とよだ 時 「山の伝承伝説」民俗画
山旅イラスト通信【ひとり画っ展】

▼159号「東北・岩手山のホコラ伝説」

・【概略】
岩手山は鬼の伝説があり、火口壁上から見ると山頂のケルンが角に
見え、また目らしきガレもあって鬼の顔の形になっている。その東
側火口に岩手山神社の奧宮がある。神仏混交の時代には岩鷲(がん
じゅ)権現、田村権現、田村明神などといった。
・岩手県八幡平市・滝沢村との境

▼159号「東北・岩手山のホコラ伝説」

岩手富士と異名のある東北の名山・岩手山(2083m)は、外輪山内
側の噴火口のなかにまた妙高山という山があります。岩手山の名
は、凶暴な鬼が改心し、その証拠として岩の上に手形を押して「岩
手」としたのにちなむという。

また啄木記念館がある玉山村渋谷地区の、突き出た大岩「岩出の
森」にちなむとも、アイヌ語のイワァ・テェケ(岩の手・枝脈)
などの説があります。外輪山の内側の噴火口内にまた妙高山があ
って、ケルンがふたつ積まれています。それが2本の角になり、
火口壁の上からみるとまるで鬼伝説のあるとおり鬼の顔の形にな
っています。

かつて、岩手山には、大猛丸(おおだけまる)という鬼が棲み、
その奥の館があったと伝承します。現在でも山頂南側の外壁には
峻険な屏風岩があり「鬼ヶ城」といっています。大猛丸は赤頭の
高丸とも異名をとり、南西麓を流れる葛根田(かっこんだ)渓谷
にある「玄武洞」を出城にし、雫石町の大竹と呼ばれる山岳地帯
本拠を置く鬼神でした。

ちなみに本拠地大竹はタケノコの産地で、いまでも多くの人がタ
ケノコとりに集まるところ。大猛丸の名はこの大竹からきたなま
えなので「大竹丸」が正しいのかも知れないということです。ま
た出城の玄武洞は、岩手県岩手郡雫石町玄武温泉から歩いて20分
の所にある大岩窟。現在、国の保存窟になっています。

乱暴者の鬼は、山麓を荒らし放題で、村人のその被害に困り果て
ていました。これを伝え聞いた坂上田村麻呂は、平安時代の初期
の延暦21年(802年)、胆沢城を築き、翌年22年に陸奥志波城(し
わじょう)を築きます。そして大同2年(807年)、岩手山の大猛
丸盗伐に向かいました(岩手県岩手郡雫石町教育委員会の手紙)。

ところが大猛丸は、岩手山の鬼ヶ城にたてこもってしまいました。
当時霧山と呼ばれるほど山上は霧が深く、地形不案内の田村麻呂
は手も足も出せません。田村麻呂は名清水八幡の加護を得て霧の
晴れた間に大猛丸を討伐できたという。

そのほかに霧深い山には、同じ霧でと思ったのかどうか、配下の
霧ヶ原太忠義という武将らを山の裏側・いまの松尾村側から魔地川
(現在の松川)沿いに登り偵察させます。そして源太忠義の館の
様子や地形の報告を受けた田村麻呂は、霧の晴れ間を見はからっ
て一気に攻撃に出ました。たまりかねた大猛丸は館を後にして、
秋田と岩手の県境にある八幡平に逃げますが、ついに捕まり亡ぼさ
れたという説もあります。

伝説では、平安時代になったばかりの797年(延暦16)とも、同
じく807年(大同2)のことだと伝えるお話です。その時、一人の
女の鬼が捕らえられました。田村麻呂は女鬼に命は助けてやるが、
岩手山の例祭日の5月27日には登山者のために塵ひとつないよう、
山や登山道を掃除するよう命じて鬼ヶ城に住むことを許したといい
ます。

何十年か経て女鬼も歳をとり、清掃するにも体力がなくなってきま
した。そんな時、雨が降れば山がきれいになることに気がつきまし
た。そんなことからいまでも旧暦5月27日のお山の例祭日には雨
が降ることになっているそうです(雫石町教育委員会資料)。

この鬼神大猛丸は朝廷に従わぬ、このあたりに住んでいた蝦夷を
象徴し語りつがれています。しかし、このあたり王である大猛丸
が本当に乱暴者で村人を困らせていたのか。田村麻呂は民家を焼
きながら攻めたともききます。またなぜ岩手山の住人である女鬼
が、勝手に攻めてきた田村麻呂に住むことを許して貰わねばなら
ないのか。それでも侵略者が英雄なのか不思議です。

