山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1195号(百伝95)九重山「空池の猿と久住山の恋敵」

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【本文】
 九州大分県にある九重山は、九重町(ここのえまち)と竹田市
(旧久住町)にまたがる火山群の総称。その南西山ろくは熊本県
にまで入っています。一名「九重三十五峰」といい、1000mを超
える山が35峰も連なっています。この山々は九重連山、九重連峰
ともいうそうです。

 九重の名の意味はトロイデ型の火山が9つ重なっていることによ
るとの説があります。最高峰は中岳(1791m・竹田市)で、大船
山(たいせんざん・1787.1m・竹田市)、久住山(くじゅうさん・
1786.8m・竹田市)の順。ほかに三俣山(竹田市・九重町)、稲星
山(いなぼしやま・竹田市)、星生山(ほっしょうざん・九重町)
山などの峰々があります。

 頂上からの展望は、西は阿蘇の中岳、根子岳、烏帽子岳、杵島岳
などの阿蘇五岳から、南は祖母山、傾山、大崩山(おおくえさん)、
北は由布山、英彦山(ひこさん)などが一望できます。

 高山植物は、北西側に国天然記念物のコケモモ・ミヤマキリシマ
の大群落があり、とくにミヤマキリシマは有名です。山の歌に「坊
がつる賛歌」という歌があります。作詞:神尾明正・松本征夫の2
番です。「ミヤマキリシマ咲き誇り、山くれないに大船(だしせん)
の、峰を仰ぎて山男、花の情けを知る者ぞ」と山男の間で歌われて
います。

【▼山頂・御池】
 九重山の最高峰中岳の直下には火口湖の御池(みいけ)があり、
さらに西隣、一段低いところにすり鉢状にくぼんだ、空池(からい
け)があります。御池は田畑を潤す水の源・水神として崇められ、
「この池を汚した人には災厄がおきる」と信じられてきました。こ
れとは別に、俗に九重の神は、綏靖天皇(すいぜいてんんのう)の
ことだとの話がありますが、これは水精で水信仰に由来したもので
別のことそうです。この水の神としての御池にお参りにきた人たち
は、池に賽銭を投げていったらしく、御池の底には賽銭がたくさん
沈んでいたといいます。

 近代になって硫黄の採掘の作業員たちが池にもぐって拾い、酒代
にしたといいます。ちなみに大船山横にも御池がありますが、ここ
は「おいけ」と呼ぶそうです。また『箋釈 豊後風土記』という書
籍に、「九重山の北に硫黄山があり。上常に火あり。鳴動雷のごと
く、黒烟天に接す。多くの硫黄を産し、甚だ精良なり」とあるよう
に、硫黄山で硫黄が採れたそうです。酒代に賽銭を拾ったという人
たちはここの作業員だったのでしょうか。

【▼ふたつのくじゅう山】
 そもそも九重山には、久住山というピークがあってどちらも同じ
ように「くじゅうさん」と読むのでまぎらわしいことこの上ありま
せん。しかし、「九重」の方は、35座も連なる山の連峰の名前で、
一方「久住」の方はその中の一つの山なのだそうです。

 どうしてこんなことになったのでしょう。そもそも九重連峰も昔
はほかの山と同じように、霊山と崇められ、信仰の対象でありまし
た。この連峰は、豊後(いまの大分県)と肥後(熊本県)との境界
にまたがっており、豊後側では「九重山」といい、肥後側では「久
住山」と呼んでいたといいます。それはふたつのお寺から来ている
というのです。

 この山中には九重山法華院白水寺(はくすいじ)と、久住山猪鹿
狼寺(いからじ)があり、それぞれが中岳山頂に近い賽の河原の「上
宮」をまつっていました。しかもお寺の山号が「九重山」と「久住
山」。九重山法華院白水寺は、豊後国(いまの大分県)岡(竹田)
藩領の坊ガツルにあり、一方、久住山猪鹿狼寺(いからじ)は豊後
国内ながら熊本藩(肥後)領の久住高原で下宮として勢力をふるっ
ていたのでした。

