山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1192号-(百伝092)伯耆大山「国引き伝説と天狗の話」

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【本文】
 鳥取県の西部にある大山(だいせん)は『日本百名山』の92番
目に出てくる山です。山頂は大山町にありますが、琴浦町、江府町
などにもわたっています。三角点のある弥山(みせん・1710.6m)
を主峰としていますが、最高点はその東方にある剣ケ峰(1729m)
で、中国地方で一番の高峰です。

 さらにその東に連なるのが天狗ケ峰で、弥山から天狗ヶ峰までの
約4キロが主稜となつていますが、入れるのは頂上避難小屋までで、
弥山の三角点には立ち入り禁止になっています。その主稜から東南
へ槍(やり)ヶ峰、烏(からす)ヶ山が連なり、東北へは三鈷(さ
んこ)峰から野田ヶ山、宝珠(ほうじゅ)山とつづいています。

【山名・異名】
 大山(だいせん)は、旧国名から「伯耆大山」(ほうきだいせん)
とも呼ばれています。また見る方向によっては富士山にも似てい
るため、伯耆富士と呼ばれます。さらに、となりの出雲(島根県)
からの方が眺めがよいので「出雲富士」ともいいます。

【歴史・概略】
 この山は大昔からから神います山とされ、霊山としてあがめら
れてきました。有名なものに、大山(伯耆大山)を杭に、夜見ヶ
浜(弓ヶ浜)を綱にして保崎(島根半島)を引き寄せたという神
話があります(後述)。またここも開山は役行者だとされ、平安時
代になると修験の寺院としての大山寺(だいせんじ)が創建され
ました。大山寺は、バス停から夏山登山道を右に見送り行者コー
スを行くと間もなく右への道に入ったところにあります。

【大神山神社奥宮】祭神
 また「行者コース」の大山寺を見送った先にある大神山神社奥宮
は、伯耆大山の修験者が、遥拝所を設置したのが元だとのこと。祭
神は大己貴命(おおなむち)。本社は米子市にあり、大穴牟遅神(お
おなむち)をまつります。両方とも大黒さまのことで、大己貴命は、
『日本書紀』の表記、大国主命は『古事記』、大穴牟遅は別名のこ
とだそうです。

【国引き伝説】
 さて大山(だいせん)には、有名な「国引き伝説」が残っていま
す。奈良時代の『出雲国風土記』意宇(おう)郡の条に、「意宇(お
う)と号(なづ)くる故は、国引きましし八束水臣津野命(やつ
かみずおみつののみこと)、詔(の)りたまひしく、「八雲(やく
も)立つ出雲の国は、狭布(さの)(狭い)の稚国(わかくに)(未
完成)なるかも。初国(はつくに)(はじめに作った国)小(ち)
さく作らせり。故(かれ)作り縫(ぬ)わな(ほかの土地を縫い
合わせて大きくしよう)」と詔りたまひて、「たく衾(たくぶすま)
(タクの布で作った寝衣)志羅紀(しらぎ)(新羅国)の三埼(み
さき)(岬)を国の余(あまり)ありやと見れば、国の余(あまり)
あり」と詔(の)りたまひて、うんぬん」とつづく文があります。

 つまり、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)とい
う神さまが国を作る時、出雲の国は狭い未完成の国なので、ほかの
国の余った土地を引っ張ってきて、広く継ぎ足そうとしました。北
の方を見ると、海の向こうの朝鮮半島の新羅(しらぎ)の国に余っ
た土地があります。命(みこと)は幅の広い鋤(すき)を使い、大
きな魚を突き刺すようにその土地に打ち込み、魚のみを裂くように
して土地を切り離しました。

 そして三つによった太い丈夫な綱をかけ、川船でも引くように「国
来(くにこ)、国来(くにこ)」と唱えながら引っ張ると、その土地
はもそろもそろ動き、出雲の国にくっつきました。こうして合わ
さった国は、日御碕(ひのみさき)から平田までの間の北山になり
ました。その時、引っ張ってきた土地が離れていかないように大き
な杭を打ち込み、それに綱を結びました。その杭がいまの三瓶山(さ
んべさん)で、その綱は園の長浜になっているのだといいます。

