▼816号 「南ア・赤石岳と椹島」
▼@山旅【画ッ展】816号「南ア・赤石岳と椹島」
【説明略文】
赤石岳といえば大正時代、大倉喜八郎という人が88歳の高齢で、
特注文の山カゴに乗り人夫200人を従え、椹島から大名登山した
ことが有名です。また南北朝時代、北朝に攻め立てられ、形勢が
悪くなった南朝方の宗良親王が、遠江国伊谷城を棄てて従者と赤
石岳のふもとの大河原地区に隠棲したという伝承もあります。
・静岡県静岡市葵区
▼816号 「南ア・赤石岳と椹島」
【本文】
赤石岳(3120m)は、南アルプス(赤石山脈)のほぼ中央にあ
り、山脈名にもなっている山。標高は日本で第7位、南アルプス
のなかでは第4位を誇ります。
赤石の名は南面の静岡県側を遡る赤石沢に由来しているとされ
ています。赤石沢は谷底に赤紅色のラジオラリアチャートがあり、
その赤い石からきているという。そういえば赤石岳付近では赤い
色の石をよく目にします。
山名の赤石岳とは静岡県の呼び名で、長野県側では静岡県との
境にあるため、駿河岳と呼び、また釜沢岳や、大河原ノ岳の名も
あったといいます。大河原ノ岳は、西麓信州側の大河原集落から
の名前だそうです。
この山にある伝説です。南北朝時代、北朝に攻め立てられ、形
勢が悪くなった南朝の後醍醐天皇の皇子宗良(むねなが)親王は、
北条時行、諏訪頼継、高坂高宗などを従え、遠江国(とおとうみ
のくに)(いまの静岡県西部地域、大井川の西側)伊谷城を棄てて
信濃の国に入り、赤石岳のふもとの大河原地区に留まりました。
親王は南朝勢力挽回のために東奔西走するかたわら、しばしば
赤石岳山頂に登って、足利市調伏を祈願したというのです。同親
王の「家集」(個人の和歌を集めた書)「李花集・りかしゅう」の
詞書(ことばがき)には、「興国5年、信濃国大川原(ママ)と申す
山のおくに籠もり居侍りしに」とあり(「信史5」)、宗良親王が当
地に入ったのは、この南朝の興国5(1344)年・北朝では康永3
年か、その前年とされているそうです。
また同書には「大河原と申し侍りし山の奧をも又立ちいで侍り
しに」とあり、正平2年前後、親王は南朝の御所がある和歌山県
吉野に上ろうとして、大河原地区を出発しましたが、翌年、美濃
から駿府を経て大河原に戻ったといいます。さらに同親王は文中
3(1374)年12月、いったん吉野に帰りますが、約30年間にわ
たって当地や周辺の大草地区を根拠に駿河、武蔵、上野、越後、
美濃、尾張などを転戦し、南朝挽回を画策しました。
この宗良親王がいつどこで没したかははっきりしません。ただ
それに関連した文書を探した人もおります。その一つに、長野県
飯田市の文永寺の住職宗詢(そうじゅん)が、戦国時代の天文19
年(1550)に、宗良親王の和歌を書き写したものの詞書があるそ
うです。それには、「大草と申(もうす)山の奥のさとの奥に、大
河原と申(す)所にて、むなしくならせ給(う)とそ、あハれな
る事共なり」と記されており、場所としては、ここが親王の終焉
の地だろうとされています。また年代については、『続史愚抄』(ぞ
くしぐしょう)(江戸中期の公卿柳原紀光が父光綱の志を継ぎ編修
した歴史書)には、1385(元中2)年だとしています。
南アルプス西ろくの長野県大鹿村釜沢から釜沢から小河内川を
上ると「御所平」という所があります。ここが親王隠棲の御所だ
とされ、いまその供養塔である宝篋印塔(ほうきょういんとう)(※
墓塔・供養塔)が残っています。先の宗良親王の家集『李花集』
の詞書に、「信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくし
う庵一二ばかりしてすみ侍りける…うんぬん」とあるのは、ここ
の御所近くのことだとされています。
またこの場所の近くに的場(まとば)という地名があり、鉄鏃
(やじり)も出土しており、これも親王が住んでいた証(あかし)
なのだといいます。さらに地元の大河原城主香坂高宗が、北朝方
の迫害からこの親王を擁護していたらしく、例の『李花集』の詞
書(ことばがき)に、城主高宗の忠節にふれた一文も残っていま
す。
一方、赤石岳北側・西麓の大河原方面から稜線に登ったところ
に「大聖寺平」という平坦地があります。大河原方面へ下る分岐
があり、指導標とケルンが建っています。ここは大河原にいた宗
良親王に関係ある地名「大小寺平」が「大聖寺平」に変化したも
のだそうです。
さて、赤石岳には江戸時代から山岳宗教登山が行われていたら
しい。明治12(1879)年はじめてお上の測量班が赤石岳に登頂し、