 当然、地元の豊後側では「九重山」と書き、肥後側では「久住山」
と書きます。明治36年(1903)、5万分の1の地形図がつくられま
した。その当時、中岳と御池がセットで信仰されていました。その
ため中岳は聖域ということで三角点設置は遠慮して、中岳のすぐ南
の無名峰が最高点であるとして三角点を設置、久住山と名づけまし
た。そして九重山という山は、いまの星生山(ほっしょうざん)に
しました。その後、最高峰を「久住山」とし、連山の総称を「九重
山」にすることで話し合い、5万分の1地形図には「九重(久住)
連山」と書くことで一件落着したように見えました。

 ところが、そのあとで、最高峰であるべきはずの久住山の山頂が
崩壊し、大船山より少し低くなってしまったのです。改めて測量し
たところ、最高峰は中岳で、2位が大船山とわかり、久住山は3位
になってしまいました。いままで中岳は上宮の神域なので遠慮して、
三角点を置けず測量できなかったため、正確な標高が不明だったの
です。神域だと遠慮していたのが仇になってしまったのです。

昭和61年(1986)になり、九重山と阿蘇山一帯は国立公園に指定
されました。そしてその名称を「阿蘇くじゅう国立公園」としてい
ます。くやしいのは久住山側の地元、いまだに山名論争がくすぶっ
ているといい、はっきり決着はついていないようです。ただ、観光
宣伝の面では「くじゅう」のひらがな書きを協定しているというこ
とです。

【▼ふたつのお寺・白水寺と猪鹿狼寺】
 さて、江戸時代には法華院白水寺は、豊後岡藩(大分県)の庇護
を受けてますます発展し、修験者や禅定者(ぜんじょうしゃ)がた
くさん訪れるようになりました。また猪鹿狼寺(いからじ)も熊本
藩の庇護を受け、法華院と同様に一大山岳霊場として栄えます。し
かし、山上をめぐっての争いは、同じ天台宗でありながら対立し続
けているのでした。

 そんなふたつの寺も明治になると、廃仏棄釈の嵐が吹き荒れ、廃
寺にされてしまいました。その後猪鹿狼寺は復興されはしたたもの
の、もう片方の法華院白水寺は完全になくなり、寺宝類の多くが失
われてしまったのでした。

【▼山好き藩主】
 ところで、豊後国岡藩の第三代藩主の中川久清は大の山好きだっ
たといいます。藩主だった間にも5回、大船山になどに登っている
そうです。もっとも、強力が担ぐ人鞍(ひとくら)と呼ぶ背負子(し
ょいこ)に乗って登っていたらしいですが。登った記録は藩主在任
中の5回だけらしいですが、当然若いころや、隠退後も登ったのに
違いありませんね。久清は「入山」と号して歌なども詠んでいます。

 この山に訪れた文人も多い。徳富蘇峰(そほう)が「久住高源有
作」の漢詩をよみ、田山花袋も和歌2首と漢詩を詠み、北原白秋も
「草深野ここにあふげば国の秀や久住はたかし雲を生みつゝ」と歌
っています。また野口雨情も詩を詠み、川端康成は九重山を訪れて
『波千鳥』(「続千羽鶴」)を書いています。ほかにも歌人や俳人、
作家で九重を訪れた人は多く、九重山域のあとこちに歌碑や句碑、
文学碑が残されています。

【▼伝説・久住の空池】
 さて、九重山最高峰の中岳の東側東直下には火口湖御池があり、
さらに隣接して東側一段低いところに空池(からいけ・くぼ地)が
あります。ここにはこんな伝説があります。久住の山の守護神は心
の優しい女神さまで、土地に住む人々も昔から「久住のお山で殺生
してはならぬ。この戒めを守らぬとたたりがある」と、村中で代々
この禁制を守って生活していました。

 ところが、どこにもひねくれ者がいるもので、「そんな馬鹿なこ
とがあるもんか、たたりがあるかねえか、試してやる」と、人々の
とめるのも聞かずに、猟に出かけました。そして両手を合わせて、
助けてくれというような猿の仕ぐさも意にとめず、撃ち殺してしま
ったのです。それは母猿でした。母猿は腹の下には生まれたばかり
の子猿をしっかり抱きしめたまま死んでいました。

