山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼681号「熊野古道十津川村五百瀬の腰抜田」

【概略】
南北朝時代、南朝・後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王の家来・村上
義光は、芋瀬の荘司の家来を田んぼの中に投げ飛ばし、親王の錦の
御旗を奪い返した。投げ飛ばされた家来はそのまま腰を抜かしてし
まった。以来そこを腰抜田といっているという。
・奈良県十津川村五百瀬(いもせ)

▼681号「熊野古道十津川村五百瀬の腰抜田」

【本文】
▼山旅【画展】681号「奈良県十津川村五百瀬・南北朝時代の遺跡腰抜田」(05・04)
【本文】
 2004年(平成16)に世界遺産に登録された熊野古道。その高野
山から熊野本宮に続く小辺路(こへじ)・奈良県十津川村五百瀬(芋
瀬・いもぜ)地区に腰抜田(こしぬけだ)という石碑があります。

 ここは南北朝時代、南朝・後醍醐天皇の皇子大塔宮護良親王(お
おとうのみやもりながしんのう)が鎌倉幕府方から逃れて、吉野
へ落ちる時に通ったところといいます。

 1332年(元弘2)後醍醐天皇が隠岐に流されたころ還俗した親
王は、幕府の追及を逃れて大和、紀伊辺りに潜行し、ここ紀伊果
無山脈から十津川村辺りを逃避行をつづけておりました。

 その時、十津川の芋瀬の荘司(しょうじ・荘園の管理者)に助
けを頼みましたが、すでに幕府から護良親王追討との達しが届い
ていました。芋瀬の庄司は、宮を自分の屋敷へは入れず、そばに
あるお堂へ案内しておいてから、使者を通じて申し入れました。

 『太平記』(巻第五)によれば、「三山(熊野三山)の別当(神
社の経営管理を行う)定遍(じょうべん・僧都)、武命を含んで(幕
府の命令をおびて)、隠謀(おんぼう)与党の輩(ともがら)をば
関東へ注進つかまつる事(告発いたしておりますから)にて候へ
ば、この道よりさう無く通しまゐらせん事(このままでお通し申
し上げることは)、後の罪科陳謝(ちんじゃ)するによんどころ有
るべからず候ふ。…

 …さりながら宮を留めまゐらせん事は、その恐れ候へば、御供
の人々の中に、名字さりぬべからんずる人を一両人賜って、武家
へ召し渡し候ふか(幕府へ突き出すことにしますか)、しからずん
ば(さもなければ)御紋の旗を賜って、合戦つかまつって候ひつ
る支証(証拠)これにて候ふと、武家へ申すべきにて候ふ。…

 …この二つの間いづれも叶ふまじきとの御意にて候はば、力無
く(やむなく)一矢(いっし・一戦)つかまつらんずるにて候ふ」
と、誠にまた余儀もなげにぞ(とりつくしまもなく)申し入れた
りける。…」と続きます。

 つまり、芋瀬の庄司がいうには、「熊野三山の別当定遍が鎌倉の
命によってこの地を守り、陰謀に加わった人々を取り締まってお
りますから、今、宮をたやすくお通しすれば、後日、鎌倉からお
咎めのあった時申し開きが出来ません。

 しかし、宮をお止めするのも畏れ多いことですから、お供の衆
の中で名の知れた者を2人お渡し願って鎌倉へ差し出すか、それ
とも、ご紋のついた旗をいただき、私どもが合戦でうばい取った
ということにして報告するか、…どちらもできないとの仰せあれ
ば…一戦するよりほかはありません」と、とりつくしまもない答
えです。

 大塔宮は、どちらも難題だと思って、あえて返事をしませんで
したが、平賀三郎が末席からすすみ出て申しました。「私ごときが、
かようなことを申し上げるのは不躾でございますが、二つのうち
の比較的容易な方をとり、御旗だけをお与えなさるのが良策かと
ぞんぜられます。」

 大塔宮は、平賀三郎の意見をもっともだと思ったので、日月を
金銀で打ちつけた錦の御旗を芋瀬の庄司にお渡しになって、なん
とか無事に最初の難関を通過することができました。

 ところが、そのあとへ、ひと足遅れて宮の一行を追って急いで
きた村上彦四郎義光(よしてる)が来合わせて芋瀬の庄司とばっ
たり出会いました。ふと、芋瀬の配下の持っている旗を見ると、
紛れもない大塔宮の御旗でした。

 不審に思った義光が問いただすと、芋瀬は御旗を手に入れた、
先のいきさつを説明しました。その話を聞いて突然、烈火のよう
に怒った義光は、「これはいったい何事だ、汝らごとき賤(いや)
しい輩(やから)が、畏れ多くも皇子様が朝敵征討にお出かけに
なる道筋を遮って、このような無礼なまねをしてよいと思うの
か!」と叫んだかと思うと、御旗をひったくり、旗を持っていた
大男を、わしづかみにして4、5丈ばかりも投げとばし、錦の御
旗を奪い返しました。

 その怪力に怖じ気をふるった芋瀬の庄司は、手向かいどころか、
口をきくことさえできませんでした。家来はそのまま腰を抜かし
動けなかったので、そこを腰抜田というようになったということ
です。しかし現地の田んぼは明治22(1889)年、水害に遭い、い
まは川底に没してしまっています。

 ある年の4月、和歌山県高野山から熊野古道小辺路への道に入
り、高野竜神スカイラインを横断し途中山道にビバーク、次の日、
伯母子岳に登るころは雨から雪に変わるしまつ。避難小屋でしばら
く雨宿り。十津川村五百瀬集落に入る直前、谷を隔てた向かい側の
山がヤマザクラが配置もよく群がって咲いています。傘をさしなが
らしばらく見とれました。

 「腰抜田」の石碑は道ばたにごく普通に建っていました。腰抜田
はそこから10数m先の田んぼだったとか。「汝らほどの大凡下の
奴ばらが……」と御旗をひったくり、旗を持っていた大男を、わし
づかみにして4、5丈ばかりも投げとばし……。そんな光景を想像し
ては見たものの、そこに広がる風景はただの地方の田や畑の中に
人家がまばらにあるだけでした。

 途中で一緒になったツアーの一行は迎えにきたバスで温泉旅館
に。相変わらずの雨、その晩は三浦峠手前の底の抜けた、さっきま
でタヌキがすんでいたような、ボロ小屋の軒下にテントを張らせて
もらいました。こんな廃屋でも屋根があるということの有り難さを
しみじみと感じました。


▼腰抜田【データ】
★【所在地】
・奈良県吉野郡十津川村五百瀬。JR和歌山線五条駅から奈良交通
バス上野地下車、十津川村営バス乗り換え、三浦口停留所下車歩い
て20分で腰抜田。地形図上には何も記載なし

★【位置】
・腰抜田:北緯34度02分9.54秒、東経135度41分35.29秒

★【地図】
・旧2万5千分の1地形図「伯母子岳(和歌山)」

★【参考文献】
・『太平記』(第五巻):『太平記』(一)兵藤裕己校注(岩波
書店)2016年(平成28)
・『太平記』(巻第五):現代語版『太平記』(河出書房)1961年(昭
和36)
・『日本伝奇伝説大事典」編者・乾勝己ほか(角川書店)1990
年(平成2)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
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