時代前期の寛文6年 1,666年・会津松平家初
代藩主、保科正之が編纂。
・『角川日本地名大辞典10・群馬県』井上定幸ほか編(角川書店)
1988年(昭和63)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『ふるさと文化遺産郷土資料事典10』(群馬県)(人文社)1997年
(平成9)
・「山の憶い出」小暮理太郎:『日本山岳名著全集2』(あかね書房)
1962年(昭和37)(所収)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56)

ゆ-もぁイラスト・漫画家・
山と田園の画文ライター
【とよだ 時】

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