【本文】
宮崎県高千穂町と大分県豊後大野市(旧緒方町)、竹田市にまた
がる祖母山(そぼさん)は、標高1756m。深い原生林に覆われ、1965
年(昭和40)に祖母傾国定公園に指定され、特別天然記念物のカ
モシカも生息。鉱物も銅、錫、亜鉛などを産し、古くから周辺に土
呂久、尾平(おぴら)、見立、九折(つづら)などの採鉱所が栄え
ましたが、いまは廃墟となっています。
祖母山の山名は、山頂にある祠の祭神の豊玉姫命(とよたまひめ
のみこと)が、神武天皇の祖母に当たることからきているという説
と、『日本書紀』に出てくる添山(そほり)説の2つががあります。
山頂からの展望は360度。北東には由布岳や九重連峰が、西には
阿蘇の山々、その後方には雲仙岳が、南には日向の山々が、また霧
島連山も一望できます。
この山は高山植物も豊かで、山名がつくウバガダケニンジンやキ
レンゲショウマ、それに初夏にはツクシアケボノツツジ、ツクシシ
ャクナゲなどが咲きます。
【▼山名・異名】
別名は、姥ヶ岳(うばがだけ)、嫗ヶ岳(嫗嶽・うばがだけ)、鵜
羽ヶ岳(うばがだけ)、添利山(そほりやま)などというそうです。
古くは「ウバガタケ」「オバガタケ」とも呼ばれており、祖母山(そ
ぼさん)と呼ばれるようになったのは比較的新しいらしい。この山
が「ウバガタケ」から「祖母山」と、『古事記』や『日本書紀』な
どにでてくる「神話の山」になったのは、国学の隆盛とともに各地
に尊皇思想が広がった、江戸後期から幕末にかけてのことだといいます。
さて祖母山の山名は、(1:山頂にある祠の祭神の豊玉姫命(と
よたまひめのみこと)が、神武天皇の祖母に当たることからきてい
るという説と、(2:『日本書紀』に出てくる添山(そほり)説の2
つががあります。
【▼山名・神武天皇の祖母説】
そのなかの(1:の神武天皇の祖母説について、江戸時代後期
1803年(享和3)の『豊後国志』(いまの大分県の地誌)は、「嫗
岳(祖母山)」の項で、「又(の)名祖母、蓋(けだし)山配祀豊玉
姫(とよたまひめ)命、以(て)神武帝為皇祖母故也」と記してい
ます。神武天皇はご存じ、第一代天皇とされている天皇で、在位76
年、『日本書紀』では127歳、『古事記』では137歳まで長生きをし
た?となっている天皇です。
父は鵜葺草葺不合神(うがやふきあえずのみこと)で、祖父・祖母
は彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト・山幸彦)と、海神の娘で
ある豊玉姫命ということになるようです。もう神世の話ですが……。
余談ながら、豊玉姫は目から涙が出た形の姿をしているそうです。
それはこの神が、ゴマで目を突いたからだといいます。そのため、
いまでも山ろくの神原地区ではゴマを作物として栽培しないという
ことです。
【▼山名・古名添山説】
もうひとつの(2:添山(そほり)の説は、『日向国志』という
古書の「祖母は蓋(けだ)し添(そほり)の古名を伝へ」との記述
からきているらしいのです。これは『日本書紀』(神代下(かみの
よのしものまき)・第九段)(巻第二)天孫降臨の項に、瓊瓊杵尊(に
にぎのみこと)が「稜威(いつ)の道別(ちわき)に道別(ちわ)
きて、日向(ひむか)の襲(そ)の高千穂峰(たかちほのたけ)に
天降(あまくだ)ります」とあります。
さらにその「一書」(5番目)には「降到(あまくだ)りましし
処(ところ)をば、呼(い)ひて日向(ひむか・宮崎県)の襲(そ)
の高千穂の添山峰(そほりのやまのたけ)と曰(い)ふ」とありま
す。この高千穂の添山峰が、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が高天原
