山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼852号 尾瀬燧ヶ岳と火打ち石

【本文】

尾瀬の景色に欠かせない燧ヶ岳(ひうちがたけ)の雄姿。燧ヶ岳は
また単に燧岳(ひうちだけ)ともいうようです。東北地方の最高峰
になっています。

山頂は5つの峰に分かれ、尾瀬沼から見て左から赤ナグレ岳(2249
m)、最高峰の柴安ー(しばやすぐら・2356m)、御池岳(2240m)、
ミノブチ岳(約2210m)、俎ー(まないたぐら・2346m)になっ
ています。

三角点は俎ーにありますが、標高は西方の柴安ーの方が高い。また
中央火口丘の御池岳頂上には池もあります。初夏には北麓の檜枝岐
本村から見て俎ーの東北面に「火打挟・ひうちばさみ」の白い雪形
が望め、山名の由来となったとされています。

しかし、なぜ「火打、火打」とならぶのでしょう。「檜枝岐村史」
にこんな話が伝わっています。その昔、村びとたちが「いろり」の
火種を絶やしてしまい、寒さに震えていました。

そんな時、どこからともなく白髪の老人が現れ、一夜の宿を乞いま
した。すでに外は日が暮れており、吹雪になっていました。村びと
は「火がなくて寒いですがよかったらどうぞ」と、老人を家の中に
入れました。

すると老人は赤い石を取り出し村びとに授け、これを打つと火が出
ることを教えました。こうして村びとの「いろり」に火がつきまし
た。気がつくといままでそこにいた老人の姿は消えていました。

それ以来この赤い石を燧石(ひうちいし・火打石)と呼んだという。
村びとたちはあの白髪の老人こそ、あの山に住む神さまだろうとう
わさしあい、山の名を燧ヶ岳と名づけ山頂に燧大権現の小祠を建て
たという。

檜枝岐川の上流寒川には、赤法華沢や赤倉沢、赤安沢などの支流が
あり、いまでも大水が出たあとなど、真っ赤な石が流れてくること
があるといいます。ただ、この川の源流は、燧ヶ岳の麓から流れを
北東にとり、尾瀬沼の東方の赤安山に突き上げています。

また、檜枝岐村の星家に伝わる『家寶記』巻十三には「燧大権現 
有会津郡檜枝岐山 是ハ燧嶽ノ頂ニ天長九年壬子(みずのえね)葛
木一言主命ヲ祭村民為鎮守」とあるそうです。天長9年壬子(みず
のえね)は832年(平安時代初頭)にあたるというから古いですね。

いま俎ー山頂にある燧大権現の石祠は、1889年(明治22)8月20
日に尾瀬の開発者平野長蔵がここに登頂、同年9月24日に建立し
たもの。平野長蔵は神官の資格を得て自ら神事を執り行ったという。

桧枝岐村にはこんな話も残っています。鎌倉時代末期、後醍醐天
皇が鎌倉幕府を討滅画策の内乱「元弘の変」で、後醍醐天皇が敗
れ隠岐(おき)(島根県隠岐島)に流されたころのお話しです。

尾瀬の沼山峠を下った燧ヶ岳の麓の高原に檜の皮ぶきの小屋に若
者が一人住んでいました。ある日、上州街道から大勢の鎌倉武士
に連れられて来た公卿(くぎょう)が、ここで打ち首にされると
いう事件がありました。その公卿は京都で捕らえられ、会津に流
される途中でしたが、幕府からの命令で人知れず殺されたのでし
た。公卿の首は、武士たちが鎌倉に持ち帰りました。若者は遺体
を裏の丘に葬りました。

その次の年の秋のこと、若者が狩りからの帰り、峠の近くで突然、
クマの吠える声と女性の叫び声を聞きました。行ってみるとクマ
が若い女性に飛びかかろうとしていました。若者はとっさに矢で
クマをし止めました。しかし、その家来は無残にクマの一撃を受
けて倒れていました。若者は女性を山の小屋に連れて帰りました。
しかし女性は「万里」という名前以外、なにも身の上を語ろうとは
しませんでした。やがて冬になり山や沼は雪に埋まりました。若者
は女性に文字を教わりました。

