山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1197号(百伝97)阿蘇山「阿蘇の神話と五岳伝説」

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【本文】
 阿蘇山は、熊本県阿蘇市、阿蘇郡高森町、南阿蘇村にまたがる山
々。九州のほぼ中ほど、熊本県の北東部にあり、世界最大級といわ
れるほどの複式火山。阿蘇山という名の山はなく、阿蘇カルデラの
中の中岳を中心とした中央火口丘の総称です。その外輪部は60万
年前から噴火活動してきた山々。

 阿蘇山中央の火口丘には「阿蘇五岳」と呼ばれる峰々があります。
阿蘇五岳とは東からギザギザのある根子岳(ねこだけ・1408m)、
最高峰の高岳(たかだけ・1592m)、中ほどにある中岳(なかだけ
・1506m)、杵島岳(きしまだけ・1321m)、烏帽子岳(えぼしだ
け・1337m)がその西にならんでいます。なかでも中岳の火口は
いまも噴煙を上げつづけています。

 ちなみにあの『古事記』の「火神生み伊耶那美命死ぬ」の項にあ
る「伊耶那美命(いざなみのみこと)が火之迦具土(ひのかぐつち)
を生んだ時、ホトを焼かれて死んだ」という文のうち、伊耶那美命
のホトが阿蘇の外輪山で、生まれたものの伊耶那岐命(いざなぎの
みこと)に斬り殺された迦具土の神が「阿蘇五岳」だとする解釈も
あるそうです。

 阿蘇の火山群を取り囲む巨大な火口原のカルデラの大きさは、東
西18キロ、南北25キロ、周囲は130キロという広大さです。この
中に阿蘇町、高森町、一宮町など3町3村がすっぽりと収まってい
るというからものすごい。カルデラ内には阿蘇五岳のほかにも多く
の火山群があって、また大小50あまりの火口跡もあります。

 阿蘇五岳の各山の山頂付近は、九重連山や雲仙とならびミヤマキ
リシマの一大群生地として有名なところです。またこの山なみは寝
観音あるいは涅槃像(お釈迦さまが寝ている姿)ともいっています。
東の方を頭にして仏さまの寝姿になぞらえています。

【▼山名・由来】
 ところで山名の「アソ」とは、アイヌ語の「火を噴くところ」、
すなわち「火の山」に由来するといわれています。ほかに梵語やヘ
ブライ語などの説もあるという。また『日本書紀』景行天皇18年
(※『日本書紀』で計算すると西暦88年)5月16日の条にこんな
山名由来も見えます。

 熊襲(くまそ)征伐に景行天皇がこの地に入った時、「其の国、
郊原曠(ひろ)く遠くして、人の居(いへ)を見ず。天皇曰(のた
ま)はく、「是の国に人有りや」とのたまふ。時に二(ふたはしら)
の神有(ま)す。阿蘇都彦(あそつひこ)、阿蘇都姫(あそつひめ)
と曰(い)ふ。……。(……中略……)故(かれ)、其の国を号(な
づ)けて阿蘇と曰(い)ふ」。(岩波文庫『日本書紀・2巻』校注・
坂本太郎ほかによる)。

【▼阿蘇神社の祭神】
 阿蘇山の北ろくには阿蘇神社があって、この山の主神の健磐龍命
(たけいわたつのみこと・阿蘇大明神)のほか十二神をまつってい
ます。その内容は、一宮が主神の健磐龍(たけいわたつ)命、二宮
が阿蘇都比刀iあそつひめ)命、三宮が國龍(くにたつ)神(草部
吉見神、日子八井命)、四宮が比東芬q(ひめみこ)神、五宮が彦
御子(ひこみこ)神、六宮が若比刀iわかひめ)神、七宮が新彦(に
いひこ)神、八宮が新比刀iにいひめ)神、九宮が若彦(わかひこ)
神、十宮が彌比刀iやひめ)神、十一宮が國造速甕玉(はやみかた
ま)命、十二宮が金凝(かなこり)神(綏靖天皇)の12神です。