測量標を建てました。つづいて10年後の1889年(明治22)にも、
新設されたばかりの部署「陸軍参謀本部陸地測量部」が、一等三角
点設置のために登っています。それより早く明治12年(1879)の
測量班の登頂以後、ドイツ人の地質学者エドモンド・ナウマン、地
質調査の中島謙造、有名なイギリスの宣教師ウェストン、植物研究
の河野齢蔵、それに小島烏水らが続きます。
明治19年(1886)になると、信州河野村堀越(いまの豊岡村)
の敬神講の堀本丈吉や、また同年に甲州の名取直衛(江)が赤石
岳に登り、山頂で祈祷したということです。新田次郎の小説、「孤
高の人」で有名な登山家・加藤文太郎著の「南アルプスをゆく」
のなかには、小赤石岳の南、剣ヶ峰に「蚕玉大神(こだまたいじ
ん)」を祀ってあるとも書いてあり、古くから信仰登山が行われて
いたようです。。(★注:西ろくの飯田市など伊那谷には蚕玉神を
まつる祠や神社が多い)。
赤石岳について話のタネになるのが大倉喜八郎の大名登山です。
1926年(大正15)夏、88歳の高齢をおして、特別注文の山カゴに
乗り、人夫200人を従えて椹島から赤石山頂に登ったというから、
ケタがはずれています。大倉喜八郎といえば、大倉財閥を一代で築
いた政商。当時、このあたりの山林はすべて大蔵喜八郎のもの。荒
川小屋はこの時初めて建てられたのだそうです。
江戸時代後期の1837年(天保8年)、新潟県新発田で産声をあげ
た喜八郎は18歳の時、江戸に出て鰹節店に丁稚奉公。3年後上野
に乾物屋を開き独立、その後鉄砲店を開業します。おりしも日本は
幕末、明治維新の大動乱。官軍から幕軍からも注文が殺到します。
商売とあらばあっちもこっちもありません。喜八郎は両軍に鉄砲を
売りまくり大儲けしました。
その後、大蔵組商会という会社を設立、貿易商と用達事業に乗り
出し財閥の基礎を築きます。そして大倉商事、大倉鉱業、大倉土木
の三社を中核とする組織機構をつくりあげました。事業として大成
功を成し遂げた喜一郎。一時は奴豆腐が食べたいとパーティー会
場に豆腐屋を呼んでつくらせたり、びんビールを持参させたり、
当時で4億円の経費を使うという豪傑ぶりだったといいます。
しかし、事業内容を中国大陸への進出に比重をかけ過ぎ、第二
次大戦の敗戦でそのすべてを失い衰退してしまいました。しかし彼
の業績は、いまの東京経済大学(大倉高等商業学校)や、東京・虎
ノ門の大倉集古館、東海パルプ、大成建設、サッポロビールなど、
大倉喜八郎が興したものとして残っています。いま南アルプスのほ
とんどの山小屋は東海パルプ子会社の関連の施設です。
ある年の8月、千枚岳から二軒小屋への途中で足を痛めてしまい
ました。そしてトボトボと歩いて、やっとたどり着いた登山口椹島
(さわらじま)ロッジ。畑薙(はたなぎ)第一ダムまでのバスの便
に乗るには明日の午後まで待たねばなりません。構内をブラブラし
ていると、隅の方にここの創業者大倉喜八郎の記念碑がありました。
喜八郎は狂歌をよくつくり「鶴彦」の号まであったといいます。記
念碑には「赤石のやまのうてなに万歳を唱ふる老も有難の世や」(大
正一五年八月七日 赤石岳絶頂を極む 九十翁大倉鶴彦)と刻まれ
ています。エッ、90歳?数え年としても89歳。あと20年後、自
分はここへ来れるかなァ。そのわきをこれから登る者や下りてきた
登山者たちが次々に通り過ぎていきました。
▼赤石岳【データ】
【所在地】
・静岡県静岡市。JR東海道線静岡駅からバス、畑薙第一ダムか
ら東海パルプリムジンバスに乗り換え、椹島ロッジ下車。写真測
量による標高点(1123m・標石はない)がある。
【位置】
・【椹島】:緯度経度:北緯35度25分53.64秒、東経138度12分
25.8秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」(電子国土ポータルWeb
システムから検索)
▼【参考文献】
・「アルプスの伝説」山田野利天著(株)ナガザワ
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典22・静岡県』小和田哲男ほか編(角川書店)
1982年(昭和57)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和5
4)
・『日本山岳風土記2・中央・南アルプス』(宝文館)1960年(昭
和35)
・『山の伝説』青木純二著(丁未(ていび)出版社)1930年(昭和
5)
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