山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼627号「日光・古峰ヶ原の天狗隼人坊」

【概略】
古峰神社は、もと山伏の道場だったが、明治の廃仏棄釈で神道に
切り替えた神社。しかし参拝者は天狗がお目当てに来たという。
ここは三つの石が重なっている古峰神社の奥社。抜けるような青
空。ベンチに陣取りガスに火をつけ、ラーメンをつくります。時
間が止まったようなひとときでした。
・栃木県鹿沼市

▼627号「日光・古峰ヶ原の天狗隼人坊」

【本文】
 古峰ヶ原(こぶがはら)は栃木県鹿沼市の西部にあり、足尾山
地の中心をなす標高1300m内外の高原。ここは天狗の信仰で有名
な古峰ヶ原信仰の聖地です。このあたり日光山までの山岳地域は、
かつて修験者の行場となっていたといい、いまも禅頂行者道の名
が残っています。

 古峰ヶ原は日光開山の勝道上人が修行した所だと伝えています。
勝道の行場だとする「三枚石(岩)」や、回峰行場のひとつである
「深山巴」(じんせんともえ)の宿もあります。古峰ヶ原信仰の中
心古峰神社は、そのふもとにあり、祭神は日本武尊になっていま
す。

 神社の起源については多くの伝説があります。そのひとつ、こ
の地に住んでいた「石原氏」のところに、入峰修行の僧たちが訪
ねてきて道案内を頼むようになり、やがて修行僧が日光山から「金
剛童子」の像を当地に移して金剛堂を建てたのがはじめという。
日光を開山した勝道上人が来る前から、この辺りを守ってきたの
が先住の石原氏。

 石原氏の先祖は、前鬼後鬼の子の妙童鬼だというのです。(役ノ
行者の「弟子系譜」では、後鬼自体が妙童鬼だとあり、ごっちゃ
になっていますが)。その石原氏の子孫がこの地で代々前鬼隼人と
名のっていたという。前鬼後鬼というのは、奈良県大峰山で修業
した役ノ行者の忠実な夫婦の従者で、行者と一緒に全国諸々の山
を巡峰して回った天狗です。

 こうして石原氏と天狗は、切っても切れない関係で、参拝者も
天狗の霊力を信じ各地から大勢参詣に訪れていました。こんな山
伏の修行道場だった古峰神社でしたが明治になり一大転機が訪れ
ます。明治維新の神仏分離、廃仏棄釈の暴動です。そんな中、古
峰神社はいち早く神道に転換、神仏混合などといっていたら神社、
社宝など破壊されかねません。

 いままで神社名を「コブ」と読ませていたものを「フルミネ」
神社に変更、祭神まで「大山祇(ずみ)の神」から、関東地方に
縁の深い「日本武尊」(やまとたける)に変えてしまいました。し
かし、いくら表看板を塗り替えても、昔ながらの民衆は、天狗に
密着して離れません。

 仕方なく神社側は、天狗の吹聴はあえてせず、宿坊に奉納され
た天狗面を掛け、唱える唱文や、前触れの大太鼓などに、天狗の
雰囲気を漂わせたりしているようです。ここの御利益はとくに火
防の信仰が強く、江戸時代中期より講組織が生まれ、代参形式で
参詣が行われ、講は北海道から甲信越地方にまでおよび、総数約
2万ともいわれています。

 突然ですが、『遠野物語』にこんな記述があります。古峰の神さ
まは、山芋が好きで遠野地方の信者は、お参りの時、いつでも家
で一番できのよい山芋を持参して供えるという。ある時、欲の深
い男が何も持たずやってきて、気まずく思い、「うっかり忘れてき
ました」というと、「いや、心配ない。すぐ取りに行かせます」と
いう。……なにか気にかかる返事でしたが、次の朝、「夕べ使いの
者が、あなたの家を探したが、山芋は見つからなかったそうです。
それで少々見せしめの印をしてきたといってました」。

 ??……うす気味悪く思った欲深男が、家に帰ってみると納屋
が焼けていたという。火事が起きた日にちもあの日と符合してい
るという。また講中のくじ引きで、登山に外れた家は、できのよ
い芋を屋根の上に載せる習慣がありました。翌朝になると芋はな
くなっていて、あとで古峰神社から礼状が届くのだという。

