山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

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▼737号 「野みち山みち・ジネンジョの掘りあととムカゴとウナギ」

【概略】
里山歩きでどうも気になるジネンジョを掘ったあと。危険なので穴は埋め
ておいてもらいたいもの。ヤマノイモの仲間は茎の所少し残しておけば、
ムカゴから成長するより早く大きくなるはずだ。ジネンジョはヤマノイモ。里
のイモ(サトイモ)に対して山のイモ。
・ヤマノイモ科ヤマノイモ属の多年草

▼737号 「野みち山みち・ジネンジョの掘りあととムカゴとウナギ」

【本文】
いまごろ、里山で目につくのがジネンジョ(ヤマノイモ)を掘っ
たあと。穴をあけっぱなしにしてあり、落ちると怪我をするので
危険です。自分で掘った穴はちゃんと埋めるのがマナーです。

それより、ジネンジョは全部掘らずに、上の茎側の細い部分を少
し残して穴に埋めておくと、ムカゴよりも早く生長するので後々
のためによいのです。

ムカゴはジネンジョの茎にできる褐色の丸いイモの赤ちゃんのよ
うなもの。ムカゴはタネとは別のものですが、地面に落ちると芽
を出して生長します。

ムカゴもご飯に炊き込んで食べられます。ジネンジョは春、古い
イモの上に新しいイモができて、それが古いイモの貯蔵物質を吸
収し、急に大きくなり、前よりも大きな新イモになります。そし
て古いイモはなくなってしまいます。

かつて子どもたちはこのムカゴに木の枝などをさして「やじろべ
え」を作ったり、3枚の羽のある果実をなめて鼻の上につけて「天
狗遊び」をしました。

ヤマノイモ(ヤマイモ)といっても、畑で栽培されるナガイモを
指す場合と、文字どおり山野から掘り出すジネンジョをいう場合
があります。なかには九州や沖縄で栽培されているダイショをも
ひっくるめていう時もあるのでややこしくなります。

「ヤマノイモがウナギになる」ということわざがあります。物ご
とが意外な状況に変化することをいうそうです。ヤマノイモがウ
ナギになっちゃ、意外な状況に違いありませんよね。

でも、江戸中期寺島良安の『和漢三才図会』(巻第百二・薯蕷)に
こんなことが載っています。薯蕷(やまのいも)は渓(たに)の辺
りに端を出し、時どきは風水に感応して鰻(うなぎ)に変化する。
半分鰻に変わっているのを見た人は往々にあるとあります。

また江戸文政〜天保期の松浦靜山著『甲子夜話』(巻七十一)には、
「薯蕷(しょよ・ヤマノイモ)鰻と化す」と題し、「世に薯蕷(ヤ
マノイモ)鰻になると云伝ふは、何(い)かにも其言の如し。先年
のこととよ。西鄙(ひ・いなか)の領内にて岸の上に自然生の薯蕷
ありしが、其根岸下に出て、?流(かんりゅう)(澗の異体字、中
が月)に浸りたる所半ば鰻に化しゐたりと。」

次ぎに『和漢三才図会』の記述があり、「さらに、然るに最奇なる
は、近年のこととよ、某なる者、薯蕷を食せん迚切断けるに、其中
より釣針出たり。菜根の中に鉤有るべき理なし。かゝれば鰻魚も時
として薯蕷に変ずること有りやと。

又一事可レ咲は、或寺不如法のこと有迚、地頭より穿鑿(せんさく)
あり。寺よりは曽て無しと云ゆゑ、後は家捜しをなすとき、厨下を
視れば、一籠を覆せり。開て見れば、中に鰻魚あり。検使果して破
戒の物ありと云へば、主僧駭応して曰。この物今迄は山芋にて有し
がと、人皆拍掌せりとぞ」と結んでいます。

昔は本当にヤマノイモがウナギになると信じていたかというと、「或
寺」のように、地頭の精進料理についての穿鑿(せんさく)をごま
かすために、「きのうまではたしかにウナギだった」などと答える
ところなんぞは、そばにいた坊さんでなくても快哉を叫びたくなり
ますね。

