【本文】
四国の剣山(つるぎさん)は、剣山系の主峰で徳島県内の最高峰で
あり、西日本では愛媛県の石鎚山に次ぐ山です。徳島県美馬(みま)
市、東祖谷山(いややま)村、那賀町にまたがっています。
【山名の呼称】
この山は昔は、四国太郎山あるいは太郎笈(たろうぎゅう)な
どとも呼ばれていました。そしてかつては東方の一ノ森(1879m)
や南西にある次郎笈(じろうぎゅう・1929m)などを含めての山
名だったそうです。次郎笈は太郎笈の弟分にあたるのだそうです。
また、剣山と呼ばれる前は「立石山」とか「石立山」、また「小
篠(こさざ)の権現」などともいわれていました。いま使われて
いる山名の「剣」の名が出てきたのは江戸時代の寛永年間(1624
〜44)といいます。当時の「阿波国絵図」に「剣ヶ峰」と記され
たのが最初だという。やがて年月とともに「剣山」の名が定着して
いったらしい。
【山名の由来】
ここで突然「剣」の文字が出てきたのには、3つの理由がありま
す。その第1は、頂上近くに剣のような神石(御塔石・おとうの
いし)があり、そばに大剣(おおつるぎ)神社をまつっているた
めだというもの。1815(文化12)年の『阿波志』(阿波藩の藩撰の
地誌)の「剣祠」の項に「剣祠 祖山菅生(すげおい)名剣山の上
に在り、名を去る二里余、頂に岩あり、屹立す、高さ三丈、土人以
て神と為す、三月、雪消え人方登謁(えつ)す、其形似たるを以て、
名づけて剣と云ふ。祠中剣あり、元文中(1736〜41)人あり、之
を盗む、既に得て、之を小剣岩窟中の人跡至らざる所に納む、後終
に失ふ」。
つまり、岩の形から剣山の名が与えられ、後に剣を奉納したとい
う。また1757年(宝暦7)、宇野真重著の『異本阿波志』は次のよ
うにあります。「剣山 曽谷山東の端也、此山上に剣の権現御鎮座
あり、又、小篠の権現とも申、谷より高さ三十間斗四方なる柱のこ
とき巖、立たり、風雨是をおかせども錆ず、誠に神宝の霊剣なり、
……」などとあります。
その第2は、前述の『阿波志』や『異本阿波志』にも出てくるよ
うに、大剣神社にまつる神宝が剣であることに由来する説。1912
年(明治45)の『新撰名勝地誌』(田山花袋編)には、「剣山は四
国第一の高山にして…(中略)…山頂に一小祠あり、剣の社と称す。
安徳天皇の剣を祀れるより其名を得たりといふ…(後略)」とあり
ます。
その第3の説は、安徳天皇の剣を山頂近くに埋めたとする説で、
これは、祖谷(いや)地方の言いつたえである、屋島合戦に敗れた
平氏一族が、ひそかに安徳天皇を奉じて祖谷地方に入ってきたとす
る説からきています。江戸末期の1792(寛政5)、讃岐の文人・菊
池武矩(のり)が当地を訪れた際の旅行記『祖谷(いや)紀行』に
よれば「山上より遙に剣の峰みゆ、其山昔は立石山といひしが安徳
天皇の御つるぎを収め給ひしより、剣の峰といふとなん」とありま
す。これは前記の『異本阿波志』の記事にもあります(『山岳宗教
史研究叢書12』名著出版から)。
また『剣山由来記』という文献では、「安徳帝、この山に御駐輦
(れん)、大山祇命(おおやまずみのみこと)の御社に御剣を奉納
あそばさるによって石立山を剣山と改す」とあります。御社とは
山頂の宝蔵石神社または西側直下の大剣神社のいずれかを指すと
され、宝蔵石または御塔石の下に剣が収められているといわれて
いるのです。
【山頂】
剣山山頂の南の端には一等三角点(標高19955.0m。三角点名:
剣山)があります。1943年(昭和18)、気象庁は山頂北側に「剣
山測候所」(富士山測候所に次ぐ高さ)を開設、職員が常駐し、気
象観測をしていましたが、技術の革新により2001年(平成13)に
廃止されました。また「平家馬場」と呼ばれる平坦地もあります。
【標高のエピソード】
いま剣山の標高は19955.0mとなっています。この標高について、
ちょっとおもしろい話があります。剣山は四国内で石鎚山とどちら
が高いか地元民の中で張り合いました。大正4年(1915)の『美馬
郡郷土誌』にこんなことが出ています。「古来、石鎚山は四国第一
の高山と称されしが、明治三十二年出版の百万分の一大日本帝国地
質図に、石鎚山を2097m、剣山を2242mと記せしかば、爾来学会
は剣山を以て四国第一となすに至れり」。
「然るに近年五万分の一地形図の完成するあり。石鎚山は1981
m、剣山は1955mと最後の断定を下したるを以て、終に古来の通
り石鎚山を以て四国第一となさざるべからざるに至れり」。つまり、
