山の歴史と伝承に遊ぶ 【ひとり画ってん】

山旅通信【ひとり画展】とよだ 時

▼158号「房総・元清澄山のホコラ」

【概略】
元清澄山頂には2つの石祠があって「大山神社」と読める文字があ
る。里宮の鴨川市大山の大山神社はもと大山寺本体。丹沢大山を開
山した良弁が創建したといい、本山と同じにやはり雨乞いのお寺で
したが明治の廃仏棄釈の影響で大山神社の名に変わったという。
・千葉県鴨川市と君津市との境

▼158号「房総・元清澄山のホコラ」

日蓮上人が修行したお寺・千葉県鴨川市にある日蓮宗 大本山 清
澄寺(せいちょうじ・きよすみでら)で有名なその名も清澄山。そ
の西側奥に元清澄(もときよすみ)山という山があります。

清澄寺の「清澄」とは、その昔、山頂にきれいに澄んだ池があっ
たのでついた名前だという説があります。しかし、それならその
奥にある元清澄山は「奥清澄」になるはずですよね。

また清澄山の奥にあるから(日本山岳ルーツ大辞典」)とする本も
ありますが、これも「元」ではなく「奥」がつかなければ不自然
です。

一説に、清澄は「木屋住み」のなまったものといいます。昔、房
総開拓の祖・天富命(あめのとみのみこと)とともにやってきた
木地師たちが北上、鹿野山方面に定住、さらにそこから南へ移動
してきて、まず、いまの元清澄に住み、のち清澄山に定住したと
いうのです。

それなら元住んでいた所は元木屋住み(元清澄)になるわけで、
まさにいまの地名とドンピシャリです。元清澄山頂には2つの石
祠があって正面に「大山神社」読める文字が彫ってあります。向
かって左側面には明治22年に建立したことを記してあります。

里宮の鴨川市平塚大山地区にある大山神社はもと、大山寺(高藏
山大山寺)を本体とし、神亀元年(724)、丹沢大山を開山した良
弁(ろうべん)僧正が創建したといわれ、雨乞いのお寺だったと
いう。

神亀元年(724)とえば、飛鳥時代から奈良時代に入ったばかり。
太安麻呂(おおのやすまろ)らが「古事記」を撰上した年だという
から古い。

それがいつのころか神仏習合の修験寺となり、その後大山祇をま
つる大山神社へと変わっていったそうです。天保11年(1841年)
石尊大権現高蔵神社(祭神:日本武尊)と敬称。高蔵神社と不動尊
がまつられています。

そんなことから元清澄山の山頂の二つの祠は南西側の大山地区を向
いて建てられています。祠の前には無造作にサカキが供えられて
います。

昼飯のおにぎりを食べていたら突然ガサガサと物音。サカキを背
中いっぱいに背負った人が現れました。そうか、年末も近い。地
元の人は正月用のサカキの出荷に忙しかったのだ。

元清澄山への登山口に金山ダムがあります。このダムサイトの下
にある小さな集落の裏山に、金山城址があります。金山バス停から
金山ダムに向かい、トンネルの手前から川沿いに集落に入ると、農
家のわきから裏山に抜ける小道があります。

10分くらい登ると、一面ススキの原となっている広場に出ます。
そこが鎌倉時代に長狭氏、室町時代に東条七郎左衛門政常が居城し
ていた城の跡だそうです。いまは民有地だという。

「房総里見軍記」に「元より山城にして、大手先に堀を切り、東南
の方に深田を湛え、裏は一面屏風を立てし如き険岨にして、実に堅
固の城郭なり」とあります。

里見義実は夜討ちをかけて攻めたてついに東条氏は自害、2日間で
落城したという。文安2年(1445年)6月9日のことと伝えます。

里見家はその後第9代の忠義が元和元年に罪により追放されるまで
170年間、房総を治めましたが、歴史上、金山城の戦いは興味深い
ところです(「房総の山」)。

★元清澄山【データ】
【山名・地名】・元清澄山(もときよすみやま):もと木地屋たちが
住んでいた山

【所在地】
・千葉県鴨川市と君津市との境。外房線天津小湊駅の北西8キロ。
JR久留里線亀山駅から歩いて3時間で元清澄山。三等三角点
(344.2m)と大山神社の祠がある。地形図に山名と三角点の標高
の記載あり。関東ふれあいの道に指定

【位置】
・三角点:北緯35度10分31.11秒、東経140度05分
45.8秒(電子国土ポータルWebシステムから検索)

【地図】
2万5千分の1地形図「坂畑(大多喜)」

【参考】
・「角川日本地名大辞典12・千葉」川村優ほか編(角川書店)1984
年(昭和59)
・「房総の山」千葉県山岳連盟(千秋社)1977年(昭和52)

山と田園の画文ライター
イラストレーター・漫画家
【とよだ 時】

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山旅イラスト【ひとり画通信】
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