【▼神話・地名伝説】。
 健磐龍命(たけいわたつのみこと)が、祖父の初代天皇の神武天
皇の命をうけ阿蘇山へやって来ました。そして外輪山の上から目の
前の湖を眺めて、その広大さに感心し「水をなくして田畑を造ろう」
と考えました。大昔の阿蘇は外輪山に切れ目がなく、その中には水
がたまって広大なカルデラ湖になっていたのです。

 命(みこと)は、田畑をつくるため水を抜こうと、外輪山の一部
を蹴破ろうとしましたがなかなか蹴破れません。山が二重になって
いるのでした。そこがいまの「二重(ふたえ)の峠」(阿蘇市車帰、
大津町に近い)と伝えています。次に別の場所を蹴飛ばしました。
こんどは蹴破ることできましたが、そのはずみでドスンとしりもち
をついてなかなか立ち上がれません。健磐龍命はそこで「立てぬ」
と叫びました。それからというもの、そこを「立野」(山頂西ろく、
JR豊肥線立野駅がある)と呼ぶようになったのだそうです。

 一方、蹴破った場所からは、湖の水が一気に流れ出て、数匹の鹿
が流されてしまいました。以後そこは「数鹿流(すがる)が滝」(西
ろく豊肥本線近く)と呼ばれるようになりました。湖水が引くと、
こんどは大ナマズがあらわれ、湖の底で水をせき止めはじめました。

 怒った健磐龍命(たけいわたつのみこと)は邪魔なナマズを刀で
斬り殺し、取り除いたので湖水がやっと流れるようになりました。
その大ナマズが流れ着いた所がいまの嘉島町(かしままち)の「鯰」
という所だとい伝えています。

 阿蘇大明神(健磐龍命)が祖父の命で、阿蘇にやってきた時乗っ
てきたのが愛用の白馬でした。阿蘇最高峰の高岳の頂上には浅い円
形の火口の跡があります。これはその白馬のすみかになっていて、
いまでも仲秋の名月の夜には時々姿を見せると言い伝えられていま
す。

【▼伝説1・阿蘇五岳】
 これは阿蘇山中央の火口丘の「阿蘇五岳」の伝説です。阿蘇五岳
の高岳、中岳、烏帽子岳、杵島岳、根子岳(ねこだけ)は、阿蘇大
明神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)が名づけた山々です(健
磐龍命の子供たちともいう説も)。そのなかで根子(ねこ)岳の山
頂は頭がギザギザになっています。昔、阿蘇五岳で誰が一番高くな
れるかと競争していました。

 このうち根子岳はチッポケで、ほかの四岳には肩にもおよばない
程でした。ところがどうしたわけか(荻岳付近に住む鬼たちに協力
を頼んだという説も)、急に根子岳はムクムクと高くなりだし、あ
いさつもなしに杵島岳(きしまだけ)から烏帽子岳を抜き、中岳を
しのぎ、ついに一番高峰の高岳をも越えました。しかも上から見下
ろようになり、威張りだしたのです。

 これをみた大明神の健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、根子
岳のあまりの傲慢な態度に、小枝が沢山ある竹鞭で根子岳の頂上を
さんざん殴りこらしめました。そのためいまのようにギザギザ頭に
なってしまったということです。

【▼類話】
 これには類話があって、根子岳は遠くからみると、頂上が鋸の歯
のようになっていて、その下が白く禿げて、ちょうど箒で掃はいた
ように見えます。一説にこれは天狗が小便をした跡だといいます。
また阿蘇山と根子岳が背比べをし、負けそうになった阿蘇山が怒り
出し、バサラ竹(バサバサになっている竹)を振り上げて、根子岳
の頭を、それこそ「バサッ、バサッ」と叩きました。叩かれた根子
(ねこ)岳はたまりません。頭がズダズダにこわれ、そのあとはい
まのよう形に裂け飛んでしまいました。そして根子岳は、阿蘇山よ
り低くなったということです。

【▼伝説2・猫伝説】
 阿蘇の根子(ねこ)岳はもとは猫岳とも書きました。猫の王様が
この山にすんでいて、毎年、節分の夜になると阿蘇郡中の猫が王様
にあいさつするためにみなこの山に集まるといいます。

 ある日のこと、旅人が道に迷い猫岳に迷い込みました。ススキが
茂った原っぱをさんざん歩きまわった末、夕方になりあたりは急に
暗くなってきました。旅人が思案にくれているとどこかで人の話し
声がします。行ってみると、立派な家があるではありませんか。安
心した旅人は宿をお願いすることにしました。

