山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼793号「西丹沢・天保年間の甲州相州国境争い」

【略文】
相模(神奈川)・甲斐(山梨)・駿府(静岡)の旧国境紛争は平安時
代から江戸時代まで千年にもおよんだという。1847年(弘化4)幕
府の調停でやっといまの県境に決定。いまでも大室山から加入道山
・城ヶ尾山・菰釣山・山中湖へ続く尾根上には、当時の国境紛争を
説明した掲示板が見受けられる。
・大室山:神奈川県山北町と山梨県道志村と境

▼793号「西丹沢・天保年間の甲州相州国境争い」

【本文】
丹沢の中でも奥深い大室山から菰釣山・三国山にかけての尾根は、
神奈川県と山梨県・静岡県の県境になっています。このあたりはよ
い木材が採れる山だったという。

かつて小田原北条氏の命令で伐り出された木材は、城のある小田原
まで運搬されていたそうです。江戸時代になると御木となって保護
され、明治には御料林に指定されます。

こんな山林ですから、相模の国(相州・神奈川県側)・甲斐の国(甲
州・山梨県側)・駿河の国(駿州・静岡県側)とも自分の領地に有
利にしたいところ。

そんな中、甲州・平野村の名主・長田勝之進らが相州から国境を越
えて炭焼きに入り込む者ありという騒動が起こりました。これが発
端になり、大論争に発展していきました。

1841年(天保12)10月、ついに平野村の勝之進は幕府に幕府に告訴
します。西丹沢の菰釣山にコモを吊して立てこもったのはこの時だ
ったそうです。

相州側は中川村(現山北町)・青根村(現相模原市津久井)・青野原
村(現相模原市津久井)・牧野村(現藤野町)と甲州側は道志村・
山中村(山中湖村)・長池村(山中湖村)の3村)、駿州側は須走村
(小山町)の計8ヶ村に及ぶ国境論争です。

甲州側の主張は、「道志川・神ノ川の合流点から長者小屋を経て犬
越路、中川川箒杉を進んで遠く倉骨峠・山神峠、さては三国山越し
に須走神社前まで」と申し立てました。

一方、相州側は大室山から畦ヶ丸から菰釣山などの峰続きと主張し
幕府へ上訴。ついに幕府の家老が裁定に乗り出すことになりました。

当時、大室山山頂には甲斐の国の道志側が祭った「大牟連(おおむ
れ)山大権現」の石碑があったという。甲斐側はこの石碑のためこ
こが境界だと幕府に思われるのは困ります。そこで神官が石碑をこ
っそり担ぎ下りて隠したという。

ところが、幕府は逆に何もない尾根上を境界とみなし、相模側が主
張するいまのような大室山から鐘撞山への国境線が引かれてしまっ
たということです。1847年(弘化4)のことだそうです(「道志七
里」)。

古くは平安時代の797年(延暦16)中央政府の裁定からの国境紛争
は千年にもおよんだわけです。そういえば、いまでも大室山から加
入道山・大界木山・城ヶ尾山・菰釣山・山中湖へ続く尾根上には、
当時の国境紛争を説明した掲示板が見受けられます。

▼大室山【データ】
山名:おおむろやま

★【異名・由来】
異名:大群山(おおむれやま)

由来:八王子の南方では大室山が富士山を隠してしまうので「富士
隠し」と呼ぶ。ムロ(室、牟婁)は、牟礼(ムレ)、村(むら)と
同じ意味で、大きな集落がある。などの説がある。

★【所在地】
神奈川県山北町と山梨県南都留郡道志村と境。中央本線四方津駅の
四方津駅の南11キロ。小田急新松田駅からバス・西丹沢下車歩いて
4時間で大室山。二等三角点(1587.6m)がある。そのほか付近に
何もなし。地形図上には山名と三角点の標高のみ記載。付近に何も
記載なし。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
【大室山二等三角点】緯度経度:北緯35度30分39.5秒、東経139度0
4分6.9秒

★【地図】
2万5千分の1地形図「大室山(東京)」。5万分の1地形図「東京
−上野原」)

★【参考】
「角川日本地名大辞典14・神奈川県」伊倉退蔵ほか編(角川書店)
1984年(昭和59)
「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
「道志七里」伊藤堅吉(山梨県道志村役場)1953(昭和28)年

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

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