山里にも春が来てふもとの草木が芽吹きはじめたころ、若者は一年
ほど前のことを話しました。そして公卿が残した形見の品と、辞世
の歌を女に見せました。「燧山石にきる火のそれよりも儚(はかな
く)く消ゆる世とは知らずや」「今ははやこの岩代の尾瀬沼のまこ
もとなりて人を待たなむ」。それを見た若い女性は「おなつかしや
父上さま、姫でございます」とよよと泣きくずれました。

この女性こそ公卿(くぎょう)の万里小路(までのこうじ)藤原
季房(すえふさ)卿の息女、万里姫(まりひめ)だったのです。
2人は季房と家来の塚にミズバショウの花を捧げました。そして
2人は夫婦になり子どもにも恵まれ、生涯を尾瀬沼のほとりで暮ら
したということです。

いまでも檜枝岐の里には万里姫のみやびな血が流れているといい
伝えられています。万里小路(までのこうじ)季房は、後醍醐天
皇の側近で、鎌倉幕府を倒すための謀議をすすめたひとり。計画が
事前に発覚して元弘(げんこう)の変で六波羅(ろくはら)の軍勢
に捕らえられます。

『太平記』(巻第四・笠置の囚人死罪流刑の事付けたり藤房卿の事)
にも「笠置城(かさぎのしろ)、攻め落さるるきざみ(時)、召し捕
られたまひし人々の事(処罰について)、去年は歳末の形会(けい
くわい)(諸事が重なり)によつて暫くさしおかれぬ。…。万里小
路(までのこうぢ)大納言宣房(のぶふさ)卿は、子息藤房(ふぢ
ふさ)・季房(すゑふさ)二人の罪科(とが)によって、武家に召
し捕られ、これも(宣房)も召人(めしうど)のごとくにてぞおは
しける。齢(よはひ)すでに七旬(しちじゅん)に傾いて、…。

春宮(とうぐう)の大進季房(だいしんすえふさ)をば、常陸(ひ
たち)の国へ流して長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)に預けら
る。中納言藤房をば、同国(常陸)に流して、小田民部大輔(おだ
みんぶのたいふ)にぞ預けられる。左遷・遠流の悲しみは、いづれ
も劣らぬ涙なれども、殊にこの卿の心中、推しはかるもなほ哀れな
り」(新潮社版『太平記』山下宏明校注による)と出ています。

▼燧ヶ岳【データ】
・山名:(ひうちがたけ)

山頂は赤ナグレ岳(2249m)、最高峰の柴安ー(しばやすぐら・2356
m)、御池岳(2240m)、ミノブチ岳(約2210m)、俎ー(まない
たぐら・2346m)の5峰がある。

【所在地】
・福島県南会津郡檜枝岐村。上越新幹線上毛高原駅からバス、沼田
駅乗り換え大清水停留所下車、さらに歩いて6時間で燧ヶ岳。俎ー
(2等三角点・2346.0m)と、柴安ー(写真測量による標高点・2356
m)と、赤ナグレ岳(写真測量による標高点・2249m)とミノブ
チ岳、御池岳がある。燧大権現の石祠がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第28 番選定(日本二百名山、
日本三百名山にも含まれる)
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第33 選定

【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・【俎ー2等三角点2346.0m】緯度経度:北緯36度57分18.56秒、
東経139度17分19.15秒
・【柴安ー標高点2356m】緯度経度:北緯36度57分18.4秒、東
経139度17分7.1秒
・【赤ナグレ岳標高点2249m】緯度経度:北緯36度56分59.1秒、
東経139度17分11.6秒
・【ミノブチ岳】緯度経度:北緯36度57分4.5秒、東経139度17
分21.5秒
・【三池岳】緯度経度:北緯36度57分9.5秒、東経139度17分16


【地図】
・2万5千分の1地形図「燧ヶ岳(日光)」

【参考文献】
・『尾瀬むかしむかし・1』(株・ナグモ)(発行年不明)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)
・『日本歴史地名大系7・福島県の地名』(平凡社)1993年(平成
5)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年(平成21)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

 

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