剣山と石鎚山はどちらが標高が四国一かで張り合いました。記録に
よると地図が出るたび、勝った負けたと一喜一憂していたことが分
かります。とどのつまりは、石鎚山は三角点が1920.6m、頂上天
狗岳は1982m、剱岳は1955mで一歩譲っているのだということで
す。
【▼山頂の神社】
この山のあちこちにはいくつもの神社があってややこしい。ま
ず山頂の宝蔵石神社(剣山本宮)は、東麓の美馬市木屋平(こや
だいら)地区にある竜光寺剣神社の奥ノ院だそうです。この神社の
そばには、宝蔵石(ほうぞうせき)と呼ばれる巨石があります。
また西側直下には大剣(おおつるぎ)神社があります。この神
社は、明治の神仏分離令が出るまでは大剣権現と呼んでいました。
そばにある巨石御塔石(おとうのいし・大剣岩ともいう)をご神
体としています。
そのほか山頂北側には両剣神社、その近くに古剣神社、その近
くに古剣神社、また北麓の三好市側リフト乗車駅近くの見ノ越(み
のこし)にも劔神社があります。これら各地にある「剣神社」の
総本山が、山頂西側直下の大剣神社なのだそうです。
この剣山地、なかでも祖谷山(いややま)と呼ばれる地域は、
飛騨(ひだ・岐阜県北部)の「白川郷」、肥後(ひご・熊本県)の
「御家荘(ごかのしょう)」、または日向(ひゅうが・宮崎県)の「椎
葉(しいば)の里」などとともに日本三大秘境といわれ、平家の落
人伝説地として知られています。
ここ剣山は植物の宝庫でもあります。1801年(享和(きょうわ)
元)には地元の植物学者、医師学問所(藩立医学校)教授らが入
山。明治になり、1896年(明治29)には植物学者白井光太郎が、1909
年(明治42)には牧野富太郎も植物採取のための登山をしました。
その結果この山で発見されたものに、ギンロバイ、シコクヤマト
リカブト、トガスグリ、ケンザンデンダ、ツルギハナウド、ツル
ギカンギク、ツルギミツバツツジ、シコクシラベなど数多くあり
ます。とくにシコクシラベは、四国特産の針葉樹で氷河期の遺存
植物だそうです。また古剣神社の西にある行場(不動の窟)付近
に生えている、やはり氷河期の遺存植物キレンゲショウマの群落
は、全国の有数の広大な規模だといいます。
【安徳天皇伝説】
これらの山名由来説の中に安徳天皇が度たび出てきます。そも
そも伝説によれば、源平合戦で死んだとされる安徳天皇が実は生き
ていて、平家の落人に守られて剣山の奥山に隠れ住み、この地で生
涯を終えたというのです。安徳天皇は高倉天皇の第一皇子、平安末
期の1180年(治承4)、わずか2歳で第81代天皇として即位しま
した。しかし、即位して間もなく源氏が挙兵して「源平の争乱」が
はじまります。そして屋島の戦いに敗れ、1185年(寿永4・文治
元)壇ノ浦の戦いでついに平氏は滅亡、安徳帝は祖母に抱かれて入
水(じゅすい)し、わずか7歳でその生涯を終えたということにな
っています。
しかし実は安徳帝は生きていたのだというのです。屋島の戦いで
敗れた平家軍のうち平国盛(くにもり・平忠盛の子で清盛の弟に
あたる教盛の二男)をはじめとする一団は、安徳天応を奉じて讃
岐の水石庄に身をひそめました。壇ノ浦で入水したのはじつは安徳
天皇の身代わりだったというのです。讃岐の山中逃げ込んだ安徳帝
の一行は、穴吹川を遡(さかのぼ)り、木屋平を経て石立山へと登
りました。
この時、安徳帝が自らの剣を奉じて山頂に埋めたのか、または、
遺勅(いちょく・後世に残された勅命)によって剣が山上に納めら
れたという。この剣山山頂に広がる「平家の馬場」という平原は、
平氏再興を図る落ち武者たちが乗馬の訓練をしたところとされてい
ます。「晴天ニハ、必ズ竜馬出テ、爰(ここ)ニ遊ブ、此笹ヲ喰フ
ト云々、毛色赤クシテ、二才駒程アリ、今是(これ)ヲ見ル人多シ」
と書く本もあります(『異本阿波志』)。また山上の宝蔵岩は、平家
の財宝あるいは軍資金を隠したところともいい、岩の下にはソロモ
ン王の秘宝が埋まっているなどという噂まであるしまつ。
さて、途中で安徳天皇と別行動をとったのは平国盛とその一族は、
吉野川を遡り、祖谷山に分け入って東祖谷山の大枝地区に行って岩
屋に身を隠しました。1185年(文治元)の大みそかでありました。
せめて新年の祝いに門松を立てようとしましたが、あたりに松はな
くヒノキで代用。そんな時、国盛の一行が大枝地区の名主の喜多家
を訪れました。ところが喜多家は、元旦の祝賀の宴の最中で、見知
らぬ落人一行の立ち入りを断りました。怒った国盛らは武力で喜多
家を滅ぼしてしまいます。