から降臨した高千穂峰だというのです。
添山説についてはこんな伝承もあります。神武天皇が東征で豊後
水道(関門海峡との説も)で海戦となり、さらに台風が来て、神武
の船が転覆しそうになりました。この時、神武天皇が、添利山(そ
ふりやま)に向かって「彼の山は日向の国、吾が祖母(豊玉姫)は
海神、この難を救いたまえ」と祈ったところ、荒海は鎮まり、無事
に目的を果たすことができたという。このため添利山を祖母山とい
うようになったとしています。また一説には添利が韓国語の「京」
を意味する「ソプル」によるともいわれてもいます。
【▼山頂の2つの石祠】日向宮崎県側と豊後大分県側
さて、いま祖母山の山頂には古い石祠が2つまつられています。
一つは、日向側の宮崎県高千穂町五ヶ所に鎮座する祖母嶽神社の上
宮です。もう一つは豊後側の神社で、大分県竹田市の健男霜凝日子
神社(たけおしもこりひこじんじゃ)と、緒方町(大分県豊後大野
市)の健男霜凝日子麓社の上宮です。
【▼祖母嶽神社祭神】日向側(宮崎県)
日向側(宮崎県高千穂町)の「祖母嶽神社」は、神武の父である
ヒコホホデミとその母の豊玉姫(とよたまひめ)などをまつってい
ます。
【▼健男霜凝日子神社】豊後側(大分県竹田市)
一方、豊後側(大分県竹田市)の健男霜凝日子神社(たけおしも
こりひこじんじゃ)は、姥岳神である豊玉姫(とよたまひめ)命ほ
かをまつっていますが、古くは神社名の神・健男霜凝日子神をまつ
っていたのであろうといいます。この神はその名のように、昔は、
霜などによる害を防ぐ自然神であったらしい。緒方町(豊後側・大
分県豊後大野市)の健男霜凝日子麓社は、同神社の分霊なのだそう
です。
【▼支配権争い】
この2つの石祠は、山上の支配をめぐって日向側(宮崎県)と豊
後側(大分県)で争ったこともあったそうですから、「神さままつ
り」も人間がからむとなんともおぞましいことになってしまいます。
【▼伝説1】
この山に関しては不可思議な話もあります。昔、日向国(宮崎県)
塩田というところにすむ塩田太夫の娘の花本姫は大変美しく、両親
は男が近づけないよう別室に住まわせていました。姫が18歳にな
った時、どこからともなく25歳くらいの若者があらわれ、夜な夜
な姫のもとへ通うようになりました。
若者は、とてもこのあたりの者ともおもえないような、立て烏帽
子に水色の狩衣(かりぎぬ)、貴公子らしいりっぱな顔立ちに、姫
も若者の求愛を受け入れました。しかし間もなく侍女たちに気づか
れ両親にも知られてしまいました。
姫はすでに身ごもっていましたが、相手がどこの誰だか分かりま
せん。そこで両親は娘に針と糸を渡し、若者の狩衣のすそに刺して、
その糸をたどって住まいを探すことにしました。塩田太夫は、姫の
ほかに家来を4,50人も連れ、山や谷を越えて日向と豊後の国境
にある嫗岳(祖母山)の山ろくの暗い洞穴の入り口に差しかっかっ
た時、中からうめき声が聞こえてきました。
太夫は花本姫に糸を引かせて合図を送り誰なのかを確かめさせま
した。するとうめき声をあげていたのは大蛇でした。狩衣のすそに
刺したと思った針は、おとがい(あご)の下に刺さっていました。
この大蛇こそ実は嫗岳大明神でありました。大蛇は「自分はもうす
ぐ死ぬが、姫のお腹にいるのは男児で、将来りっぱな武将になりそ
の一家は子孫の末まで繁栄するだろう」と言い残しました。
生まれた子供は顔かたちもりりしく、はだしで野山を走るので、
いつも足に「あかぎれ」が切れているので、あかがり大弥太(大太
童とも)呼ばれました。その五代目こそこの地を治める、緒方三郎
惟栄(これよし、惟(維)義とも)であり、豊後国緒方荘(いまの
