山の伝承伝説に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼765号 「富士山火口内・賽銭ドロボーをした男たち」

【概略】
かつて富士山登山者が投げる賽銭で、火口は巨大な賽銭箱になっ
ていたという。それを盗もうと閉山後、コッソリ入った者がいま
した。中は「一面ノヤケ砂ニテ、今ニ火アリテ、其アツサタヘガ
タシ。草鞋ヲ三足カサネテハキテ…」やっと通り過ぎるとこんど
は雪解け水が集まった川。地熱などに悩まされながら拾った賽銭
はわずかだったと嘆いています。

▼765号 「富士山火口内・賽銭ドロボーをした男たち」

【本文】
かつて富士山に登った人たちは、浅間神社の奥ノ院にあたる火口
に賽銭を投げたという。この習慣は室町時代からあったのだとい
います。大勢の人が投げ入れるのですから賽銭の量もバカになり
ません。神社の修復などにあてるにはもってこいの額だったとい
うのです。

この賽銭を拾う権利をめぐって、浅間大社や須走浅間などの間で
権利争いがおこるほどだったといいます。ちなみに1690年(元禄
3)6月に拾い集めた散銭は57貫600文(金の単位で12両400文)
にもなったという。こんな火口ですから江戸時代を通じ、中に勝
手に入ることは厳禁でした。

ところが同じ江戸時代、富士登山閉山後、拾い残りの賽銭を拾お
うとこっそり火口の中に入った男らがいたという。いわゆる賽銭
ドロボーです。ドロボーたちが内院(火口内)に入った時のこと
が『駿河国新風土記』(天保5年(1834)に完成した駿河国の地誌)
という文書に載っています。

「内院ニ入ル事十町バカリニテ、一面ノヤケ砂ニテ、今ニ火アリ
テ、其(の)アツサ(熱さ)タヘガタシ。草鞋(わらじ)ヲ三足
カサネテハキテ、漸(ようや)ク其(その)所ヲ過(ぎ)テ、二
三町行ケ火ハナシ。

ソレヨリ十町バカリ下ニ、虎ノ蹲(そん・うずくまる)シタリト
ミユル石アリ。其(の)所ニイタリテミレバ、小山ナリ。其(の)
下ニ大川アリテ、イズレヘ流ルルニヤト、今ニイブカシク思フト
語レリ」とあります。

虎岩はお鉢めぐりをしていても確認できるし、雪解け水が集まっ
て流れる川がいまでもあることは『富士山よもやま話』の著者の
遠藤秀男氏が中に入って確認されているそうです。火口内に入っ
た男たちは須走村の狂歌師、混元という男ら3人だったという。
こんな目に遭いながら、わずかな銭しか拾えなかったと嘆いてい
たそうです。

また、1866年(慶応2)7月、スイスのブレンワルトという人も
火口内に入ったという記録があります。ブレンワルトはひとりで
火口に入り、「山頂の空口に入(り)て、其(の)底の深さを計る
に、深さ五百尺あり」と記録しているという。

500尺は約160mあまりです。火口底までは、高さが不規則な火口
棚のせいもあって、計る場所で違いが出て、剣ヶ峰からだと220m、
虎岩南面火口の棚からだと、150m前後だというからブレンワルト
は、こちらから中へ入ったのかも知れません。

火口へのルートはふつう、虎岩南面面から下るのだという。そう
いえば三島岳から剣ヶ峰に向かう途中から虎岩にトラバースする
ふみあとを見たことがあります。ある年の7月16日、富士吉田か
ら原生林へ野宿して久しぶりに富士山へ登りました。

きょうこそはっきり踏みあとを見定めることができるかも知れま
せん。わくわくしながら8合目から9合目へ。早朝から吹いてい
た風とガスが一段とものすごくなってきました。同行のW女史が
体調不良を訴えはじめました。ここは無理をしないことにするか
…。楽しみはまたの機会ということで五合目目指して引き返した
のでありました。



▼富士山頂【データ】
・【山名・異名】
富士山(ふじさん・ふじやま)、不尽、不二、布士、富慈、芙蓉峰
(ふようほう)、富岳などの呼び方がある。

★【山名の由来】
天地の富を士(つかさどる)故に富士山と号し、郡名と作(な)す。
勅使が大勢の兵士を連れて登ったので、富士山が兵士でいっぱいに
なった。そこで「士に富む山=富士山」になった(「竹取物語」)。


富士山8合9勺(はちごうきゅうしゃく=3360m)からから上、約
400万平方mは、徳川家康が富士山本宮浅間大社に寄進したとの記
録があるが、明治維新後国有地にされていた。

8合目から上の神社の施設のある約16万平方m分は1952年(昭和27)
に大社に譲与されているが、富士山頂が返還されなかったため、大
社側が国を相手取って裁判を起こしました。

1974年(昭和49)、最高裁の判決で大社側の所有が認められた。し
かし静岡、山梨の県境が確定しておらず、登記手続きがとれず(東
海財務局)、2004年(平成16)12月17日、土地の所有権が国から富
士山本宮浅間神社に移った。(2004年(平成16)12月18付け朝日新
聞から)。

しかし、土地の所有権は認められはしたものの、山頂付近の静岡県
と山梨県の県境はまだ定まっていないという。したがって、土地登
記が出来ずじまい。住所は、もちろん静岡県でもなく山梨県でもな
い。所在地は、日本国富士山無番地なのだそうです。

同大社側は「これで所有権の手続きは解決した。県境の問題は県民
感情もあり、登記に向けて時間をかけて解決したい」と話している
という。

★【所在地】富士山頂
山梨県富士吉田市、山梨県南都留郡鳴沢村と静岡県富士宮市、富士
市、御殿場市・静岡県駿東郡小山町との境だが八合目付近から上部
は富士山本宮浅間大社の「私有地」になっており、境界がはっきり
していない。富士急行河口湖駅からバス、河口湖口五合目から5時
間30分で富士山頂。山頂剣ヶ峰に電子基準点(3777.39m)と二等
三角点(3775.63m)、白山岳に二等三角点(3756.36m)がある。火
口内に写真測量による標高点(3535m・標石はない)がある。

★【ご利益】
【浅間神社奥宮】:【浅間神社】安産・火災除け:【富士山本宮浅間
大社】五穀豊穣、湧水守護の神

★【名山】
・深田久弥選定「日本百名山」(第72番選定):日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる。
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(第69 番選定)
・山梨県選定「山梨百名山」(第100番選定)

・【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
【火口内の標高点】(標高3535m)緯度経度:北緯35度21分46.53秒、
東経138度43分53.27秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「富士山(甲府)」。5万分の1地形図「甲府
−富士山」

★【参考】
・「富士山記」都良香(『本朝文粹註釋・巻第12』に収録):「富士山
記」柿村重松註(内外出版)(注釈あり)
・『富士山よもやま話』遠藤秀男(静岡新聞社)1989年(平成元)
・「富士山真景之図」長島泰行(名著出版)昭和60(1985)(『富士山
よもやま話』遠藤秀男(静岡新聞社)
・『駿河国新風土記』(全25巻)新庄道雄(1776〜1835)著(天保5年
(1834)に完成した駿河国の地誌):『駿河国新風土記』(上巻・下
巻)新庄道雄(国書刊行会)1975年(昭和50)
・『駿河国新風土記』駿河国新風土記 第1至10輯新庄道雄著(志
豆波多会)昭和8-9 修訂 足立鍬太郎訂。国立国会図書館

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよた 時】

 

山旅イラスト【ひとり画展通信】題名一覧へ戻る
………………………………………………………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」トップページ【戻る】