 その後も、命(みこと)は、次々にほかの国の余った土地を引っ
張ってきて、出雲の国にくっつけていきました。これで出雲の国は
大分大きくなりましたが、命(みこと)はまだ不満です。「もう少
し大きくしなければ」といってまた北の方を眺めていましたが、
高志(こし)の国に余りの土地があるのを見つけました。

 命は「あれを引いてきて終わりにしよう」といって、またその
国に綱を打ちかけ、同じように「もそろ、もそろ」と引いてきてこ
ちらの国につなぎ止めました。これがいまの千酌(ちくみ)あた
りから美保関(みほのせき)までの山、つまり中海の北の半島だ
ということです。

 この時もまた、くっついた土地が離れないように、南の山の中
にひときわ大きい杭を打ち込み、それに引いてきた綱の端を結び
つけておきました。その時引っ張ってきた綱が弓ヶ浜になり、ま
た大杭を打ち込んだ山はいまの大山(伯耆大山)になっています。
こうして出雲の国は、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみ
こと)の国引きによって、いまのように大きくなったということ
です。『出雲国風土記』は、奈良時代の天平5年(733)に完成と
される出雲の神話などが記載される文書です。

【歴史・大川寺縁起】
 先の神話のほかに伯耆大山にはこんな起源伝説が残っています。
修験の寺院の文書『大山寺縁起』(だいせんじえんぎ)という文書
の「巻上・一段」に、「我が朝に地蔵菩薩の化(け)導を顕(あら
わ)し給ふそのおこりを尋ぬれば…」とはじまり、おおよそ次の
ようなことが書かれています(『山岳宗教史研究叢書18』)。

 伊弉諾(いざなぎ・男神)、伊弉冊(いざなみ・女神)の神の大
昔、兜率天(とそつてん・天上界の一つ)の第三院巽(たつみ・
東南の方角)の角より、ひとつの大盤石(ばんじゃく・大きな岩)
が落ちてきました。その岩は三つにわれて三つの山になりました。
その一つは和歌山県の熊野山にとどまり、もうひとつは奈良県大
峰山脈の金峰山(きんぷせん)になり、残りの一つはここ伯耆大
山になったのです。

 巽(たつみ)の角より落ちてきた盤石の山というので、この山
を「角磐山」と名づけ、熊野山・金峰山とともに日本第三の名嶇
(めいく)(名山・霊山)だといっています。『大山寺縁起』は、
鎌倉時代後期に成立した作者不明の大山信仰に関する貴重な史料
だそうです。また神奈川県相模大山(おおやま)にも同じ題名の
『大山寺縁起』があるので注意が必要です。

【歴史・開山】八人の神仙
 こんな話もあります。同書『大山寺縁起』「巻上・二段」には、
八人の神仙が、梵字の阿の字が出た「中池」の底に納経供養した
ところ、池の底から白赤(びゃくしゃく)二尊の毘盧舎那と、金
色裸質の不動明王が出現しました。そこで合わせてこの三尊をま
つるため中覚院というお寺を造ったといいます。

【歴史・開山】役行者
 また同書『大山寺縁起』「巻上・五段」には、この山の開山は役
行者であるとも記しています。天武天皇の12年(684年)、役優婆
塞(えのうばそく・役行者)がこの山に登って、奈良の大峰山や
葛木山でしたように長い年月修行を重ねた話も載っています。

【歴史・開山】行基
 さらに同書「巻上・六段」には、行基(ぎょうき)が開山した
とも記してあります。聖武天皇5年(738年)行基菩薩が、文殊童
子の社壇で修行をしていましたが水場がなく、仏さまに供える功
徳水もありません。そこで「明神願はくば此の岸に水をたれ給へ」
と祈りながら、金剛杵(こんごうしょ)を岩に打ちつけると清水
がしたたり出したとの記事もあります。

