【本文】
四国愛媛県にある石鎚山(いしづちさん)は、石鎚山は彌山(み
せん・1974m)、天狗岳(1982m)、南尖峰(なんせんぽう)の三つ
のピークがあり、最も高い天狗岳の高さを石鎚山の標高にしていま
す。これは西日本のなかでも最も高い山になっています。
この山は切り立った矢じりの先のような天狗岳や、その先の南尖
峰、また夜明け峠から東方を望めばそそり立つ御塔石(天柱石)の
奇岩、さらに穴の薬師の岩窟などがあり、なんとも険しい山です。
ここはその昔、弘法大師も修行した信仰の山で、江戸時代から石鎚
講がつくられ、信者たちは「ナンマイダンボー」(南無阿弥陀仏)
と唱えながら登ったといいます。
【山名】
石鎚山・石土山・石鉄山・石槌(ママ)山、石鉄山とも書き、「い
しづちさん」「いしづちやま」ともいうそうです。山名の由来は、
頂上の岩峰の形を「石鎚」と見たてたものといわれ、一説に「ツ」
は「之」の意味で、「チ」は霊力をもつ神やものにつく接尾辞古代
語「霊・チ」で、石之霊(いしづち)だといいます。
【山頂】
山頂からは、眼下に西条市や周桑平野・瀬戸内海を望み、遠く中
国の伯耆大山・九州の久住山、さらに太平洋まで望見できる。
石鎚山の神社は、弥山山頂にある「石鎚神社頂上社」と、その北
東中腹の成就というところにある「石鎚神社成就社」(口ノ宮社)、
それに北ろく西条市西田(JR予讃線石鎚山駅近く)にある「石鎚
本社」の三社の通称です。古くは石鎚(石鉄)山社ともいったそう
です。
まつられている神は『古事記』にみえる石土毘古命(いわつちひ
このみこと)で、智・仁・勇の神徳(しんとく)にちなんで山体の
神像をまつります。この神は、『古事記』(上つ巻)に、(伊耶那岐
・伊耶那美の2神が)「すでに神を生み竟(を)へて、さらに神を
生みたまひき。かれ、生みたまへる神の名は、大事忍男(おほこと
おしを)の神。次ぎに石土毘古(いはつちびこ)の神を生み、次に、
天之吹男(あめのふきを)の神を生み……」とでてくる神。この神
は岩や土をあらわす男神だといいます。
【歴史・開山】
そもそもこの山は奈良時代に寂仙(じゃくせん)という修行僧が
修行をしたといわれています。その寂仙が籠もるより以前に石鎚山
頂にすでに石鎚神が鎮座していたともいわれ、その時代に役小角(え
んのおづぬ)が、この神を石土蔵王権現をまつって修験の山とあお
がれました。また役小角の法脈(定義)をひく「芳元」という人が、
石摺峰(石鎚山?)に、熊野権現を勧請したという言いつたえもあ
ったりします。
しかし急峻なこの山は、ふつう人には登れる山ではありませんで
した。その後、役ノ行者の亜流とされる石仙道人が苦労して登山道
を開き、登山者のため中腹に成就社(じょうじゅしゃ)を建立した
といいます。成就社とは、もとは常住舎といい、山に籠もるための
宿坊だったらしいとのこと。
中世以後は、神仏習合修験の山として本尊を石鎚蔵王権現といっ
たそうです。ただ『伊予温故録(いよおんころく)』という本に「…
役行者の開きたるは瓶ヶ森(かめがもり)の方なり」とあり、古く
は石鎚山の東北東にある瓶ヶ森を石土山(石鎚山)と呼び、石土神
社もここにあったものを、中世現在の場所に遷座したとの記述もあ
るらしい。
しかし、いずれにしても石鎚山は役行者に関わる山に違いありま
せん。平安時代末期に編まれた歌謡集『梁塵秘抄』(りょうじんひ
しょう)という本にも「聖(役行者)の住所は何処何処ぞ、大峰葛
城石の槌」と詠われているほどなのだそうです。成就社を創立した
石仙行者のあとに上仙、光正などの大行者が次々とあらわれ、山中
に横峰寺、前神寺などを創建していきました。
