山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼766号 「北ア・立山のライチョウは神のお使い」

【概略】
立山ではライチョウは山ノ神のお使いとして神聖視されていたとい
う。加賀藩の藩主も代々大事にして決して捕まえなかった。ライチ
ョウの版画は火防のお守りになっていたそうです。「僅カモ山ヲ離
ルレバ、スナハチオツ」。当時から飼育が不可能のことを知ってい
たようです。
・富山県立山町

▼766号 「北ア・立山のライチョウは神のお使い」

【本文】
山で人気者のライチョウは、国の特別天然記念物に指定された高
山鳥です。普段はハイマツの中にいて、雷がなるような時や、霧
がかかってきた時などに親子づれで出てきてイネ科の植物の実を
ついばんでいます。ライチョウは、氷河時代の生き残りといわれ、
北・南アルプス、中央アルプスなどにすんでいます。

北アルプス立山ではライチョウを立山の神の眷属として大事にし
ていたそうです。加賀藩代々の藩主はとくにライチョウを大事に
していたという。「御制札旧記」(加越能文庫)によれば、江戸時
代初期の1648年(慶安元)、加賀藩三代藩主前田利常は立山一帯の
「来鳥花松硫黄」のなどを盗むものがないよう見回ることを命じ
ています。

これはいまでいう高山植物・高山動物保護を命じたもので、たぶ
ん日本最初の行為だろうとされています。五代藩主の前田綱紀も
本草学を好んで珍しい鳥を集めさせたそうですがライチョウだけ
は捕まえず、絵師にスケッチさせています。また立山や白山で実
際にライチョウを見た町人を集めて形態や生態を聞いているとい
う(「国事雑抄」、「温故集録」)。

1720年(享保5)梅田与兵衛という絵描きが「立山のライチョウ
と白山のライチョウでは種類が違うのではないか」といい出した
ため、山廻り役の斉木村(いまの魚津市)新左衛門をわざわざ立
山に登らせ再調査したという熱心さ。

しかし捕まえることはしなかったという。それはライチョウが山
ノ神のお使いだとしたことに加えて、下界に連れてきてもすぐ死
んでしまうことを知っていたのかも知れません。

十一代藩主の前田治脩も1788年(天明8)、絵師の梅田陳和斎久栄
を立山に登らせライチョウを写生させています。「来鳥図会」(栗
山文集)によれば、そのライチョウの絵につけた漢学者の柴野栗
山という人の解説文に、「眼上ノ赤眉、片霞ノ如シ」とあり、また
「僅カモ山ヲ離ルレバ、スナハチオツ」との記述があり、飼育が
不可能のことを知っていたようです。立山を信仰する人たちはラ
イチョウの姿を刻んだ版画を火防のお守りに頒布したという。

ところが明治時代になり「越中遊覧志」(1885年(明治18)竹中邦
香)などのようにライチョウを捕まえて食べてしまう文献があら
われ驚かされます。当時の小島烏水など登山者は、高山植物の保
護を訴えながら、一方ではライチョウやカモシカはなんとも思わ
ず捕まえて食べていたそうです。いまでは考えられないことです。

しかし、当時この人たちが山に登るとき雇ったのは決まって猟師
たち。鉄砲撃ちが案内人ではそんなこともあったかのも知れませ
んね。(「日本歴史地名大系・富山」平凡社)を参考にしました。

▼室堂平【データ】
地名:むろどうだいら

★【異名・由来】
室堂平バスターミナル。室堂は立山の信仰登山のため、1695年(元
禄8)に金沢藩の参籠所としてつくられた。のち享保年間(1716〜
36)に山小屋になった。わが国で最も古い山小屋。

★【所在地】
富山県中新川郡立山町町。富山地方鉄道立山線立山駅の東14キロ。
富山地方鉄道立山駅からケーブル、美女平駅からバス、立山室堂平。
電子基準点(標高2441.24m)と電子基準点(付)(標高2432.55m)
がある。地形図上に室堂平、室堂ターミナル、自然保護センター、
郵便局記号、病院建物記号、交番建物記号、官公署建物記号、電子
基準点記号とその標高(2432.6m)の記載あり。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
【室堂電子基準点】緯度経度:北緯36度34分37.17秒、東経137度35
分45.47秒

★【地図】
2万5千分の1地形図「立山(高山)」(室堂バスターミナルは別の
図葉名と重ならず)。5万分の1地形図「高山−立山」

★【参考】
「日本歴史地名大系16・富山県の地名」(平凡社)1994年(平成6)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

 

山旅イラスト【ひとり画展】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ【戻る】