【歴史・開山】依道
 またこんな開山伝説も載っています。同書『大山寺縁起』「巻上
・七段」には、出雲国玉作(島根県八束郡玉湯町玉造)の猟師の
依道(よりみち)の伝説もあります。猟師の依道が、たまたま美
保の浦を通りかかった時に、海底から金色の狼があらわれました。
依道が狼のあとを追っていくと、狼は伯耆大山の山中の洞に入り
込みました。依道が矢をつがえ射ようとすると、そこに地蔵菩薩
があらわれました。

 猟師の依道が驚いていると、こんどは狼が尼さんの姿に変わり、
「私は登攬尼(とうらんに)という山ノ神である。あなたに地蔵
菩薩をまつってもらいたいと思い、獣の姿になってここまで導い
た」といいました。依道は、あまりに不思議な出来事に畏(おそ)
れおののき、髪をそって出家。そして金連聖人(こんれんしょう
にん・※草冠なし)として修行を重ね、南光院というお寺を開い
て釈迦如来をまつり、さらに阿弥陀如来を感得して西明院を建立
しまつったといいます。

【山の背比べ伝説】
 一方、山の高さ比べ伝説もあります。この伯耆大山の北西、鳥取
県大山町と淀江町の境に孝霊山(こうれいざん・751m)という山
があります。一名韓山(からやま)といい、ここにも山の背比べの
話があります。柳田國男も「日本の伝説」(山の背比べ)で、孝霊
山は大山(だいせん)と背比べするためにわざわざ韓から渡ってき
た山なので韓山(からやま)というのだといっています。

 韓山が背比べをした時、大山(だいせん)よりも少しばかり高か
ったのです。腹を立てた大山(だいせん)は木履(ぽっくり)をは
いたまま、韓山の頭を蹴飛ばしました。韓山の頭は割れて低くなっ
てしまいました。そのため、いまでもこの山は頭が欠けたようにな
っているのだという。またその昔、朝鮮からきた渡来人が故国の山
を持参し、大山と背比べをしたが敗れたので置き去りにしたという
言いつたえもあります。

【天狗伝説】
 さらに大山(だいせん)は天狗の山としても知られています。
首都圏で人気のある神奈川県丹沢大山(おおやま・相模大山)の
阿夫利神社下社わきにあるレリーフ(石碑)の天狗、伯耆坊はこ
の伯耆大山(だいせん)から山移りしてきたものだそうです。いま
そのあとの大山(だいせん)にいるのは清光坊(せいこうぼう)と
いう天狗だといいます。

 大山(だいせん)では昔から「大山の烏ヶ山を吹く風は、天狗
風か恐ろしや」と伝える里謡がありますが、これは伯耆坊のこと
らしいという。丹沢大山にいる伯耆坊天狗は日本を代表する「日
本八天狗」にも入っているエライ天狗ですが、伯耆大山の清光坊天
狗も山伏たちが唱える『天狗経』の48狗に入る天狗です。

【戦を止めようとした天狗】
 天狗関係ではこんな話もあります。『陰徳太平記』(4)という
本に、出雲の戦国大名の尼子晴久(あまごはるひさ)が、月山富
田城(がっさんとだじょう)の戦い(いまの島根県安来市)の時、
安芸(現広島県)の毛利元就(吉田郡山城)を討とうとして、兵
を集めている晴久に(1540年(天文9)室町時代後半)、この山の
天狗が、大山(だいせん)の神大智明権現(だいちみょうごんげ
ん)の神託(お告げ)を伝えて思いとどまらせようとした記述が
あります。

 「伯耆大山(だいせん)神勅(しんちょく)(神のお告げ、命令)
ノ事 或時、富田の城へ、色白う丈(たけ)高く清げなる山伏一
人来(た)り、伯耆大山の使僧なりと案内を請ふ。晴久対面せら
れしに、彼の山伏、今度芸州(安芸)御出張の思し召し、留まら
れ候かしと申しければ、晴久、それは衆徒中よりの使いに候かと
問い給ふ。いや是(これ)は権現御神託にて候。御疑ひを晴し申
すべき為なれば、証拠を示し候べしとて、懐中より鶏の蹴爪の如
くなる物、長さ一尺余りならんを出したり。

