山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼162号「奥多摩・石尾根の七ツ石」

【略文】
奥多摩石尾根の七ツ石山にはおおざっぱに7つほどの大岩がある。
山頂直下の「七ツ石神社」は、承平、天慶の乱で藤原秀郷・平貞盛
らの連合軍に破れた平将門をまつり、かつては勝負師の神として各
地から親分衆がお参りに集まったという。
・東京都奥多摩町と山梨県丹波山村の境

▼162号「奥多摩・石尾根の七ツ石」

【本文】
 東京都の最高峰・雲取山(2017m)から東南にのびる石尾根。
その尾根上に七ツ石山というピークがあります。その名前の通り、
大岩が大ざっぱに数えて7つほど立っています。ここにも将門伝
説が生きています。平安時代前半のご存じ「承平、天慶の乱(じ
ょうへい・てんぎょうのらん)」。

 平将門は平安中期の関東の武将。出生年不明の940年(天慶3)
没。上総介(かずさのすけ)として東国に下った桓武(かんむ)平
氏高望(たかもち)王の孫。父は鎮守府将軍平良持(たいらのよし
もち)または良将(よしまさ)だとしています。下総北部の豊田・
猿島(茨城県結城・猿島郡地方)に根拠を置く豪族で、若いころ上
洛して藤原忠平に仕えましたが父の急逝で帰国、遺領(豊田・猿島)
を継ぎました。

 しかし、「女論」や「田畠の争い」で伯父の下総介良兼と対立す
ることになります。この「女論」には、諸説あありますが、良兼の
娘との婚姻にかかわるものらしいという。935年(承平5)になり
豪族常陸大掾源護(ひたちだいじょうみなもとのまもる)と平直樹
の争いにまき込まれ、源護の娘むこの国香(くにか)、良正、良兼
などの伯父たちと戦いました。

 翌年、源護の告発で京都に召還されますが朱雀天皇元服の恩赦で
帰郷後、ふたたび良兼勢力に攻められました。たびたびの伯父たち
の攻撃に怒った将門は奮い立ち、営所を襲い制圧してしまいました。

 939年(天慶2)、武蔵国庁で起こった介源経基(つねもと)と
武蔵武芝(たけしば)の紛争の調停に失敗、逆に経基に謀反として
訴えられました。11月、追捕を受けていた土豪藤原玄明(ふじわ
らはるあき)を庇護したことから常陸国庁と対立。これを焼き払い、
つづいて下野(しもつけ)、上野(こうづけ)の国府も占領。

 同盟者を国司に任じ自ら新皇と称して関東自立の構え。こうなれ
ばもうりっぱな中央政府に対する反逆者。翌年2月、藤原秀郷(ふ
じわらひでさと)・平貞盛らの連合軍が、将門軍が農繁期で軍を解
散した時をねらった不意打ちで討たれ、新皇将門の関東支配はわ
ずか数ヶ月で幕を閉じます。(承平・天慶の乱)。将門の軍は地元の
豪農たちでした。

 追われた平将門一行は奥多摩山中のこのあたりに陣取りました。
将門はひそかに6人の影武者をわら人形でつくり、そのまん中に
立って、追って来た連合軍に立ち向かいました。「さあどこからで
も射てみよ!」。迷う秀郷に「口から白いものがたなびくのが本物
なり」という成田不動のお告げがあったという。

 藤原秀郷のはなった矢は誤たず本物の将門に命中。とたんに7
人の武者は岩になったというのです。山頂直下にある「七ツ石神
社」はその将門をまつり、かつては勝負師の神として各地から親
分衆がお参りに集まったといいます。祭日は毎年4月8日だそう
です。

▼七ツ石山【データ】
【所在地】
・東京都西多摩郡奥多摩町と山梨県北都留郡丹波山村の境。JR青梅
線奥多摩町からバス雲取山登山口、さらに歩いて3時間15分で七ツ石
山。三等三角点(1757.3m)がある。
【位置】
・三等三角点:北緯35度49分47.22秒、東経138度57分42.45秒
・三角点名:七ツ石
【地図】
・2万5千分の1地形図「丹波(甲府)」or「雲取山(甲府)」(2図葉名と重な
る)

▼【参考文献】
・『奥多摩風土記」大館勇吉著(武蔵野郷土史研究会)1975年(昭
和50)
・『奥秩父の伝説と史話』太田巌著(さきたま出版会)1983年(昭
和58)
・『日本架空伝承人名事典」大隅和雄ほか(平凡社)1992年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典」編者・乾勝己ほか(角川書店)1990年(平
成2)
・『日本伝説大系4・北関東』(茨城・栃木・群馬)渡邊昭五ほか(み
ずうみ書房)1986年(昭和61)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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