山旅通信【ひとり画っ展】とよだ 時

▼267号「足尾・皇海山の剣」

【略文】
庚申山から皇海山への道を開いた行者・木林惟一。この行者がが建
てたという青銅の剣が皇海山山頂の肩にある。剣に書かれてある二
柱大神とは、この猿田彦と、その妻・天鈿女命のことか。皇海山は
庚申山の奥ノ院の山だという。
・栃木県足尾町と群馬県利根村の境

【本文】
 栃木県足尾(群馬県北東部から栃木県南西部に、皇海山(標高214
4m)という山があります。皇海山と書いて「すかいさん」と読むそ
うです。足尾山地の盟主とされ、全山がシラビソにおおわれて、鋭
く角ばったの円錐形をしており、松木沢の源流域をなす東面は、と
くに急峻、鋭く切れ落ちています。


 この山は奈良時代に開山されたとされる、庚申山の奧にある山。
庚申山は修験道の山として栄え、よく道ばたで見られる「庚申塔」
(こうしんとう)を建てた庚申講の総本山で、とくに江戸末期には
庚申信仰が隆盛を極めました。1865年(慶応元)には、江戸から
の庚申講に参加した人は、300万人を数えたということです。


 皇海山はその奥の院にあたり、庚申山−剣ヶ峰(鋸山)−皇海山
の「三山駆け」の登山が行われたところ。ちなみに庚申山にも別に
奥の院がありますが、ここでは庚申山というひとつの山に対しての
奥の院に当たる山ということらしい。いまも、その巡路だった庚申
山−鋸山経由皇海山のコースは一般的で、私もこのコースで登りま
した。


 皇海山頂上で展望できるのは開けている南側だけ。登山者も多く
はなく、樹海のなかの静かな山です。皇海山の山頂の三角点の東側
には、高さ2m以上もある青銅の剣が建っています。それには「庚
申二柱大神 奉納 當山開祖 木林惟一」とあり、裏に筆字で参詣
した日付けが書かれています。


 青銅の剣にある「二柱大神」とは、この猿田彦(さるだひこ)神
と、その妻・天鈿女命(あめのうずめのみこと)のことか。この剣
が、1919(大正8)年12月に記された小暮里太郎の『皇海山紀行』
にも出てきます。当時は朱書きだったとありますが、いまは墨書き
なので、誰かが書き直したものでしょうか。


 それには、「皇海山の絶頂三角点の位置から少し東に下ると、高
さ七尺(2.121m)幅五六寸(15.15センチ、18.18センチ)と思われ
る黄銅製らしき釼が建ててあって、南面の中央に庚申二柱大神と朱
で大書し、其(の)下に「奉納 当山開祖 木村惟一」と記してあ
り、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山若林五十五人と楽
書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてなかった。…


 …この木村惟一というのはどういう人であるかと、足尾に居られ
た関口源三君に調べて貰ったところ、東京の庚申講の先達(せんだ
つ)であって、この人が庚申山から皇海山に至る道を開き、そこを
奧院とした。庚申山中に奥の院はあるが、これはつまり庚申山とい
う一(ひとつ)の山に対する奥の院の山という意味であるらしい。
(……中略……)。…


 …皇海山にも一時相当に登山者があったもので、その時期は明治
の初年(1868)から二十五年(1892)頃までであったらしい」と、
詳しく説明してあります。


 皇海山と書いて、なぜ「すかい」山と読むのか?同書『皇海山紀
行』によれば、江戸前期の正保(しょうほう・1644〜1648)年代
の図には、「さく山」と出てくるといいます。年号が変わった貞享
元年(1684)の『前橋風土記』には「座句山」、さらに下った安永
三年(1774)の『上野国志』にはやはり「さく山」とあり、「下野
にて定顕房山という」(読み方不明)とあります。


 さらにまた、「群村誌(皇国地誌)の利根郡平川村の山の部に、
『笄山(こうがいやま)。勢多郡ニテ之(これ)ヲサク山ト云(う)。
下野上野両国ニ跨(またが)リ高峻ニシテ高(さ)不詳。』とある
ので、サク山の座句山と同一山なることも、又夫(それ)が皇海(マ
マ)山に一致するとしています。


 またまた、追貝村の書上の水脈と題する欄に、「栗原川ハ源ヲ皇
開(ママ)山間ニ発シ……」また瀑布の欄に、「水源、本村正東皇開
(ママ)山烏帽子岳ノ中央ヨリ発シ、……」という記事がある。その
文から皇開(ママ)山は笄山であるのは間違いなく、明治21(1888)
年ころは笄山(こうがいやま)は皇開山(こうがいやま)と書かれ
ていたらしい。それが皇海(開ではない)山と書かれるようになっ
たというのです。


 長ったらしい文章でしたが、つまり、この山を下野方面では「定
顕房山」とか、前橋方面では「座句山・さく山」呼んでいました。
利根郡平川村での「笄山」といっていたもののうち、「笄山」が「皇
開山」(どちらもこうがいやま)と書かれ、さらに「開・かい」が
「海・かい」になり皇海山(すかいさん)になったというのです。


 笄とは髪を整える「結髪用具」のことらしい。山の形がこれに似
ているのが山名の由来だそうです。ここで皇を「す」と読むのは、
皇は「すめ、すめら」と読むので、皇海をスカイと誤読したらしい。


 こんな説もあります。庚申講の先達が、庚申山からこの山への登
山道を開いたので「庚開山」(こうかいさん)といい、それが当て
字されて「皇海山」になり、いまの読みのなったというのです(『日
本三百名山』)。


 ある年の初夏、鋸山の手前にテントを張り皇海山を往復しました。
登山者は、群馬県側から車で林道最奧まで乗り入れた日帰り組ばか
り。庚申山からとぼとぼ歩きはメジャーではないようです。皇海山
頂から北に延びるかすかな踏みあとは奥日光の山へつづく道です。
遠く白根山が招いているようでなかなか思いが吹っ切れませんでし
た。


●皇海山【データ】
▼【所在地】
・栃木県日光市(旧上都賀郡足尾町)と群馬県沼田市(旧利根郡利根
村)との境。わたらせ渓谷鉄道足尾駅の北西11キロ。わたらせ渓谷鉄
道通洞駅からタクシー・銀山平から歩いて7時間で皇海山。二等三角点
(2143.6m)と鉄剣がある。そのほかは何もなし。地形図に山名と三
角点の標高のみ記載。

▼【位置】
・二等三角点:北緯36度41分23.52秒、東経139度20分13.05秒
▼【地図】
・2万5千分の1地形図「皇海山(日光)」
▼【山行】
・某年5月29日(日曜日・快晴)


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典9・栃木県』大野雅美ほか編(角川書店)1984
年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『皇海山紀行』木暮理太郎:(『日本山岳風土記5』(宝文堂)」1960
年(昭和35)所収)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

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 (主に画文著作で活動)
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