 晴久、是は不思議の御事、有り難き神勅かな。かかる神勅を受
けながら、違背申さんは冥慮(めいりょ)の程恐れ入り候と雖も、
諸国の軍士、羽檄(うげき)(急を要する檄文?(げきぶん)。昔、中
国で緊急の触れ文に鳥の羽を挟んだところから?)に応じて、すで
に当国に馳せ集まりて候へば、此上にて又、約を変じ、各々帰国
仕り候へと申さん事、晴久が胡論(うろん・胡乱の間違い?)と
云ひ、当家の軍法、信を失する第一にて候間、今更已(や)むこ
とは能はざる所にて候。

 ……山伏は暇乞ひて帰りにけり。……又翌くる夜、前の山伏来
たりて、晴久御返答、権現へ敬白仕り候へば、只幾度も芸州御出
張引延宜しかるべしとの御神勅に候。斯(か)く再三申し候と雖
も猶御疑心止まず候上は、事の明歴所をば、本(もと)の姿を顕
はして見せ申さんとて、両の腋下(わきした)よりだいなる翅(つ
ばさ)をさし出しければ、晴久、とかく幾度も同じ御返事にて候。…
…山伏、その由、反命仕るべく候。然れ共かく両度の神勅、御
違背候ふ事、彼れ是れについて宜しからざる御事に候。猶も能く
能く御思惟(しい)候べしとて、座敷を立つ」。晴久はあわてて緋
縅(ひおどし)の鎧一領と黄金作りの太刀一振りを寄進しました。

 しかし戦い(吉田郡山城の戦い・第一次月山富田城の戦い)の
結果は、少ない兵力の毛利勢に散々うち破られてしまいました。
これが、尼子家衰運の第一歩で、それから16年後の永禄9年
(1566)、毛利軍に攻められて尼子の月山富田城は落城(第二次月
山富田城の戦い)してしまいました。この『陰徳太平記』は.、室
町時代を書いた軍記物語。正徳2江戸時代の (1712) 年刊。岩国領
(いまの山口県)の家老香川正矩によって編纂、香川景継(宣阿)
が補足刊行したものだそうです。


▼大山(だいせん)【データ】
★【所在地】
・鳥取県大山町、琴浦町、江府町など。JR山陽本線米子駅の東19
キロ。JR山陽本線米子駅からバス、大山(だいせん)寺下車、3
時間半で弥山(大山町)。避難小屋と3等三角点がある。

★【位置】(電子国土ポータル)
・弥山三角点:北緯35度22分15.93秒、東経133度32分24.2秒

★【基準点の詳細】基準点成果等閲覧サービス
・基準点(三角点):TR35333044301大山、基準点コード:
TR35333044301、等級種別:三等三角点 、冠字選点番号:登35 、
基準点名:大山、成果状態:正常 、現況状態:正常、測量成果ワ
ンストップ、サービスの可否:可、

★【点の記】
・閲覧不可

▼【地図】
・2万5千分の1地形図:伯耆大山

▼【参考文献】
・『出雲国風土記』:東洋文庫145『風土記』吉野裕訳(平凡社)1988
年(昭和63)
・『角川日本地名大辞典31・鳥取県』竹内理三(角川書店)1982
年(昭和57)
・『桂月全集3』(紀行2)大町桂月(桂月全集刊行会)1926年(大
正15)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)1990年(平
成2)
・『山岳宗教史研究叢書12』「大山・石鎚と西国修験道」宮家準編
(名著出版)1979年(昭和54)
・『山岳宗教史研究叢書16』「修験道の伝承文化」五記重編 (名著
出版)1981年(昭和56)
・『山岳宗教史研究叢書・18』(修験道史料集・2)五来重編(名
著出版)1984年(昭和59)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『修験の山々』柞(たら)木田龍善(法蔵館)1980年(昭和55)
・『図聚天狗列伝・西日本』知切光歳著(三樹書房)1977年(昭和52)
・『世界大百科事典・8』(平凡社)1972年(昭和47)
・『天狗の研究』知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝説大系11・山陰』(鳥取・島根)野村純一ほか(みずう
み書房)1984年(昭和59)
・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭和61)
・『日本の民話15』(岡山・出雲篇)石塚尊俊ほか(未来社)1974
年(昭和49)
・『日本歴史地名大系32・鳥取県の地名』(平凡社)1992年(平成
4)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)