【つけたり・1】こんな話もあります。昔加賀国石川郡に加賀介藤
原某の子孫だという人が住んでいました。都恋しさのあまり、家の
あたりをそれぞれ京にちなんだ名前をつけたりしていました。貧乏
なので山へ出かけ、山芋を掘って口すぎをしていたため、「芋掘藤
五郎」と呼ばれていました。

そのころ、大和の国初瀬村に生玉(いくたま)の方信という長者が
いました。しかし、子どもがなかなく、なげいた長者は初瀬観音に
日参して願をかけました。そのかいあったのか、まもなく美しい女
の子が生まれました。喜んだ両親は、「和子」と名づけて寵愛。和
子は、成長するにつれ、ますます麗しくなっていきました。

ある夜、観音さまからお告げがありました。「娘の婿は北の国加賀
国石川郡の芋掘藤五郎という男である」。方信は観音さまの尊いお
告げなので、財宝をたくさんもたせて加賀国の藤五郎のもとへ嫁が
せました。しかし、藤五郎はもらった宝を村の人たちに分けてしま
い、元通りの貧乏暮らし。山へ行っては芋を掘るのでありました。

ある時、大和の長者、生玉の方信から黄金を一袋送ってきました。
しかし、彼はいつものとおり、田んぼへ投げ捨てました。驚く妻に
藤五郎は、にこにこしながら「黄金は珍しいものではない。いつも
掘っている芋づるの根元に幾らでもある」と、まるで石か瓦のよう
に掘り出してきました。

黄金を掘り出した沢の名を「金洗沢」といい、いま兼六園の一隅に
ある「金城霊沢」といってところがそれだという。これが金沢の地
名のおこりだそうです。そのそばに加賀藩の鴻儒(こうじゅ・偉大
な学者)津田鳳卿 (つだ ほうけい)の撰で、書道の大家市川米庵
の書にかかる石碑が建てられています。

【付けたり・2】さらにオセアニアの伝説です。むかし、ある地方
にヤマノイモが生えていました。ヤマノイモは不満たらたらです。
「自分たちは暗いところに埋められっぱなしで、陽の目も見ないば
かりか、歩くことも身動きさえもできない。それにくらべて、空飛
ぶトビはどうだ。思う存分大空を飛びまわり、どこにでも行けるじ
ゃないか。神さまもずいぶんと不公平だ。

さんざんトビの悪口をわめき散らしました。それを聞いたトビは怒
り、「ヤマノイモのくせに生意気だ」と地中から引き抜き空高く舞
い上がりました。しかし、ヤマノイモはくわえにくいうえ、もがく
ので地面へ落としてしまいました。落ちたヤマノイモはふたつに割
れ、それぞれに根づいてふたつの芋になりました。

もともと同じ根から生まれたヤマノイモが、ひとつは甘いいもに、
もうひとつは苦い芋になってしまいました。そのためいまでも、ヤ
マノイモには甘いのと、苦いのがあるのだそうです。
・ヤマノイモ科ヤマノイモ属の多年草


▼【データ】
・ヤマイモ科ヤマイモ属のつる性多年草

★【参考文献】
・『甲子夜話』松浦靜山著(江戸文政〜天保期):東洋文庫「甲子夜
話・5」校訂・中村幸彦ほか(平凡社)1989年(昭和64)
・『草花あそび』熊谷清司(文化書房博文社)1991年(平成3)
・『野菜・山菜博物事典』草川俊著(東京堂出版)1992年(平成4)
・『植物と神話』近藤米吉編著(雪華社)1973年(昭和48)
・『植物と伝説』松田修(明文堂)1935年(昭和10)
・『野にあそぶ・自然の中の子ども』齋藤たま(平凡社ライブラリ
ー)2000年(平成12)
・『和漢三才図会』(寺島良安)1712年(正徳2年・江戸中期)(巻
第百二・薯蕷(しょよ・ヤマノイモ):東洋文庫『和漢三才図会・18』
(訳注:島田勇雄ほか)(新潮社)1992年(平成4)

 

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山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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