山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼346号「上州・荒船山行塚山の霧氷」

【概略】
南に向かってゆっくり進むように見えるでっかい船体・荒船山。そ
の舳先(へさき)にあたるのがこの山の最高峰・行塚山(京塚山)。
かつて弘法大師が経文を埋めたという伝説があり、行塚は経塚の意
味だともいわれている。
・群馬県下仁田町、南牧村、長野県佐久市の境

▼346号「上州・荒船山行塚山の霧氷」

【本文】
でっかい船の形をした荒船山。「あの平らな頂上の突角が突如落ち
て、本当に船の軸のようになっているところを見ると、たしかに荒
船という名にふさわしい」と大正から昭和にかけての登山家大島亮
吉も「荒船と神津牧場附近」という一文に書いています。

甲板中央に「諏訪明神」を祭る荒船神社の本社の石宮が、行塚山に
もいまではつぶれかかった石の祠があります。東側、群馬県富岡市
の一の宮貫前神社、西側、長野県佐久市の荒船神社(本社遥拝所)
が、ともに仲良く荒船神社本社の里宮だという。

これらの神社は、「神道集」(室町時代成立といわれる神社の由来縁
起などを説いた何やら難しそうな本)によると諏訪大明神はが母御
前のいる日光の岳へ通ううち、この姫(荒船山に住むのちの貫前神)
と互いに顔見知りになり、男女の道に心を移して夫婦になったとあ
るほどの仲だというからうなずけます。

同姫はインドのクルベイ国の長者の娘で国王があまりしつこく言い
寄るためここまで逃げてきて、荒船山に隠れ住んでいたという。

一方、荒船大明神というのはこの姫の美人侍女の一人だとしていま
す。荒船山は南北に1200m、幅800m。南に向いた船体の船首に当
たるのがこの山の最高峰・行塚山(京塚山)。

かつて弘法大師が経文を埋めたという伝説があり、行塚は経塚の意
味だともいわれています。晩秋、夕べの雨が霧氷になって木々の枝
は太陽に光り輝きます。

行塚山までのハイキングコースはまるで夢の中を歩くよう。弘法大
師のご利益でもあったのでしょうか。

▼【データ】
【山名】
・【異名、由来】:あらふねやま。船体を山並みの上に浮かべたよう。
弘法大師が経文を埋めたというので経塚山。

【所在地】
・群馬県甘楽郡下仁田町と群馬県甘楽郡南牧村、長野県佐久市との
境。上信電鉄下仁田駅の西14キロ。上信電鉄下仁田駅からバス、三
ツ瀬下車、歩いて2時間45分で荒船山行塚山。二等三角点(1422.5
m)がある。そのほか付近に何もなし。地形図上には三角点記号と
その標高のみ記載。付近に何も記載なし。

【名山】
・深田クラブ選定「日本二百名山」(第134番選定):日本百名山以
外に100山を加えたもの・日本三百名山にも含まれる。
・岩崎元郎選定「新日本百名山」(30番選定)
・群馬県選定「ぐんま百名山」(10選定)

【位置】
・【等三角点】緯度経度:北緯36度12分14.38秒、東経138度38分13.
55秒(電子国土ポータルWebシステムから検索)

【地図】
・2万5千分の1地形図「荒船山(長野)」。5万分の1地形図「長
野−御代田」

【山行】
・某年11月23日(水・快晴)荒船山行塚山探訪

【参考】
・「神道集」安居院作:東洋文庫94「神道集」貴志正造訳(平凡社)
1994年(平成6)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「荒船山と神津牧場付近」大島亮吉(単行本「山」昭和5年岩波
書店刊):(「日本山岳風土記・4」(宝文館)1960年(昭和35)所

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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