 

 

 

 

 

 

 

 北海道利尻島の利尻山(りしり・標高1721m)は、『日本百名山』
(深田久弥著)の一番目に書かれている山。利尻郡利尻町と利尻
富士町との境にあります。日本最北の山で、利尻岳とも書かれ、
島そのものがひとつの山になっています。美しい姿から利尻富士
とも呼ばれています。

 ここには不思議なことに熊やマムシなどのヘビ類がいないとい
う。深田久弥は『日本百名山』の中で、かつて利尻島南東方向対
岸の北海道天塩(てしお)町で山火事があった時、火事現場から逃
れてきたのか熊が泳いで渡ってきて、すみついたことがあったとい
う。しかし、いつの間にかいなくなっていた。たぶんまた古巣へ泳
ぎ帰ったのだろう、というようなことを書いています。

 山名はアイヌ語の「リ・シリ」の音訳「高い島山」という意味
で、となりの低い島山「礼文」に対するもの。この山は、島の中央
に山頂を突き上げ、北峰(1719m)、本峰、南峰(1721m)の三つ
のピークを持っています。でも北峰から先は崩落が激しく登山禁止
になっています。

 北峰に利尻郡利尻富士町鴛泊(おしどまり)地区にある利尻山神
社の奥社の祠があります。利尻山北ろくには鴛泊ポン山(四四四メ
ートル)、南麓に鬼脇(おにわき)ポン山(410m)、仙法志(せん
ほうし)ポン山(320m)などという一風変わった名前の小さな寄
生火山もあります。また北に直径250mの姫沼、南麓の沼浦(ぬま
うら)には直径400mのオタドマリ沼、三日月沼があり、山の風景
に趣をそえて利尻富士観望の地となっています。

 この山は古くから高くそびえた美しい姿で、航海や漁場の目印に
され、海の安全を願う人々から崇められたという。しかし姿に似合
わずこの山の気象は厳しく、天気が晴れて山の姿があらわすのは、
一年のうち100日もないということです。また利尻山に吹き込む風
は「北海の荒法師」とも呼ばれるほど烈しいという。

 ここ利尻島には長くアイヌの人たちが住んでいました。ここに初
めて和人が入ってきたのは1706年(宝永3)。能登の人、村山伝兵
衛が松前藩からソウヤ場所の漁場請負人を命じられて、住みはじめ
たのが開発の先駆けだそうです。その後1787年(天明7)8月に
はフランスの探検家、ラ・ペルーズという人が、サハリン島から南
下した時、宗谷海峡でこの山を見て、館長のラングルにちなんでラ
ングル峰と名づけたという。

 登山の古い記録としては、江戸時代後期の1789年(寛政10)、
武藤勘蔵の『蝦夷日記』のバッカイベツからソウヤへの7月7日の
見聞記があり、それによると、最上徳内(もがみとくない・江戸時
代中後期の探検家であり江戸幕府普請役)が記されていてこれが最
初らしい。江戸時代後期の1808年(文化5)になり、ロシア武装
船の来襲のときには、幕府から出兵を命じられた会津藩士が水腫病
にかかり、大勢死亡していった事件もあったといいます。

 山頂北峰にある神社の里宮、鴛泊の利尻山神社は、1824年(文
政7)に建立した神社だという。そののち、山頂に奥社の小祠をま
つりました。ついでながら祭神は、オオヤマツミノカミ、オオワタ
ツミノカミ、トヨウケヒメノカミを合祀(ごうし)しています。