岩手山から八幡平にかけてには、源太森、松川、松尾、寄木、時
森などの地名があります。源太森は、田村麻呂の部下源太忠義が
物見をした山で、松川は、魔の住む魔地川、松尾は鬼の出る境の
魔地尾、寄木は賊の集まる寄鬼、時森は賊の大将登鬼森だとの地
名伝説もあります。

岩手山の鬼ヶ城は、その名の通り城壁のようなゴツゴツ岩。かす
かにふみあとがつづくヤセ屋根です。北に八ツ目湿原から遠く八
幡平、南に雫石への裾野が広がっています。お花畑の不動平に下
ると、急に人が多くなります。歩きにくい鬼ヶ城尾根より西岩手
山お苗代湖、八ッ目湿原のコースをとる人が多いらしい。

お花畑の不動平から外輪山を一周できます。その時、帽子が風で
舞い上がり、はるか松川温泉の方に飛ばされていきました。ふり
返えると、噴火口内にある妙高山のケルンやガレの鬼の顔が笑っ
たような気がしました。

その妙高山の東側火口にあるのが岩手山神社の奧宮です。明治時
代の神仏分離令が出る前の、神仏混交の時代には岩鷲(がんじゅ)
権現、田村権現、田村明神などといったそうです。岩鷲権現は岩
手山の異名、岩鷲山からきたもの。

田村、田村とつづくのは、岩手山神社の社伝にある延暦20(801)
年、坂上田村麻呂が蝦夷を平定し、ここに神社を創建したという
故事からか。祭神は大国主命である大名牟遅命(おおなむちのみ
こと)、穀物の神・宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)と倭建
命(やまとたけるのみこと・日本武尊)の三柱。里宮は岩手県岩
手郡滝沢村にあります。

11世紀半ばには「前九年の役」で源頼義が安倍貞任(あべのさだ
とう)追討の際、この神社に戦勝を祈願したとも、1189(文治5)
年源頼朝が藤原康衡(ふじわらのやすひら)を攻略した時、土地
の豪族・工藤小次郎行光がやはりこの神社に康衡の捕縛を祈り、
祈願が成就したなどの言い伝えがあるそうです。

▼【データ】
【山名】・岩手山・磐手山(谷文晁日本名山図会)・厳鷲山・霧山岳
・霧ヶ岳・奥ノ富士・南部片富士・南部富士・岩堤山(菅江真澄)。
岩G山(がんちょうやま・谷文晁名山図譜)。改心した鬼が約束の
手形を岩に押した。残雪がワシににている雪形説。厳鷲山:春に鷲
の形をした雪形が残る。

【名山】
・(第13番)日本百名山(深田久弥選定・日本二百名山、日本三百
名山にも含まれる)・(選定)新日本百名山(岩崎元郎選定)

【所在地】
・岩手県岩手郡雫石町と岩手県八幡平市旧松尾村各地区名(旧岩手
郡松尾村)・岩手県八幡平市旧西根町各地区名(旧岩手郡西根町)・
岩手県岩手郡滝沢村との境。いわて銀河鉄道滝沢駅の北西12キロ。
JR東北新幹線盛岡からバス、柳沢から歩いて5時間半で岩手山。
外輪山火口壁薬師岳に一等三角点(2038.2m)がある。外輪山南東
側に岩手山神社の奧宮がある。地形図に岩手山名と三角点の標高と
奥宮の場所に神社の鳥居記号の記載あり。

【位置】
・三角点:北緯39度51分09.39秒、東経141度00分03.6秒

【地図】
・2万5千分の1地形図「大更(盛岡)」or「松川温泉(秋田)」(2
図葉名と重なる)

【参考文献】
・「雫石町教育委員会」
・「角川日本地名大辞典3・岩手県」高橋富雄ほか編(角川書店)1985
年(昭和60)
・「角川日本地名大辞典3・岩手県」高橋富雄ほか編(角川書店)1985
年(昭和60)
・「新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・「東北の山岳信仰」岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・「東北の山岳信仰」岩崎敏夫(岩崎美術社)1996年(平成8)
・「日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・「日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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