山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅イラスト通信【ひとり画展】とよだ 時

▼432号 「群馬県・妙義山と大男デエラン坊」

【概略】
大昔、妙義山のあたりに雲を突くような大男が住んでいました。妙
義山に足を乗せて昼寝しているとイノシシどもが大男の足をヤマイ
モと間違えてかじりはじめました。怒ったデエランボーは、イノシシを
ひとつかみ、鍋料理にすることしました。千曲川から水を汲み、浅
間山から火種をとって焚き火をはじめました。

【本文】は下方にあります。

▼432号 「群馬県・妙義山と大男デエラン坊」

【本文】
奇岩怪石が名物で、日本三大奇勝に数えられている妙義山には、4
つの石門や、大砲岩、轟岩、天狗の評定岩などがあり、人の目を驚
かします。妙義山はかつては波己曽(はこそ)山といっていました。
のち、妙義山と名前が変わるにはこんな理由があったそうです。

南北朝時代、南朝方に名臣といわれた、内大臣花山院(かざんいん)
右近衛大将藤原長親という人がいたそうです。明徳5年(1394年)、
この人が出家して耕雲明魏(こううんめいぎ)法師と名前を変えて、
洛東華頂山(かちょうざん・京都,東山三十六峰の一)の奧に隠と
ん生活に入ります。

10年あまりも過ぎてから、関東方面に流浪の旅、妙義山に流れ着
いて、ここで一生を終えたという。この妙魏法師を慕っていた民衆
や、寺僧たちが塚を建てて妙義山の祭神とし、山の名を明魏(妙義
山)と変えたというのです。

ただ『妙義山』の一節「妙義信仰」(近藤義雄)では、この説に従
えば「妙義」の名は、南北朝末期からとなり、年代的にこじつけの
感があるとしています。また「白雲山妙義大権現由来」という文献
によれば、妙義大権現は比叡山十三代目の座主(ざす)法性坊尊意
僧正だとしています。

僧正は天慶3年(940・平安時代)に逝去しましたが、のち碓氷峠
にあらわれ白雲山に来山。「われは比叡山座主(ざす)尊意僧正な
り。宿世の縁でこの山に住し、衆生を済度せん」と託宣しました。
以後妙義権現と敬われたのが山名由来だとする説もあります。

さてお話し変わって、群馬県と長野県が接するこのあたりにはとて
つもなく大きい巨人伝説があります。大昔、雲を突くような大男デ
エランボーが、どでかい足を妙義山に乗せて昼寝をしました。する
とその頭は碓氷峠にまで届いていたという。そこへ妙義のイノシシ
どもが大男の足をヤマイモと間違えてかじりはじめました。

イテテテッ。怒ったデエランボーは、イノシシを一つかみ、鍋料理
にして食うことにしました。千曲川から水を汲み矢ヶ崎山の「かま
ど岩」に鍋をかけ、噴火している浅間山から火種をとって焚き火を
はじめます。鍋は煮えてイノシシ鍋ができてきました。大男は軽井
沢の離山に座りなおそうと立ち上がったとたん、足を踏み外し鍋を
落としました。

煮汁がこぼれ、あたり一面の草木が枯れてしまい不毛の地になりま
した。それ以来この付近では汁のような味がある水が湧くという。
軽井沢の「塩壷温泉」などが塩辛いのはそのせいだそうな。この巨
人伝説は荒船山、八ヶ岳から富士山など広い範囲に残っています。

▼【データ】
【山名】
・【異名、由来】:波己曽山。妙義・妙魏・妙喜・明魏。明魏法師と
なってこの山にたどりつき亡くなったため、山の名を明魏・妙義・
妙魏・妙喜などと改めた。

【所在地】
・群馬県安中市松井田町(旧碓氷郡松井田町)・同県富岡市旧妙義
町各地区名(北甘楽郡旧妙義町)と同県甘楽郡下仁田町との境。信
越本線松井田駅の南西4キロ。相馬岳。二等三角点(標高1103.8m)
がある。地形図に山名と三角点の標高の記載あり。付近に何も記載
なし

【名山】
・深田クラブ選定「日本二百名山」(第138番):日本百名山以外に
100山を加える・日本三百名山にも含まれる。
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(含まれず)
・群馬県選定「ぐんま百名山」(第94番)

【位置】
・【等三角点】緯度経度:北緯36度17分55秒、東経138度44分56秒(電
子国土ポータルWebシステムから検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「松井田(長野)」or南軽井沢(長野)」(2
図葉名と重なる)(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)。5
万分の1地形図「長野−富岡」(「電子国土ポータルWebシステム」
から検索)

【山行】妙義山から岩船山・高津牧場縦走
・某年11月22日(火・くもりのち雨)妙義山奥ノ院探訪

【参考】
・「日本の民話・自然の精霊」(角川書店)1974年(昭和49)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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