祖谷山地方にのこる正月の奇習があります。元旦に座敷に空の膳
をならべ、そこの家長が「きたぞ、ソーラきた」と叫びます。する
と家族みんなで外に飛び出して逃げるまねをするというのです。当
時の落ち武者の略奪の記憶が伝わっているのでしょうか。突然、見
たこともない無頼漢の落ち武者連中にやってこられて迷惑ですわ
な。いつも犠牲になるのは庶民ですね。
こうしてこのあたりを平定した平国盛は、阿佐地区に定住して祖
谷平氏・阿佐家の祖になったという。阿佐家は平家屋敷といわれ、
正月にはヒノキの門松を飾るということです。大枝地区の神社は国
盛が鉾を奉祀したところといい、神社の裏手には国盛が植えたとい
う老杉の巨木(国盛の大杉)があり、県の天然記念物になっていま
す。
さて、剣山の山頂で国盛たちが平定したという吉報を待っていた
安徳天皇たち。平国盛が、祖谷山地区を評定したという知らせを受
けて、祖谷へと下っていったのでありました。蛇足ながら、途中に
ある栗枝渡(くるすど)集落の下流の京上(きょうじょう)という
ところは、安徳帝が行宮(あんぐう・仮宮)を営んだところで、京
の都になぞらえた名前にしたものという。ほかにもこのあたりには
天皇淵や天皇森などという地名も各所に残されています。
このような落人たちの努力もむなしく、平家再興の夢はならず安
徳天皇はこの地で崩御したという。栗枝渡地区の八幡神社が安徳天
皇終焉の地といわれています。この神社の境内に「安徳天皇御火葬
跡」という場所もあります。またこの地方には菅生(すげおい)家
(源氏の末流)と阿佐家(平家)があって、阿佐家がいまも平家の
赤旗を伝えています。それに対し菅生家は源氏の白旗が伝えられて
いるそうです。菅生家は当時、平家一族を追って祖谷(いや)山中
に入って来たのだそうです。
【▼平家の馬場伝説】
剣山の頂上には「平家の馬場」と呼ばれるミヤコザサの平原があ
ります。文治元年(寿永4・1185)、屋島の合戦で敗れた平家は安
徳天皇を奉じて祖谷山(いややま)地方に潜伏して再興を謀りまし
た。その時の平家の総大将は、門脇中納言平教盛(のりもり)の
次男、従四位越後守平国盛でした。
平国盛は剣山の頂上平坦な草原で、きたるべく合戦に備え馬術の
訓練を行いました。いま山頂の平坦部の笹原を「平家の馬場」と呼
ぶのはこのためだとしています。その山の奥に入ったところに広
い茶畑があって、「宇治平」と名がついている。宇治の茶に似た茶
ができて平家の落人がそこを住まいにして茶をつくっていたそう
です(『日本伝説大系12』)。
▼剣山【データ】
★【所在地】
・徳島県三好市東祖谷(いや)、美馬(みま)市木屋平(こやだい
ら)、那賀郡那賀(なか)町木沢(きざわ)の間に位置する。JR
徳島線貞光駅からバス見の越から登山リフトで西島駅、さらに歩い
て50分で剣山山頂。一等三角点がある。北東237mに剣山本宮宝
蔵石神社がある。
★【位置】(国土地理院「地図閲覧サービス」から検索)
・三角点:北緯33度51分13.51秒、東経134度05分39.11秒
★【基準点閲覧】国土地理院「基準点成果等閲覧サービス」で検索
基準点(一等三角点):(基準点コード:TR15034602701)(点名:
剣山)(種別等級:一等等三角点)(基準点成果状態:清浄)(緯度
経度:北緯33度51分13.51秒、東経134度05分39.11秒)(標高
:19955.0m)
★【地図】
・2万5千分の1地形図:「剣山」
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典36・徳島県』(角川書店)1986年(昭和61)
・『山岳宗教史研究叢書12』「大山・石鎚と西国修験道」宮家準編
(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書18』「修験道史料集(2)西日本篇」五来
重編(名著出版)1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本伝説大系12』(四国)(みずうみ書房)1982年(昭和57)
・『日本の民俗36・徳島』金沢治(第一法規出版)1974年(昭和49)
・『日本歴史地名大系37・徳島県の地名』三好昭一郎(平凡社)2000
年(平成12)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
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