 玄関で声をかけたところ、一人の女が出てきて「それはお困りで
しょう」と親切に座敷に案内されました。女に「お風呂に入ります
か」といわれ、旅人は大変喜んで湯殿に行こうとすると、少し年を
とった女が出てきて、旅人と顔を合わせました。女は驚いた表情を
して、近寄ってきました。

 そして突然「ここは恐ろしいところです。速く逃げてください」
というのです。旅人はわけが分からず、「どうしたのですか」。「と
にかくここは危ない。速く逃げてください」とくり返します。つづ
いて女はいいました。「こんなこと人にはいえませんが、私は5年
前まであなたに大変かわいがって頂いた隣の家にいた三毛(ミケ)
です」。

 「ここは猫屋敷です。ここで食事を取ったり、風呂に入ったりす
ると体中に毛が生えて、猫の形になってしまいます。このことは誰
にもいわないでください」。驚いた旅人は早速逃げ出しましたが、
早くも気づかれたか、背後から若い女が3人ばかり湯桶を持って「待
てー」と追いかけてきます。

 旅人は急坂を一気に駆け下りましたが、すぐ後ろで女たちが長柄
杓で桶の中のお湯を投げかけてきました。その時しぶきが飛んで旅
人の耳の下とすねに少しかかりました。それでもなんとか宮地町に
逃げ帰り、家に帰り隣の家に猫の三毛がいなくなった年月を聞いて
みると、あの女がいったとおり5年前でした。また、急坂で湯のし
ぶきがかかった耳の下とすねにはいつの間にか猫の毛が生えていた
ということです(阿蘇郡)。

【▼伝説3・的石鬼八】
 そのほか「的石(まといし)伝説」というのもあります。阿蘇五
岳から外れたところにある往生岳山頂から約7キロほどの距離に
「的石」と呼ばれる石があります。これはその昔、阿蘇神社の祭神
になっている健磐龍命(たけいわたつのみこと)が弓の稽古で的(ま
と)にした石だといいます。これは阿蘇市的石の地名の語源にもな
っています。

 阿蘇を開発した健磐龍命は弓を射るのが得意で楽しみでもありま
した。命はよく往生岳に座って弓の稽古をしていました。この山を
別名「ドベン岳」といいます。由来は命が山のてっぺんでドベン(睾
丸)丸出しで矢を射たからだそうです。また往生岳には幾筋かのヒ
ダがありますが、これは命が小便を垂れ流した跡だといいます。

 ある日健磐龍命(たけいわたつのみこと)は、地元にすむ鬼八と
いう快足怪力の男を、的石に射た矢を取りに行かせる役として連れ
て行きました。足の速い鬼八は、命が矢を射るたびに往生岳から的
石まで矢を取りに行ったり来たりしていました。99回目が終わり、
100本目の矢のときはさすがに疲れてしまい、矢を足のつま先にか
けて往生岳の命に向かって蹴り返しました。

 それを見た命は「大切な矢に何たることを!」と鬼八に向かって
斬りかかりました。命に追いかけられた鬼八は、根子(ねこ)岳の
「オクド」を蹴破って南郷谷の方にぬけ、矢部というところまで逃
げましたが命に追いつかれ、捕まってしまいました。その時弥八は
8回も屁をひりました。その地を矢部(八屁)と名づけたそうです。

 めんくらった命をあとに鬼八はなおも逃げますがついに捕らえら
れて首をはねられました。しかし、鬼八の首は、はねられてもはね
られてもすぐに元通りにつながってしまいます。腕や足を切っても
同じでした。そこで健磐龍命は、鬼八の体をばらばらに切り、それ
ぞれを離れた場所に埋めました。その時、鬼八の胴体を埋めたとこ
ろが高千穂の「鬼八塚」だといいます。手足はあちこちに埋められ、
いま方々にある鬼塚は鬼八の手足を埋めたところだといいます。