大分県豊後大野市緒方地区)の領主だったのです。領主緒方三郎の
体には蛇の子孫の証しとして、蛇の尾の形とウロコがありました。
それでまたの名を尾形三郎ともいったということです。
この話は、『平家物語』(巻八・緒環(をだまき))や、その異本
だという『源平盛衰記』(古巻第三十三)に、蛇と人間の娘(花御
本姫の名で)の神婚譚が記載されています。前者の『平家物語』に
は、「豊後の国は、刑部卿(ぎょうぶきょう)三位頼資卿の領地で
ある。子息の頼経朝臣(あそん)を代官として置いていたが、都よ
り豊後国へ平家追討の命令が下り、
代官の頼経は、緒方三郎維義
(おがたのさぶろう これよし)にその任を負わせた。この緒方三
郎維義の先祖について伝承がある」と紹介しています。
【▼伝説2・竜駒】
また祖母山頂には一本角の神馬伝説もあります。昔、祖母山は女
人禁制で、緒方町側では女性子供は黒岳山(池原)から上には登れ
ませんでした。男性でも登山の際は、祖母北稜の屏風岩で履き物類
は脱ぎ捨て、それから上は素足でお参りをするのがしきたりだった
そうです。
そもそもこの山の頂には、角が一本生えた神馬がすんでおり、こ
れを「竜駒」と呼んでいました。山頂南の奥祖母新道の下方、尾平
急谷付近にある岩屋は、竜駒の馬屋だといいます。この場所はいま
でも周辺をよく探せば馬の毛が落ちていて、拾って持ち帰ると幸運
をつかめるといわれているそうです。
そのほかに東ろくの尾平地区から祖母山を望むと、山頂は二つに
分かれて見えますが、北側のピークはお花畑があり、神馬竜駒はこ
この草地でよく草を食(は)んでいたそうです。さらにはこのあた
りのスズタケを家に持ち帰って、馬に食わせると病気にかかりにく
くなるとされています。また国見峠とお茶屋場(三県境)の頂との
鞍部から、ちょっと宮崎県に入り込んだところの湿地には「竜駒の
池」という池があり、竜駒の水飲み場といっているそうです。
ところで、祖母山西ろく熊本県側五ヶ所地区の奧に、笈(おい)
の町という小さな集落があります。ここには「義経千本桜」に出て
くる源義経の重臣、佐藤忠信(道玄)にちなむ佐藤家があるそうで
す。この家にはこんな言いつたえがあります。昔、佐藤家に一頭の
ブチの馬(体に白斑のある)が飼われていました。
この馬のところに時々、祖母山頂にすむ神馬「竜駒」が遊びに来
て、広い山ろくの牧場で二頭仲良く遊ぶ姿が見られたそうです。間
もなくブチの馬との間に子馬が生まれました。生まれたのはやはり
ブチで、その上頭に角が一本生えていたといいます。この馬は明治
初年(1868)ころまで生きていて、それを見た人もたくさんいたそ
うです。いまその馬の角は高千穂町コミュニティーセンターに所蔵
されているそうです。
【▼歴史・登山史】
話は変わって昔から多くの著名人がこの山に登ったそうです。江
戸時代後期の医者、橘南谿(たちばななんけい)がこの山に登ろう
としたのは、天明2年(1782)の夏のこと。まだこのころは「ウバ
ガタケ」といっていたらしく、その紀行『西遊記』に、「姥が嶽は
豊後の国竹田の城下南四里にあり。山の色黒く、雑樹生い茂り、抜
群に秀でて大なる山なり」と書いています。
しかし南谿は祖母山には登れなかったらしい。天明2年は九州地
方が大凶荒の年で、山は荒れておりおまけに山賊などが出るといい、
案内人が見つからず断念したそうです。明治維新が近づいて尊皇思
想が高まった江戸末期あたりから「ウバガタケ」は、「祖母山」の
名で呼ばれるようになります。
幕末の天保8年(1837)になり、探検家松浦武四郎という人が祖
母山に登頂します。西国地方旅行記の『西海雑誌』で、「……漸(よ
うやく)にして絶頂にたどり付(つく)に……いさゝかひらきたる