いま横峰寺は、真言宗御室派として西条市小松町にあり、前神寺
は真言宗石?派総本山として西条市洲之内にあります。両方とも山
号は石?山(せきふさん)で、石鎚登山ロープウエイ山頂成就駅近
くには奧前神寺もあります。明治のはじめの神仏分離令で修験道に
対する締め付けはあったものの、神仏混淆の思想はいまでも残って
おり、石鎚山への参詣者は「ナンマイダンボー」(南無阿弥陀仏)
と唱え、石鎚の神を権現さまと呼んでいます。
この山も長い間女人禁制の時代がつづきました。いま解禁になっ
たとはいえ、毎年7月1日から10日までは夏の大祭で、お山市と
称されその期間の内、1〜2日は女性の登拝が禁止されています。
【雪形】
温かい愛媛県にある石鎚山にも雪形がでて、山ろくの村人はその
雪形を見て稲の籾種をまく習慣があったそうです。愛媛県の東予地
方の旧周桑郡(丹原町、東予市)には、「石づちの雪鍬の柄と見ゆ
る頃、苗代時と知れよ三四郎」という諺もあるそうです(『山の紋
章・雪形』)。この雪形は「鍬形」とか「鎌形」と呼ばれているそう
です。
これが出るのは、石鎚神社頂上社から北へ下った面河分岐から西
ノ冠岳方面、石鎚三角点峰の先の尾根の中間点の北面、「雪ダルダ
ニ」(雪瀑谷)で、北ろくの老の川地区で加茂川の本流に合流する
谷です。道前地方(どうぜん・愛媛県
東予地方の旧周桑郡丹原町、
東予市)からは、平仮名の「く」の字に見えるそうですが、見る地
点によっては変わってくるということです。また旧千足山村(いま
の西条市)では、この雪の形が「犬の伏せたるほど」に変わると、
粟をまくというそうです。
石鎚山には上述の「鍬雪」とは別に、「ミノカサ雪」という雪形
があらわれるということです。これはやはり石鎚山北ろく西条市の
中村地区、土居地区、谷ノ内地区のごく限られた里人に伝承されて
いるそうです。この雪形が出るのは「雪タルダニ」という谷の標高
900m位の低いところで、上記地区以外では見ることができないと
いいます。これはミノカサを逆さにしたような形で、それがあらわ
れると村人は焼畑に粟やヒエを蒔いたということです。
さらにこれは雪形ではないですが、愛媛県温泉郡中島町睦月(い
まの松山市)の人は、石鎚山のことを「伊予太郎」といい、「伊予
太郎が出たら明日は晴天」だというそうです。石鎚山が澄み渡って
望める日は「明日も晴れ」と決まっていたのだそうです。
【伊曽乃神社創建伝説】
この山には不思議な話がいくつかあります。石鎚山の北ろく・西
条市中野甲というところに伊曽乃(いその)神社があります。この
神社の神は女神で、石鎚の神の妻だったそうです。ある時、石鎚の
神が山に登ろうとしましたが、この山はまだ女人禁制で、妻の伊曽
乃の神は登ることができません。
女神がウロウロとしていた時、すでに山頂の登っていた石鎚の神
が大石を投げました。石はガラガラ、ゴロゴロと転がり落ちていき、
やがて止まりました。石鎚の神は妻の伊曽乃の神に、大石が止まっ
たところに住むようにいいました。そのため、伊曽乃の神は石の止
まった場所に神社(伊曽乃神社)を建てて暮らすようになりました。
そこからは石鎚山がよく見え、また夫の石鎚の神が投げたという大
石も神社の前にあるそうです。
【伝説・天皇の子に生まれ変わる】
また、平安初期の弘仁年間(810〜824)に編纂された『日本霊
異記』(にほんりょういき)という本に「……又、伊与国神野郡(い
よのくにかみののこほり)の郷に山有り。名をば石槌山(いはづち
やま)と号(い)ふ。是(こ)れ即(すなは)ち、彼(そ)の山に
有(いま)す石槌(いはづち・槌は木偏)の神のみ名なり。其(そ)
の山高く?(さが)しくして、凡夫(ただびと)は登り至ること得
