山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼770号 「奥武蔵・武甲山のマツとフジ(1)」

【概略】
武甲山の七合目から上には松と藤がないという。かつて畠山重忠と
梶原景時が山頂の祠の向きで激論。負けた景時は罰として松の木に
藤の蔓で縛られた。悔しがった景時は「以後、ここには松と藤は生
えるな」と呪った。その後武甲山に松と藤がなくなったという。
・埼玉県秩父市と横瀬町との境

▼770号 「奥武蔵・武甲山のマツとフジ(1)」

【本文】
埼玉県奥武蔵の武甲山(ぶこうさん)は石灰岩採掘がながく行われ、
山自体の形まで変わってしまったありさま。この石灰岩採掘事業は
幕末から行われてきたという。

武甲山は標高1295m、二等三角点があり、三角点名「武甲山」にな
っています。しかし、2003年三角点西側に最高点1304mを測量した
といいます。

この山の七合目から上にはマツとフジは育たないという伝説があり
ます。それにはこのあたりの領主畠山重忠(鎌倉初期の武士)にか
らんでいます。

武甲山には日本武尊が東征の時、戦勝を祈願して甲を埋めて建てた
といわれる祠があります。かつて重忠と梶原景時(重忠を謀反の罪
を着せようとした人物)が、山頂の祠がどっち向きかについて激論
したことがったという。

重忠は南向きだといい、景時は北向きだといい張ります。それでは
というので山頂に登ってみたところ重忠がいうとおり南向きでし
た。負けた梶原景時はその罰として、生えていたマツの木にフジの
蔓できつく縛られたという。

くやしがった景時は「これからはこの山にマツとフジは生えるな!」
と呪ったというのです。それからというもの武甲山にはマツとフジ
が生えなくなったといいます。

ふもとの横瀬地区の村人も本当にマツとフジは1本もないという話
です。祠の向きなど、どっちでもいいと思いますが、かねてからの
遺恨でもあったのでしょうか。ところで山頂の祠はどっち向きでし
たっけ。

▼武甲山【データ】
山名:ぶこうざん
異名:秩父嶺(ちちぶね)・秩父嶽(ちちぶがだけ)・御蒿・嶽山・
秩父山・蔵王山・妙見山・乳首山

由来:日本武尊が戦勝を祈って武兜を奉納した伝説

★【所在地】
埼玉県秩父市と埼玉県秩父郡横瀬町との境。秩父鉄道浦山口駅から
歩いて2時間40分で武甲山。二等三角点(1295.4m)と写真測量に
よる標高点(1304m)と武甲御岳神社の祠がある。地形図に山名と
三角点の標高と標高点の標高、神社記号(鳥居)の記載あり

★【名山】
深田クラブ選定「日本二百名山」(第141番選定):日本百名山以外
に100山を加えたもの・日本三百名山にも含まれる。
田中澄江選定(1981年)「花の百名山」(第37 番選定)

・【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
【武甲山標高点】緯度経度:北緯35度57分5.72秒、東経139度05分5
2.05秒。※50mまでアップすると標高点が消える。
【武甲山二等三角点】緯度経度:北緯35度57分06秒、東経139度05
分53秒

★【地図】
2万5千分の1地形図「秩父(東京)」。5万分の1地形図「東京−
秩父」。

★【参考】
「続・植物と神話」近藤米吉編著(雪華社)1976年(昭和51)
「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
「日本架空伝承人名事典」大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
「増補ものがたり奥武蔵」神山弘ほか(金曜堂出版部)1984年(昭
和59)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

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