 ある家では、いい芋は自分の家で食べるためとっておいて、細
いものばかりを屋根に置いていたところ、その後その家は火事に
なったといいます。これは昭和10年(1935)ごろ書かれたもので、
それにいまから12、3年前のことであったとあるから、大正末ごろ
の話のようです。そのほか、この山には狭い庭で屈強な大男が大
勢で相撲をとったり、同時に剣術の稽古をしていますが、どうみ
てもそんなことできそうにない狭い庭だったという。この山の天
狗の霊威譚はいちいち紹介していたらきりがありません。

 それよりここの天狗古峰ヶ原隼人坊の存在感を示す出来事があ
りました。江戸後期の文政8年(1825)将軍家斉(いえなり)が、
日光東照宮に参拝するというお達しがあったのです。

 そこでその前年の文政7年(1824)に、日光社参奉行の水野出
羽守(でわのかみ)の名で、こんな高札が日光の剣ヶ峰(横根山
付近)に建てられました。「来年酉年四月日光 御宮御参詣被仰出
依之是迄其御山ニ住居候天狗并降魔神 御参詣相済候?其御山可
立退者也 文政七申七月 水野出羽守印 天狗并降魔神江 (筆者
屋代太郎)」。

 これは、「日光の山中に居住する天狗ならびに魔神どもは、将軍
社参が済むまで御山を立ち退いてどこかへ移住せよ」と命じた高
札です。しかし幕府の命令でも、暴れ天狗たちが相手では心もと
ないと思ったのか、大物天狗の古峰ヶ原隼人坊の名前を借りて副
書きをつけました。

 それには、「将軍家が日光へ参詣されるについて、幕府の重役衆
が山中に制札を建てられたのは、誠に尤もなことであるから、ご
参詣中、日光山に住んでいる大小天狗たちは、京都の鞍馬山、愛
宕山、静岡県の秋葉山、九州福岡県の彦山に分散されたい。前鬼
隼人印 日光住居、大小天狗中江」とあります。

 日光には、家康の化身だという東光坊天狗がいるずです。東
光坊が押さえきれなかった日光奥山の天狗たちも、古峰ヶ原の隼
人坊天狗にはかなわなかったというエピソードです。この話は、
当時江戸中の評判になり、そのことを書いた随筆類も幾種類かあ
るそうです。このことがあってから、古峰ヶ原の隼人坊天狗は全
国に名が知れ渡ったということです。ちなみに翌年の将軍日光東
照宮参拝は行われなかったという。

 日光中禅寺湖から夕日岳に登りテント泊。翌日そこから南下、
行者岳の先、大天狗之大神につきました。ここは三つの石が重な
っている古峰神社の奥社。適当に開けた気持ちのいい平地です。
社の中に大石が食い込んでいます。

 扉には天狗のうちわが飾られています。かつてここにあった道
場で山伏たちが修行したとの立て札があります。抜けるような青
空。ベンチに陣取りガスに火をつけます。立ち上る湯気、ほおば
るラーメンがやたらとうまい。時間が止まったようなひとときで
す。心いくまで休んだあと、古峰神社を目指して尾根を下ったの
でありました。

▼古峰ヶ原三枚石【データ】
【所在地】
・栃木県鹿沼市。東武鉄道日光線新鹿沼駅からバス、終点古峰神社
下車。さらに歩いて2時間で三枚石。お堂と石碑、ベンチなどがあ
る。地形図に三枚石の地名と鳥居マークのみ記載。
【位置】
三枚石:北緯36度38分19.48秒、東経139度30分34.32秒
【地図】
・2万5千分の1地形図「古峰原(宇都宮)」
【参考】
・『山岳宗教史研究叢書・8』(日光山と関東の修験道)宮田登・宮
本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和54)
・『図聚 天狗列伝・東日本編」知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・『天狗の研究」知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)

【ご利益】
・【古峰神社奥宮】:火防守護、勝利 祈願、海上安全、大漁

【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・【三枚石】緯度経度:北緯36度38分19.48秒、東経139度30分34.32


【地図】
・2万5千分の1地形図「古峰原(宇都宮)」

【参考】
・「古峰ヶ原の信仰」中川光喜:(「山岳宗教史研究叢書・8」(日光
山と関東の修験道)宮田登・宮本袈裟雄編(名著出版)1979年(昭和
54)所収
・「図聚 天狗列伝・東日本編」知切光歳著(三樹書房)1977年(昭
和52)
・「天狗の研究」知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)

山岳漫画・ゆ-もぁイラスト・画文ライター
【とよだ 時】ゆ-もぁ-と事務所

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