山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼871号 「北アルプス・針ノ木峠からの槍ヶ岳と佐々成政」

▼871号 「北アルプス・針ノ木峠からの槍ヶ岳と佐々成政」

【本文】
北アルプスの長野県と富山県の境に連なる後立山連峰。針ノ木峠(標高
点2536m、等高線から読図2541m)はその南の縦走路の起点になって
います。標高は南アルプスの三伏峠に次ぐ高さ。ここは東方の蓮華岳と
西方の針ノ木岳の鞍部にあり、針ノ木岳の西麓には黒部湖があって湖面
に遊覧船が浮かんでいます。

峠から北東に針ノ木雪渓を下ると長野県、南西に針ノ木谷を下ると黒部
湖南端の「平の渡船場」に出ます。ここは日本三峠・針ノ木峠、雁坂峠、
三伏峠(または清水峠または夏沢峠)であり、雪渓は日本三大雪渓(針ノ
木雪渓・白馬大雪渓・剱沢雪渓)に数えられるという。

峠名の針ノ木とは、ミヤマハンノキ(カバノキ科の落葉低木〜高木)のこと
で、ハンノキ、ハリノキ、ハルノキなどとも呼びこの山域の多いという。針ノ
木谷に下る時によく見かけます。一説にハリとは墾(はり)のことで、この山
の麓を早く開拓して農地をつくったことによる山名で、木とは開拓のシン
ボルとして一本の木を植えたことによる(「日本山岳ルーツ大辞典」)とす
るものもあります。

この峠には針ノ木小屋があり、雪渓下には大沢小屋があります。1922年
(大正11)、平村(大町市平)が、村営の大沢小屋を雪渓下部に建てま
した。つづいて1925年(大正14)に、針ノ木岳登山の開拓者といわれる
百瀬慎太郎(「山を想えば人恋し」の山岳詩人)が大沢小屋を建てたとい
う。

また彼は1929年(昭和4)になり、峠に針ノ木小屋を造営し、登山道を改
修したそうです。彼の威徳を偲んでいま、毎年6月針ノ木雪渓で「慎太郎
祭」が行われています。

さて、この峠を越えて、信州(長野県)側、越中(富山県)側へと横断する
道は、日本海まわりで行くよりずっと距離が近い。そのため昔から知られ
ていたようで、密売商人・盗伐者・立山参り・イワナ釣りの人々、またの物
資交流の場として利用されていたという。

この険しい針ノ木谷の道を物資を運ぶのは牛たちで、当時は針ノ木雪渓
の下には各所に牛小屋があったといいます。1874年(明治7)になり、越
中の芦峅寺(あしくらじ)村(現立山町)や信州・野口村(現大町市平)が
協力して、牛などが通りやすい通路「信越連帯新道」を計画し、工事に着
手。

芦峅寺からザラ峠、刈安峠を越えて黒部川平(たいら・いまは黒部湖があ
り渡船場になっている)を渡り、さらに針ノ木峠を越えて野口村まで建設
の計画でしたが、明治政府の許可がおりなく挫折したそうです(【ひとり画
展】530号)。

さらにここは、戦国時代にも軍事目的の重要な関門であったそうです。安
土桃山時代、越中の領主・佐々成政が雪の北アルプス越えをしたことは
有名です。

そもそも佐々成政は織田信長に仕えていました。天正10年(1582)「本
能寺の変」で信長が倒れると、羽柴(豊臣)秀吉の権力が強くなります。
秀吉に対して織田信長の次男・信雄(のぶかつ)と徳川家康が手を結ん
で「小牧・長久手の戦い」(天正12・1584年4月)がはじまります。

両軍がにらみ合い、相手の出方をさぐりあっていた同年11月、「織田信
雄が勝手に秀吉と和解した」との知らせが成政のもとに届きます。信雄に
味方して織田家再興を願っていた佐々成政です。まさに寝返りのこの知
らせに慌てます。

まわりを見れば西に秀吉側の前田利家、東に同じく上杉景勝、さらに南
の美濃もすでに秀吉の勢力範囲になっていて、四面楚歌の状態です。し
かも佐々成政の越中富山城ををねらいはじめています。成政はついに雪
の北アルプス越えて、徳川家康に秀吉との戦いを続けるように進言する
ことを決断。

こうして天正12年(1584)11月23日(旧暦・新暦では12月18日)、
地元の芦峅寺村の人々に案内させ、90名の将兵とともに出発したとい
う。

コースはいろいろな説がありますが、越中側立山温泉から常願寺川をさ
かのぼり、ザラ峠、黒部川平(たいら)、針ノ木谷、針ノ木峠、いまの大町
アルペンライン沿いの籠川谷から野口村大出のルート。または黒部川平
から針ノ木谷、北葛乗越、北葛沢、いまの大町ダム、野口村大出のルー
ト。さらに針ノ木谷から七倉乗越、七倉沢、いまの七倉ダム、野口村大出
と、3つのルートが考えられるという(『秘録・北アルプス物語』)。