 猟師は子猿を母猿から放そうとしましたが、母猿はしっかり抱き
しめていて、どうしても放れません。猟師は山刀を抜いて母猿の両
手を切り、子猿を放しました。そして母猿の血で汚れた山刀を拭い
てきれいにしようとしました。しかし、いくら拭いても血は落ちま
せん。猟師は近くにあった池に行き山刀を洗おうとしました。

 するといままであんなにあった池の水がみるみるなくなって空の
池になってしまいました。「???」。あわてた猟師はあたりを見渡
すと、すぐそばのくぼ地がいつのまにか満々と水をたたえています。
猟師はさらにあわててその池でまた刀を洗おうとすると、またもや
水がなくなってもとのくぼ地になり、いつの間にか前の池が水でい
っぱいになっています。

 猟師は慌てにあわてて両方の池を血のついた刀をもったまま行っ
たり来たり。次第にやけくそになり、右往左往しているうちついに
日が暮れていきます。猟師はそのうち、とうとう気が狂ってしまい
ました。こんなことから水のある御池(みいけ)と水のない空(か
ら)池がならぶようになりました。この池の水は聖なる水。「久住
のお山で殺生してはならぬ。この戒めを守らぬとたたりがある」。
村中で代々守ってきた禁制を犯した罰だと人々は噂しあいました。

【▼伝説・由布山と久住山は恋敵】
 いま九重山(九重連山)の最高峰は中岳(1791m)です。かつ
て正確な三角点測量ができなかった昔、久住山(九重連山の中の一
山)は九州一、背が高くりりしい山だと思われていました。これは
そのころの話です。久住山の北東、別府市の近くに由布岳(1583
m)があります。由布岳はその美しい姿から「豊後富士」とも呼ば
れるほど男前の山でした。その由布岳の近くにはおしとやかで愛ら
しい鶴見岳(1375m)という山がありました。

 このふたつの山は幼なじみで、お互いに思いを寄せ合う中でした。
そんな時、その鶴見山を見そめて通ってくる山があらわれました。
それははるか彼方にりりしく九州一高くそびえる久住山でした。久
住山はミヤマキリシマの花束をもって、毎日のように鶴見山のもと
に通ってきます。その熱心さにさすがの鶴見山も心がゆれはじめま
した。

 それを知った由布山は、「確かに高さでは久住山が一番だけど、
私のところにも久住山に負けない花が咲いている…」と、ミヤマキ
リシマ、エヒメアヤメ、サクラソウなどでつくった花束を鶴見山に
プレゼントしたのでした。鶴見山はその真心にすっかりまいり、ふ
たりはめでたく結婚しました。

 そこへ、何も知らない久住山が花束を抱えてやってきました。そ
こではじめてふたりが結婚したことを知りました。久住山は、がっ
かりして涙を流して悲しみ、遠く南西の彼方へ帰って行きました。
そして、二度と姿をあらわすことはありませんでした。この時久住
山が流した涙が鶴見山の南東にある志高湖(しだかこ)になりまし
た。また鶴見山は由布山に寄り添うようにそびえています。そして
ふたりの間に生まれた子が太平山(扇山・815m)になったという
ことです。


▼九重山【データ】
★【所在地】
・大分県九重町と竹田市旧久住町にまたがる。JR久大本線豊後中
村駅からバス、九重長者原-経由牧の戸峠、さらに歩いて2時間で
久住山(一等三角点1786.6m)、1時間で中岳。(写真測量による
標高点(1791m)がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から
・中岳標高点:北緯33度05分9.46秒、東経131度14分56.5秒
・久住山三角点:北緯33度04分55.87秒、東経131度14分27.13秒

★【地図】
・2万5千分1地形図名:久住山、湯坪、大船山


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典44・大分県』竹内理三(角川書店)1991年
(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本の民話20』(福岡・大分編)加来宣幸ほか(未来社)1974
年(昭和49)
・『日本歴史地名大系45・大分県の地名』(平凡社)1995年(平成
7)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年(平成19)

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