 ところが鬼八の首は斬られた時、天に舞い上がりました。それか
らというもの、鬼八の怨霊が永久に残って、毎年命が作物を作ると
6月の暑い時に必ず天から霜を降らせ、枯らしてしまいます。困っ
た命は、「役犬原」という土地に「霜の宮」という神社を建てて、
鬼八の怨念を鎮めたといいます。いまでも霜宮神社では幼い女の子
が59日間、火を絶やさずお籠りをするという神事が残っているそ
うです。怖ろしや〜。:

【▼伝説4・フルヤンモリ】古屋の雨もり
 阿蘇の山中に一軒のあばら屋がありました。雨の降る夜のこと。
お爺さんとお婆さんが古い家の雨もり(古屋の雨もり)のする中で、
いろりにあたっていました。この時「トラオオカミ」という恐ろし
いけだものが二人を食おうと忍び寄ってきて、壁に耳をあてて中の
様子をうかがっていました。

 お爺さんとお婆さんは、世の中で何が一番恐ろしいか話し合って
いました。「近ごろトラオオカミという恐いものが来たと聞いたが」
とお婆さん。するとお爺さんが「なにそんなもん、「フルヤンモリ」
(古屋漏り=古屋の雨もり)にくらべれば、なんてことない」。そ
れを聞いたトラオオカミはびっくり。「いままでオレが一番だと思
っていたが、そんな恐ろしい「フルヤンモリ」という怪物がいるの
か」。

 ちょうどその時、馬泥棒がひと仕事もくろんでこの一軒家に忍び
寄ってきました。そして暗いなか、家の外で忍んでいるトラオオカ
ミを馬と間違って飛び乗りました。「ワッ」。びっくりしたトラオオ
カミは恐ろしい「フルヤンモリ」に襲われたのかと飛び上がりまし
た。馬泥棒は振り落とされないよう夢中でトラオオカミの首筋にか
じりつきます。

 トラオオカミはなお恐ろしくなって暴れまわります。とうとう馬
泥棒は振り落とされ、から井戸の中に落ちて、悲鳴をあげています。
トラオオカミは背中の「フルヤンモリ」を振り落としたと思ったら、
「とたんにから井戸の中に身をかくしたか」と、その身の早業にま
すます恐ろしくなり、逃げ出しました。

 そこへ猿がやってきて「トラオオカミ」に声をかけました。「シ
ッ。いま恐ろしい「フルヤンモリ」が、から井戸の中に隠れてるか
ら気をつけろッ」。といって一目散に山の中に逃げていきます。「何
だそれ、聞いたこともない名だ」。猿は不思議に思い、様子をさぐ
るため井戸の中に長い尻尾をさし込んで見ました。から井戸の中で
は馬泥棒が上にあがろうともがいていました。

 そこへ上からひものようなものが下がってきます。喜んでそれに
しがみつきました。「ギャッ」猿は無我夢中で尻尾を引っ張ります。
そうこうしているうち、「プツン」と猿の尻尾は切れてしまいまし
た。猿の尻尾が短くなったのは肥後地方(熊本県)ではこの時から
だそうです。(※南アルプス赤石岳のふもとにも似た伝説がありま
す)。

【▼阿蘇外輪山の風物詩】
 阿蘇外輪山の原野には春夏秋冬の風物詩があります。春は阿蘇の
「野焼き」です。毎年3月、村中総出で行う行事で、野草の芽立ち
とダニの駆除のため、で原野に火を入れます。野焼きのあとには、
ワラビやゼンマイなど「野草つみ」が行われるそうです。いまは観
光客に見せるために夜に火をつけるそうです。

 夏はキャンプが盛んです。夏から秋にかけての風物詩は「阿蘇の
雲海」が有名です。秋は「草泊まり」です。牛の餌を刈りに家中全
員で原野に出かけます。そしてくぼ地にカヤなどで草小屋をつくっ
て、泊まりがけで草刈りに励みます。


▼阿蘇山高岳【データ】
★【所在地】
・熊本県阿蘇市、阿蘇郡高森町、南阿蘇村にたがる。JR豊肥本
線宮地駅からバス、仙酔峡。2時間30分で高岳(1592.3m)。三等
三角点がある。
★【位置】(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)
・三角点:北緯32度53分3.57秒、東経131度06分14.04秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「阿蘇山」「根子岳」「坊中」。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典43・熊本県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀』(巻第七・景行天皇)720年(養老4):岩波文庫『日
本書紀』2巻(校注・坂本太郎ほか)(岩波書店)1995年(平成7)
・『日本伝説大系14』(南九州)荒木博之ほか(みずうみ書房)1983
年(昭和58)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)