ず。但(ただ)し浄行の人のみ、登り至りて、居住(とどま)れり」
という一文があります。
……要するに、伊予の国神野郡に石槌山(ママ)という山があった。
これはその山におわす石槌の神の名である。その山は高く険しく、
心身を清めて修行するものだけが登り住めた。孝謙天皇の時代、こ
の山に寂仙という僧が籠もって修行し、菩薩とあがめられていた。
ところで天平宝字2年(758)に寂仙は臨終に及んで、文書を書き
記し、弟子に与えて「わたしは28年後、国王の子に生まれ変わり、
名前を神野と名づけられるだろう」と告げた。それから28年後、
延暦5年(786年)に、桓武(かんむ)天皇の皇子に生まれ、その
名を神野親王(のちの嵯峨天皇)と名づけられたというのです。要
するに僧の寂仙が生まれ変わって嵯峨天皇になったのだそうです。
【伝説・天皇に生まれ変わる】
さらに元慶(がんぎょう)3年(879年・平安前期)の民間の巷
談、俗説、訛言、古老の伝誦(しょう)、怪異などを採録した『文
徳実録』(もんとくじつろく)(菅原是善・都良香ら)にも同じよ
うな話が載っています。「伊予国神野郡。昔有高僧名灼然。称為聖
人。有弟子名上仙。住止山頂。精進練行。過於灼然。諸鬼神等(く
さかんむりの外字を使用)。皆随(したがう)?指(いし)。上仙甞
(嘗の異体字)従容語所親檀越云。我本在人間。有同天子之尊……」
と漢字ばかりがならんでいます。
……つまりの話が以下のようになるようです。「昔、伊予国の神
野郡に灼然(しゃくねん)という偉い坊さんがいた。弟子に上仙(『日
本霊異記』の寂仙のことか?)という行者がいて石鎚の山上に住み、
精進練行の結果、灼然行者を超えて山の鬼神たちを自由に使役でき
るようになった。(中略)その上仙が亡くなる際、自分が天皇に生
まれ変わるであろうと予言した」。
「また、この上仙行者に深く帰依していた橘姫が、来世は上仙と
ともに過ごしたいといいながら亡くなった。神野天皇とその后橘夫
人は、ふたりの生まれ変わりである。親王の名は、乳母が伊予国神
野郡の出身で「神野」と呼ばれた女性であったことに由来している
といい、以後、郡名を親王名をはばかって、新居(にい)郡と改め
た」というのです。両方の話とも、天皇の子に生まれ変わることを
予言したというのです。不思議な話というか、不思議な本が残って
いるものです。
【伝説・役行者の石鎚山探し】
かつては、石鎚山脈の一つ瓶ヶ森(かめがもり)は、石鎚山より
古くから開けていて、その頂上には寺も建っていたともいいます。
またその瓶ヶ森が遠くへ飛んでいってその跡にいまの石鎚山ができ
たなどという話があります。
その中のひとつの話です。ある時役行者が石鎚山を探しに出かけ
ましたが、なかなか見つかりません。その途中で、一人の老人がハ
ツリ(斧)を研いでいるのに出会いました。役行者が「何をしてい
るのか」と聞くと、老人は「このハツリを研いで細くして針にする
のだ」といいます。行者は「ずいぶん気の長い話だ」と思いました
が、やはり何事も辛抱が大事なのだと再び石鎚山を探しに出かけま
した。
そこで「オトウ」という地名のところの岩穴の奧で修行をしてい
ると、近くの大きな石が割れました。そこから2町(200mあまり)
ほど登ってみると、「穴の薬師」の洞窟の中に、石鎚山が大蛇にな
ってこもっていました。そこで役行者が「そこでは人々が参詣に来
ようと思っても来られない」といいました。それを聞いた石鎚山は
空へ舞い上がり、いまの場所におさまったといいます(『山岳宗教
史研究叢書12』)。
【▼伝説・ぬいぐるみの猿】
石鎚山ろく地方の住民は、ぬいぐるみの猿を山上にもっていく風