北葛沢の南の尾根末端の鳩峰(1861.5m)は、山を下りてきて鳩の飛び
立つのを見て人里近いのを知った地点という。またその高瀬川寄りには
成政と一緒だった八郎が転落したといわれる「八郎落とし」という絶壁もあ
ります。さらにその近くには佐々成政にちなんだ「笹平」という地名伝説ま
であります。

黒部奥山山中は連日連夜の吹雪と雪崩、同行の家来は次々に倒れてい
きます。成政が信州に下るまで1ヶ月がかかったという。天正12年
(1584)12月23日、わずかに残った家臣とともに佐々成政はやっとの
思いで野口村大出に到着しました。

休むひまもなく翌24日一行は大町に出て、家臣5人以外の者を姫川、
糸魚川経由で富山に返し、馬で徳川家康のいる浜松城に向かいます。
しかし徳川家康は、すでに秀吉との和睦の準備が整い、成政の進言に
は耳を貸さなかったという。

万策尽きた成政は糸魚川を通って富山に戻ります。翌年の天正13年
(1585)、佐々成政は富山城を囲むように攻めてくる秀吉軍を見て頭を
丸めて降伏したということです。針ノ木峠には、成政が100万両の黄金を
49個の壺に詰めて峠付近に埋めたという伝説も残っています。

さて富山城の落城後は、越中の大部分は前田利家の領地となってしまい
ました。加賀前田藩になってからは成政の奥山越えを受けて、厳重に国
境を警備。慶安元年(1648)には黒部奥山を実地調査、峠を越えて信
州野口村まで測量させたという。

その後は毎年山廻役は必ず針ノ木峠に立ち寄って、この峠が加賀藩領
であることをはっきりさせる表札を立てたといいます。こんな峠でも、そこ
はそれ、信州の杣(そま)などが、こっそり峠を越えて黒部奥山に入り込み
木材を盗伐。また、立山参詣の裏道として利用していたというから愉快で
す。

天保9年(1838)、加賀前田藩が黒部奥山の材木を幕府に献上するに
あたっては、江戸への運搬の近道である針ノ木峠から信州側へ木材を運
びおろすため、信州松本藩と交渉したといういきさつもあるそうです。当
時の古絵図には越中側を「峠表」、信州側を「峠裏」としていたという。そう
でしょう、ふつう自分側を「表」にしますわな。

針ノ木峠からは南を望めば槍ヶ岳や穂高連峰、またアルプスの裏銀座通
り、振り返れば後立山連峰の爺ヶ岳・鹿島槍ヶ岳と雄大な山なみが展望
できます。付近の高山植物には、タカネウスユキソウ、ミヤマダイコンソウ、
キオンがあります。また、峠から針木岳山頂までの登山道わきにはハクサ
ンフウロやシナノキンバイ、イワギキョウ、コマクサも咲いています。

ある年の8月、針ノ木峠にテントを張りました。前方にに七倉岳から船窪
岳、烏帽子岳への稜線が連なり、その上に槍ヶ岳の穂先がかすんでいま
す。長野県側から北葛乗越を越えてガスが針木谷に流れていきます。

針ノ木谷側からの気流に押し上げられガスの塊がなにかの形になって、
進んでは崩れ進んでは崩れています。上空に満月が浮かびはじめまし
た。

テント場のトイレは「槍見荘」との名がつけてあります。はじめ、なんのこと
か分かりませんでしたが利用してみて理解しました。中に入ると下の方に
小さな窓があります。

しゃがむと窓がちょうど目の前に。その中にあの槍ヶ岳がぴったりおさま
っています。槍を見ながら用を足すように仕掛けてあるのです。小屋の人
たちの洒落っ気が伝わってきました。

▼針ノ木峠【データ】
・【所在地】
・長野県大町市と富山県中新川郡立山町との境。大糸線信濃大町駅
の北西15キロ。JR大糸線信濃大町駅バス(40分)で扇沢、歩いて
5時間半で針ノ木峠。写真測量による標高点(2536m)と、針ノ木
小屋がある。地形図上には峠名と標高点の標高と、小屋名の記載あ
り。峠より西方向直線約700mに針ノ木岳(三等三角点・2820.6m)
がある。

・【名峠】
・井出孫六選定「日本百峠」(第43番選定:長野県)
・郷土出版社版「定本信州百峠」(第57番選定)

・【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・【標高点・2536m】北緯36度32分14.08秒、東経137度41分39.28秒

・【地図】
・2万5千分の1地形図「黒部湖(高山)」(別の図葉名と重ならず)。

・【参考文献】
・「角川日本地名大辞典20・長野県」(角川書店)1990年(平成2)。
・「角川日本地名大辞典16・富山県」(角川書店)1991年(平成3)
・「信州山岳百科・1」(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・「信州百峠・改訂普及版」(郷土出版社)1995年(平成7)
・「日本歴史地名大系20・長野県の地名」(平凡社)1990年(平成2)
・「日本歴史地名大系16・富山県の地名」(平凡社)1994年(平成6)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

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