【本文】
宮之浦岳(1936m)は、屋久スギで名高い鹿児島県屋久島に
ある九州の最高峰の山。ここは雨が多いことで有名で、「1ヶ月に35
日雨が降る」といわれるくらいで、年間降雨量が、山頂部で800
0ミリに達するといいます。島の山は標高1500m以上が連な
り、それを総称して八重岳と呼んだり、「洋上のアルプス」ともい
っています。
とくに宮之浦岳、永田岳、黒味岳の3座は、三岳(みたけ)とか
奥岳とも呼んでいます。これらの山々には小さな祠があり、それぞ
れに一品宝珠(寿)大権現(いっぽんほうじゅ)という仏教の神を
まつっています。宮之浦岳の山頂は双耳峰で、東峰が1867mの栗
生岳で、西峰に1934.9mの一等三角点があります。
【▼山頂】
山頂は風化した奇岩、奇石多く、ヤクシマシャクナゲが生えてお
り、永田岳やまわりの山々、種子島などなどまさに360度の展望で
す。その直下に笠石と呼ばれる巨岩があって、その下に祠が鎮座し
ています。
【▼山頂の祠】
この祠こそ、一品宝珠(寿)権現のもので、北東側山ろくの宮之
浦地区にある益救神社(やくじんじゃ)の奥ノ院だそうです。祠は
安土桃山時代の天正14年(1586)と、その後に建立されたも
のといいます。それはまた、永田岳など島内にある山々にある祠な
どをまとめる奥ノ院でもあるそうです。ここの里宮、宮之浦地区益
救神社は、宮之浦地区や宮之浦岳の名前の元になっているといいま
す。
【▼益救(やく)神社】
屋久島は大昔、益救(やく)と呼ばれていたそうで、その海沿い
の入り江に益救神社があり、このお宮から宮之浦の名が生まれたと
いうのです。山頂笠石の下にまつられている一品宝珠(寿)権現は
先述のように仏教の神で、神道での呼び方は、天津日高彦火々出見
命(あまつひこひこほほでみのみこと)という神になります。
【▼祭神】
これは神仏習合のあらわし方で、火火出見命は一品宝珠権現の化
身ということになっています。さてこの益救神社には、彦火火出見
命のほかに、山と海の7柱の神がまつられています。この彦火火出
見命がまた、別名山幸彦なのだといいますからメッチャややこしい。
あの「海幸山幸」神話に登場する「山幸彦」です。そして、初代天
皇といわれている神武天皇の父だというから気が遠くなります。
【▼山幸彦】
この山幸彦は、『古事記』(上つ巻)では、「…次に、生まれる子
の御名は、火遠理命(ほをりのみこと)。亦(また)の名は、天津
日高日子穂々手見の命(あまつひこひこほほでみのみこと)……」
とあり、山佐知?古(やまさちびこ)と書かれ、火遠理命または天
津日高日子穂々手見の命ともいっています。
また『日本書紀』(神代下)には、「彦火火出見尊(ひこほほでみ
のみこと)、自(おの)づからに山幸(やまさち)有(ま)します」
とあります。
この山幸彦が兄から借りた釣り針を鯛にとられ、悲嘆にくれてい
たとき、潮流の神の神である塩椎神(しおつち)に教えられ、島の
ワタツミの宮殿に行きました。そして竜女の化身である豊玉姫命(と
よたまひめ)と巡り会い結婚することになります。
そしてとなりの島の種子島で、一子をもうけるというストーリー
です。その子の名は『日本書紀』では、彦波瀲武??草葺不合尊(ひ
こなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と表記。亦の名、『古事
記』の表記では、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(あまつひこ
ひこなぎさたけうかやふきあへずのみこと)といいます。亦の名、
亦の名つづきで、シッチャカメッチャカで恐縮です……。
【▼岳参り】
さて、この屋久島には毎年春と秋に御岳に登る「岳参り」という
民俗行事があります。「岳参り」は、五穀豊穣・国家安穏・延命息
災を祈願しに、この奥宮に登ります。春の岳参りは日帰りで登り、
秋は大願成就のため2泊3日で登ったといいます。ここもかつては
女人禁制でした。
【▼女人禁制破り】
ところが、この女人禁制を無視して、妻を連れて登った島の役人
がいたと江戸時代後期の薩摩藩の地誌『三国名勝図会』に記載があ
ります。同誌の馭謨郡(ごむぐん)の項に、「正徳(江戸中期)の
比(ころ)、宰官(領主)伊集院善太夫忠代」という人の話が載っ
ています。
その領主が、わが領地では「山ノ神といえども我が配下である。