 北海道利尻島の利尻山(りしり・標高1721m)は、『日本百名山』
(深田久弥著)の一番目に書かれている山。利尻郡利尻町と利尻
富士町との境にあります。日本最北の山で、利尻岳とも書かれ、
島そのものがひとつの山になっています。美しい姿から利尻富士
とも呼ばれています。

 ここには不思議なことに熊やマムシなどのヘビ類がいないとい
う。深田久弥は『日本百名山』の中で、かつて利尻島南東方向対
岸の北海道天塩(てしお)町で山火事があった時、火事現場から逃
れてきたのか熊が泳いで渡ってきて、すみついたことがあったとい
う。しかし、いつの間にかいなくなっていた。たぶんまた古巣へ泳
ぎ帰ったのだろう、というようなことを書いています。

 山名はアイヌ語の「リ・シリ」の音訳「高い島山」という意味
で、となりの低い島山「礼文」に対するもの。この山は、島の中央
に山頂を突き上げ、北峰(1719m)、本峰、南峰(1721m)の三つ
のピークを持っています。でも北峰から先は崩落が激しく登山禁止
になっています。

 北峰に利尻郡利尻富士町鴛泊(おしどまり)地区にある利尻山神
社の奥社の祠があります。利尻山北ろくには鴛泊ポン山(四四四メ
ートル)、南麓に鬼脇(おにわき)ポン山(410m)、仙法志(せん
ほうし)ポン山(320m)などという一風変わった名前の小さな寄
生火山もあります。また北に直径250mの姫沼、南麓の沼浦(ぬま
うら)には直径400mのオタドマリ沼、三日月沼があり、山の風景
に趣をそえて利尻富士観望の地となっています。

 この山は古くから高くそびえた美しい姿で、航海や漁場の目印に
され、海の安全を願う人々から崇められたという。しかし姿に似合
わずこの山の気象は厳しく、天気が晴れて山の姿があらわすのは、
一年のうち100日もないということです。また利尻山に吹き込む風
は「北海の荒法師」とも呼ばれるほど烈しいという。

 ここ利尻島には長くアイヌの人たちが住んでいました。ここに初
めて和人が入ってきたのは1706年(宝永3)。能登の人、村山伝兵
衛が松前藩からソウヤ場所の漁場請負人を命じられて、住みはじめ
たのが開発の先駆けだそうです。その後1787年(天明7)8月に
はフランスの探検家、ラ・ペルーズという人が、サハリン島から南
下した時、宗谷海峡でこの山を見て、館長のラングルにちなんでラ
ングル峰と名づけたという。

 登山の古い記録としては、江戸時代後期の1789年(寛政10)、
武藤勘蔵の『蝦夷日記』のバッカイベツからソウヤへの7月7日の
見聞記があり、それによると、最上徳内(もがみとくない・江戸時
代中後期の探検家であり江戸幕府普請役)が記されていてこれが最
初らしい。江戸時代後期の1808年(文化5)になり、ロシア武装
船の来襲のときには、幕府から出兵を命じられた会津藩士が水腫病
にかかり、大勢死亡していった事件もあったといいます。

 山頂北峰にある神社の里宮、鴛泊の利尻山神社は、1824年(文
政7)に建立した神社だという。そののち、山頂に奥社の小祠をま
つりました。ついでながら祭神は、オオヤマツミノカミ、オオワタ
ツミノカミ、トヨウケヒメノカミを合祀(ごうし)しています。

 オオヤマツミは、『古事記』では大山津見(おおやまつみ)と表
記され、『伊予国風土記』逸文(いつぶん)という文書では、大山
積(おおやまつみ)と書き、大山をつかさどる山神だそうです。ま
た『日本書紀』では、大山祇(積)と表記し、イザナギ(男神)・
イザナミ(女神)の子。大山をつかさどる山神だそうです。

 またオオワタツミは、『古事記』では大綿津見神(おおわたつみ
のかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わた
つみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などと表記。海の三
神の一神で、綿(わた)は海(わた)で、津見は司ることなのだそ
うです。