習があるそうです。それを杖の先にくくりつけ、もって帰り神棚に
まつっておきます。子供がはしかにかかったり病気をした時は、こ
のぬいぐるみの猿を拝めばよく治るのだといいます。この地方では
猿は山の神の使いだと考えられているそうです。
【▼伝説・天狗】
さて、石鎚山にも天狗がいることになっています。それについて
「石鎚山勤行式」というものには、「南無眷属(けんぞく)宝(法)
起坊、大天狗、小天狗、十二八天狗、有摩那(うまな)天狗、数万
騎天狗にに至るまでうんぬん」とあります。このように石鎚山の天
狗岳には大天狗、法起坊(ほうきぼう)と眷属の小天狗たちがウジ
ャウジャいることになっています。それをとりまとめるのが法起坊
大天狗だといいます。
ところでここを開山した役ノ行者は、江戸時代後期の寛政11年
(1799年)に、天皇から神変大菩薩(しんぺんだいぼさつ)とい
うおくり名を貰うまでは、法起菩薩とか法起大菩薩と呼ばれていま
した。法起とは役ノ行者の法号だったのです。そんなことから石鎚
山法起坊は、役ノ行者の化身ではないかとか、先述の石仙聖人、上
仙道人などだという説もあります。
しかし、天狗研究家は石仙、上仙が生きた時代が嘉祥3年〜天安
2年(850〜858年)であることや、『伊予温故録』や「前神寺縁
起」、その他文献を考察下結果、いくら法起坊天狗が法名を継いで
いるからといって、役ノ行者などこの山の開拓者の化身とは考えら
れず、結局は大昔から天狗岳に生まれていた地主神を後の世に祭り
上げたものだろうとしています。
▼石鎚山【データ】
★【所在地】
・愛媛県西条市と面河村との境。予讃線伊予小松駅の南15キロ。JR
予讃線伊予西条駅からバス、1時間10分石鎚ロープウエイ前停留所
下車、ロープウエイで山頂成就下車。さらに歩いて3時間20分で弥山
(1972m)。石鎚神社と石鎚神社頂上山荘がある。さらに20分で天狗
岳(1982m)。
★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索
・弥山:北緯33度46分08.63秒、東経133度06分49.05秒
・天狗岳:北緯33度46分03.96秒、東経133度06分54.3秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「石鎚山(高知)」
▼【参考文献】1
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・『角川日本地名大辞典38・愛媛県』(角川書店)1981年(昭和56)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・『山岳宗教史研究叢書12』「大山・石鎚と西国修験道」宮家準編
(名著出版)1979年(昭和54)
・『修験道の本』(学研)1993年(平成5)
・『神社辞典』白井永治ほか編(東京堂出版)1986年(昭和61)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳風土記8・中国四国九州の山々』(宝文館)1960年(昭
和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『日本霊異記』:日本古典文学全集第6巻「日本霊異記」中田祝夫
校注・訳(小学館)1993年(平成5)
・『文徳実録』:「国史大系3」国史大系編修会(吉川弘文館)1966
年(昭和41)
・『名山の日本史』高橋千劔破(河出書房新社)2004年(平成16)
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