山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼917号 福島県・会津駒ヶ岳と以仁王

福島県の会津駒ヶ岳は、やはり雪形からきた山名。それは雪が溶
けたあとの黒い駒の形と、残雪の白い形、それに独楽の形(独楽
ヶ岳)の雪形もあるという。ふもとには、平家倒滅宇治川ノ合戦
で敗れた高倉宮以仁王が、実は生きていて越後へ逃れるために尾
瀬を通ってやってきたという伝説もあります。
・福島県南会津郡檜枝岐村
(本文は下記にあります)

【本文】

駒ヶ岳という山は各地に多く、「駒ヶ岳」を持つ市町村が集まり、1989
年(昭和64・平成1)に「駒ヶ岳友好連峰会議」を結成している
ほどだという。『山DAS』(石井光三)によれば、ナントカ駒ヶ岳、
駒ヶ峰、駒ヶ森などを入れると全国に26座もあるという。ここ福
島県南会津郡檜枝岐村にそびえる、その名も駒ヶ岳(会津駒ヶ岳)
も馬の(雪形)に由来する山名だという。

古いところでは『新編会津風土記』や「檜枝岐八景」にも「雪駒
の形をなす處」とか、「夏かけて、峰に残れる白雪は、ぶち毛に似
たる、駒嶽かな」と詠まれています。また『尾瀬と檜枝岐』(川崎
隆章)には、雪が消えて黒馬が現れる。もう1ヶ所は、白く現れ
るものがある。また宝珠の玉(こどもが遊ぶ独楽の形)の残雪(コ
マはコマでも独楽の方)、さらに山容が奔走する馬のようだからと
の説もあると書かれています。

そんなことからか、ここは山そのものが信仰の対象になっていて、
山には駒岳大明神がまつられ、ふもとの檜枝岐村にも駒形神社が
あります。山頂はハイマツに覆われ、いたるところに湿原が広が
っていて、コバイケイソウやハクサンコザクラなどの高山植物が
群落しています。展望も南には燧ヶ岳や至仏山、西には越後三山
なども望めます。山ろくの檜枝岐村の歌舞伎は有名で、200年以上
の伝統を守り毎年上演されています。

檜枝岐村には平安時代末期、打倒平氏のための挙兵した「以仁王の
乱」<治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)>の高倉宮以
仁王(もちひとおう)が尾瀬経由できたという伝説があります。そ
もそも以仁王は、『平家物語』(巻4)によれば、源頼政に扇動され、
また「人相少納言」(藤原伊長)に帝位につくべき相があるなどと
いわれ、治承4(1180)年、諸国の源氏に平家討滅の令旨(りょう
じ)を下しました。

しかし宇治川の戦いから落ちのび、奈良へ向かう途中、飛騨守景家
らに首を取られます。都に持ち込まれ首実検されましたが、以仁王
を知るものが少なく、充分確認できなかったというのです。そのた
め、これはにせ者で以仁王はまだ生きているとの説があるのです。

ここに「高倉神社社記」(人皇八十代高倉院ノ御宇治承年四秋書)
という文書(治承4(1180)年8月7日渡部長七唱(以仁王にお供
したひとり)の手記とされる)があります。

それによると、以仁王は「……宇治川ノ合戦ニ敗北シ、足利又太郎
忠綱ノ情ニテ、御助命アリ、越後ノ住人小国右馬頭(うまのかみ)
頼之ニ依リ、落チ給フ。……。親王中仙道筋御下向、上州沼田ヨリ
戸倉沼山ニ御泊。(治承4年(1180)7月)八日尾瀬中納言卒去(し
ゅっきょ)」。尾瀬沼(尾瀬の名前の由来説)に埋葬し、さらに燧ヶ
岳の麓の沢で三河少将が死去、「夫レヨリ漸(ようや)ク檜枝又ニ
着セラレ、御宿村司嘉慶泊リ、御前足ニ国ノ掟ヲ尋ネラル…」とあ
ります。

また「会津高倉社勧進帳」という文書にも、「高倉宮は陸奥(むつ)
の探題(たんだい)某を頼んで檜枝岐山から南山に入り、関山峠
の麓に留まり住したまうに、探題及び大寺三千坊等、欲心を起し
て宮を攻め奉る。車輪のごとき火の玉散乱して敵軍を悩ます。い
まの火の玉峠これなり(柳田國男訳文)」とあるのです。

これらの伝説を要約すると、奈良路から近江(滋賀県)の信楽(し
がらき)に逃れ、東海道を下って、甲斐(山梨県)、信濃(長野県)、
沼田(群馬県沼田市)に出て、戸倉(群馬県片品村)から桧枝岐(福
島県檜枝岐村)に入ったという。そして楢原村(いまの福島県下郷
町)に達すると、ここに逗留したというのです。

こうして以仁王一行は、叶津(福島県只見町)から八十里越(新
潟県)を経て越後国(新潟県)に出たとなっています。その道々
の村には、高倉宮にちなむ墓や廟、神社があちこちに残っていま
す。

しかし、これほど確かな文書が残っているにもかかわらず、新潟
県に入ると以仁王の痕跡は薄くなり、次第に途絶えてしまい、伝
説もなくなってしまうのは一帯どうしたことでしょう??深田久
弥「日本百名山」選定。田中澄江「新・花の百名山」選定。

▼会津駒ヶ岳【データ】
山名:こまがたけ

【所在地】
・福島県南会津郡檜枝岐村。会津鉄道、野岩鉄道会津高原尾瀬口
駅からバス、駒ヶ岳登山口下車、歩いて4時間で会津駒ヶ岳。1
等三角点(2132.6m)と標高点(2133m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第23番選定(日本二百名山、
日本三百名山にも含まれる)
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第30番選定

【位置】
・三角点:北緯37度02分51.6秒、東経139度21分13.99秒
・標高点:北緯37度02分51.22秒、東経139度21分14.18秒

【地図】
・旧2万5千分1地形図名:会津駒ヶ岳

【参考文献】
・『尾瀬と檜枝岐』(復刻版)川崎隆章(木耳社)1978年(昭和53)
・「山島民譚集・1」柳田國男:ちくま文庫『柳田國男全集・5』
1989年(昭和64・平成1)
・「会津高倉社勧進帳」:『続群書類従・第3輯下』塙保己一編纂(続
群書類従完成会)1988年(昭和63)
・『新編会津風土記』(巻之25〜巻之50):(大日本地誌大系・31)『新
編会津風土記・2』(巻之二十五・陸奥国会津郡の一)(雄山閣)1
932年(昭和7)
・「高倉神社社記」治承4(1180)年8月7日渡部長七唱(以仁王
にお供したひとり)の手記とされる:(『日本山岳風土記・5』宝文
館1960年(昭和35):『日本山岳風土記・5』宝文館1960年(昭
和35):「尾瀬の昔と今」(小暮理太郎)に全文所収
・「伝説」柳田國男:『柳田国男全集・7』柳田國男(筑摩書房)1990
年(平成2)
・『山DAS』石井光三(白山書房)1997年(平成9)
・『山の紋章・雪形』田淵行男著(学習研究社)1981年(昭和56):川
崎隆章「尾瀬と檜枝岐」
・「史料としての伝説」柳田國男:『柳田国男全集・4』柳田国男
(ちくま文庫)1989年(昭和64・平成1)

ゆ-もぁイラスト・漫画家・
山と田園の画文ライター
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