木の間に板葺社壇あり。日向(宮崎県)国祖母嶽三僧坊と誌せる額
をかけたる神前に礼拝して、其他の様子を考るに実に神寂たる霊山
にて、数千年斧斤を入れざる神山なれバ幾抱へともしれざる大木枝
を交て葉をかさね」とあり、「祖母嶽」の文字が見えます。
当時は、「祖母嶽の様子、道の善悪など尋問ふに主人驚きたる面
色にて、祖母嶽は是より頂上まで五十里ありて、掌を立てる如く道
甚だ険しく、冬は雲封じ夏は毒虫多く魔所なりと恐れて、土人とい
へども春秋の祭日の外は絶えて登山いたす者なし……」などといわ
れていました(同『西海雑誌』)。
そんな時代に、松浦武四郎は地元の村人に無理に案内を頼み、「峻
(けわし)き山を直立に上り行なれば出張たる岩の角は胸をさゝへ
て登りがたきを、木の根に取つき足を運び千辛万苦して千辛万苦し
て頂上を極め」と同書に書いています。かなり強引だったようです。
明治になると、英国人宣教師ウォルター・ウェストンが来日して、
富士山の次ぎにこの山に登ります(1890年11月)。いよいよ近代
登山の幕開けでありました。その記念碑が、五ヶ所高原の小高い展
望台「三秀台」に建つ鐘の塔として残っています。
▼祖母山【データ】
★【所在地】
・宮崎県高千穂町と大分県豊後大野市(旧緒方町)、竹田市にまた
がる。JR本線豊肥本線豊後竹田駅の南南東17キロ。JR緒方駅
から豊後大野市営バスで尾平高山、さらに歩いて5時間で祖母山山
頂。1等三角点(1756.39m)、健男霜凝日子社(たけおしもこりひ
こしゃ)と祖母嶽神社(そぼたけじんじゃ)上宮の石祠がある。
山頂直下9合目にあけぼの山荘がある。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・【祖母山一等三角点1756.39m】北緯32度49分41秒.2728、東経
131度20分49秒.3647
・【祖母山四等三角点1446.03m】北緯32度49分43秒.9926、東経
131度19分21秒.4081
★【地図】
・2万5千分1地形図名:「祖母山」大分12-3。
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典44・大分県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『角川日本地名大辞典45・宮崎県』(角川書店)1991年(平成3)
・「週刊・日本百名山・48」(朝日新聞出版)2008年(平成20)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本書紀(一)』(岩波文庫)校注・坂本太郎ほか(岩波書店)1995
年(平成7)
・『日本伝説大系13』(北九州・福岡、大分、佐賀、長崎県)荒木
博之ほか(みずうみ書房)(1987年(昭和62)
・『日本伝説大系14』(南九州・宮崎、熊本、鹿児島)荒木博之ほ
か(みずうみ書房)1983年(昭和58)
・『日本の民話20』(福岡・大分編)加来宣幸ほか(未来社)1974
年(昭和49)
・『日本歴史地名大系45・大分県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)
・『日本歴史地名大系46・宮崎県』(平凡社)1997年(平成9)
・『平家物語』(日本文学全集7)「保元物語、平治物語、平家物語」
井伏鱒二訳(河出書房新社)1960年(昭和35)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)
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