自分の山に登って何が悪い!」とばかり、禁制を無視、妻を連れだ
って登りました。しばらく登って行きましたが、途中で天気が急変。
雨風が激しくなってきました。
とうとう進退きわまり、ついに山腹で野宿する羽目となり、つい
に山に登るのをあきらめて引き返したとあります。そうです。そこ
が宮之浦岳頂上から少し下った平らな原っぱ、「善大夫(ぜんだい
ふ)泊」という場所だそうです。こんな禁制を破って神の怒りにふ
れた話は、東北の飯豊山や北アルプスの立山にもあります。
【▼伝説・屋久どんと種子どん】
さてお話し変わって、屋久島と種子島の民話に大男の「屋久どん
と種子どん」という話があります。昔、屋久島の高山に「屋久どん」
という大男がすんでいて、奥山の高山でゆっくり昼寝を楽しんでい
ました。となりの種子島にも「種子どん」という巨人がすんでいま
した。ところが種子島には200m以上の山はなく、人里も近く、
うっとうしくて昼寝もままなりません。
種子どんは、山あり谷ある屋久島がうらやましくてしょうがあり
ません。そこで種子どんは、屋久島を種子島にくっつけちゃおうと
思い立ちました。屋久どんが屋久島の宮之浦岳で、昼寝をしている
すきを見て、種子どんは太く丈夫な縄で屋久島をしばって持ち上げ
ようとしました。その時、タヌキ寝入りをして様子を見ていた屋久
どんが、山が裂けるような大きなおならをしました。
びっくりした種子どんが振り向いたとたん、縄が切れて屋久島は
もとのところにドシャーンと落ちました。うす目を開けて見ていた
屋久どんは、「わっはっはっはっ」と大笑い。「この島がそんなに欲
しいなら、屋久島の岩をひとかけらやってやるわい」といいながら、
永田岳(そのころ屋久島で最高峰だった)の頂上を少しもぎ取って
投げました。それがいま種子島の平山地区の田んぼにある、大岩と
か天狗岩とかいう大岩。岩は高さ30mもあり、縄でしばったよう
な2筋のくびれ跡も残っているのも不思議です。
【▼伝説・山のオン助】
そのほか、屋久島の山には不思議なことが多い。10月になれば、
山と山との間に太鼓の音がドン、ドン、ドンと、ゆっくり聞こえ、
それが夜明けになると、ドンドンドンドンドン……と早く聞こえて
くるといわれます。これは天狗の「山のオン助」が暴れている音だ
そうです。
神無月(10月)になり、神さまがみんな出雲に出かけます。こ
のあたりの神が留守になるのをいいことに、山の天狗が暴れるのだ
というのです。「山のオン助」は、宮之浦岳の大天狗、一品宝珠(寿)
権現(いっぽんほうじゅ)の眷属の小天狗ではないかと地元の人は
見ています。
そうだとすれば、宮之浦岳の山の神は一品宝珠権現であり、また
小天狗などを眷属に持ってこのあたりの山々を守っている大天狗で
もあったようです。
▼宮之浦岳【データ】
【所在地】
・鹿児島県熊毛郡屋久島町。宮之浦港からタクシー、淀川入り口
下車、歩いて50分で淀川小屋(泊)。淀川小屋から歩いて6時間で
宮之浦岳。一等三角点(1934.92m)と、写真測量による標高点(1
936m)がある。
【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・標高点:北緯30度20分9.42秒、東経130度30分15.35秒
・三角点:北緯30度20分10.05秒、東経130度30分15秒
【地図】
・2万5千分1地形図名:宮之浦岳
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典46・鹿児島県』(角川書店)1991年(平成
3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・『三国名勝図会』(十七)五代秀尭,
橋口兼柄 共編(出版者・山
本盛秀)1905年(明治38)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・岩波文庫『日本書紀(一)』校注・坂本太郎ほか(岩波書店)1995
年(平成7)
・『日本の民話25』(屋久島篇)下野敏見編(未来社)1974年(昭
和49)
・『日本歴史地名大系47・鹿児島県の地名』(平凡社)1998年(平
成10)
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