 さらにトヨウケヒメは、『古事記』では豊宇気毘売神(とようけ
ひめのかみ)、『日本書紀』では豊受気媛神(とようかひめのかみ)、
豊受大神(とようけのたいじん)などと書き、イネの精霊の神格化
したもののようです。つまりこの祠には、山と海と食べ物の神さま
をまつったのでしょう。

 山頂の三角点(点の名称「利尻絶頂」)は、1912年(大正元)5
月に陸地測量部の技師井口貫一によって選点されたものという。さ
らに1871年(明治4)日本政府の招きで開拓使顧問として来日し
た、アメリカの農政家、ケプロンが書いた「ケプロン報文」(来曼
北海道記事)には「バツカイ(稚内市の地名)近傍ノ海浜通リ数英
里ノ間、殆ド円錐状ニシテ、四側平等ナル利尻山ノ美景ヲ眺望シツ
ヽ経過セリ」と利尻山を見ながら航海していたことが記されていま
す。

 利尻山の登山道を開いたのは修験者天野磯次郎という人物。1890
年(明治23)ころ、鴛泊(おしどまり)からの登山道をつくった
のが最初だという。明治後期になると、植物学者牧野富太郎も植物
採集のためこの山を訪れています。

 また「♪山は白銀、朝日を浴びて……」の詩でおなじみの『スキ
ーの歌』の作詞家、時雨音羽がこの利尻出身。彼は利尻山について
「山は世界に山ほどあれど海の銘山これひとつ」と詠んでいます。
島の沓形岬公園には彼の「ドンとドンとドンと波のり越えて一挺二
挺三挺八挺櫓で飛ばしゃ……」という『出船の港』の歌碑もありま
す。

 利尻山は、古くは利後(りいしり)山と呼ばれたという。この山
について民俗学者、吉田東伍は、「(現代文で書くと)島の中央に屹
立する休火山にして、洋名をランタンという。壮麗なる円錐形をな
して裾を四方に延ばし、遠くこれを望めば、さながら富岳のようで
ある。よって北見富士の名称がある。山ろくはおおむね樹林をもっ
て覆われ、四合目以上は全く火山質の石礫(せきれき)をもって覆
われている」というような紀行文を残しています(『日本山岳ルー
ツ大辞典』)。

 ここは高山植物でも名高いところでもあります。緯度が高いため
に本州では標高2000mあたりに生息する高山植物が、利尻島では
平地に平気な顔をして?生えています。ここの固有種のリシリヒナ
ゲシ、ボタンキンバイ、リシリオウギ、リシリトウウチソウなど、
利尻の名を冠した種も多く、南斜面に群生するチシマザクラは、1968
年(昭和43)道天然記念物に指定されました。

 また三合目、姫沼分岐近くにわき出る寒露泉は1985年(昭和60)
の「日本名水百選」(環境庁)のなかで一番北の名水になっていま
す。この名水は、サケのふ化事業にも利用されています。深田久弥
選定「日本百名山」第1番選定。岩崎元郎選定「新日本百名山」第
2番選定。田中澄江選定「花の百名山」(1981年)第12番選定。
田中澄江選定「新・花の百名山」(1995年)第11 番選定。


▼利尻岳【データ】
【所在地】
・北海道利尻郡利尻町と利尻富士町との境。JR宗谷本線稚内下
車、稚内港から船で2時間で鴛泊(おしどまり)からタクシーで利
尻北麓野営場、さらに歩いて6時間で利尻岳(利尻山)北峰。2
等三角点亡失(1718.7m・2011年10月31日)と利尻山神社奥宮
がある。そこから230mほど南の南峰に写真測量による標高点(17
21m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第1番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第2番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第12番選定
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第11 番選定

【位置】
・北峰2等三角点(亡失):北緯45度10分49.64秒、東経141度14
分28.83秒
・南峰標高点:北緯45度10分42.57秒、東経141度14分31.67


【地図】
・2万5千分1地形図名:鴛泊

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典1・北海道(上)』(角川書店)1991年(平
成3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・「週刊日本百名山32・利尻岳、羅臼岳」(朝日新聞出版)2008年
(平成20)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記3・富士とその周辺』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山名総覧』武内正著(白山書房)1999年(平成11)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室