 オオヤマツミは、『古事記』では大山津見(おおやまつみ)と表
記され、『伊予国風土記』逸文(いつぶん)という文書では、大山
積(おおやまつみ)と書き、大山をつかさどる山神だそうです。ま
た『日本書紀』では、大山祇(積)と表記し、イザナギ(男神)・
イザナミ(女神)の子。大山をつかさどる山神だそうです。

 またオオワタツミは、『古事記』では大綿津見神(おおわたつみ
のかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わた
つみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などと表記。海の三
神の一神で、綿(わた)は海(わた)で、津見は司ることなのだそ
うです。

 さらにトヨウケヒメは、『古事記』では豊宇気毘売神(とようけ
ひめのかみ)、『日本書紀』では豊受気媛神(とようかひめのかみ)、
豊受大神(とようけのたいじん)などと書き、イネの精霊の神格化
したもののようです。つまりこの祠には、山と海と食べ物の神さま
をまつったのでしょう。

 山頂の三角点(点の名称「利尻絶頂」)は、1912年(大正元)5
月に陸地測量部の技師井口貫一によって選点されたものという。さ
らに1871年(明治4)日本政府の招きで開拓使顧問として来日し
た、アメリカの農政家、ケプロンが書いた「ケプロン報文」(来曼
北海道記事)には「バツカイ(稚内市の地名)近傍ノ海浜通リ数英
里ノ間、殆ド円錐状ニシテ、四側平等ナル利尻山ノ美景ヲ眺望シツ
ヽ経過セリ」と利尻山を見ながら航海していたことが記されていま
す。

 利尻山の登山道を開いたのは修験者天野磯次郎という人物。1890
年(明治23)ころ、鴛泊(おしどまり)からの登山道をつくった
のが最初だという。明治後期になると、植物学者牧野富太郎も植物
採集のためこの山を訪れています。

 また「♪山は白銀、朝日を浴びて……」の詩でおなじみの『スキ
ーの歌』の作詞家、時雨音羽がこの利尻出身。彼は利尻山について
「山は世界に山ほどあれど海の銘山これひとつ」と詠んでいます。
島の沓形岬公園には彼の「ドンとドンとドンと波のり越えて一挺二
挺三挺八挺櫓で飛ばしゃ……」という『出船の港』の歌碑もありま
す。

 利尻山は、古くは利後(りいしり)山と呼ばれたという。この山
について民俗学者、吉田東伍は、「(現代文で書くと)島の中央に屹
立する休火山にして、洋名をランタンという。壮麗なる円錐形をな
して裾を四方に延ばし、遠くこれを望めば、さながら富岳のようで
ある。よって北見富士の名称がある。山ろくはおおむね樹林をもっ
て覆われ、四合目以上は全く火山質の石礫(せきれき)をもって覆
われている」というような紀行文を残しています(『日本山岳ルー
ツ大辞典』)。

 ここは高山植物でも名高いところでもあります。緯度が高いため
に本州では標高2000mあたりに生息する高山植物が、利尻島では
平地に平気な顔をして?生えています。ここの固有種のリシリヒナ
ゲシ、ボタンキンバイ、リシリオウギ、リシリトウウチソウなど、
利尻の名を冠した種も多く、南斜面に群生するチシマザクラは、1968
年(昭和43)道天然記念物に指定されました。

 また三合目、姫沼分岐近くにわき出る寒露泉は1985年(昭和60)
の「日本名水百選」(環境庁)のなかで一番北の名水になっていま
す。この名水は、サケのふ化事業にも利用されています。深田久弥
選定「日本百名山」第1番選定。岩崎元郎選定「新日本百名山」第
2番選定。田中澄江選定「花の百名山」(1981年)第12番選定。
田中澄江選定「新・花の百名山」(1995年)第11 番選定。


▼利尻岳【データ】
【所在地】
・北海道利尻郡利尻町と利尻富士町との境。JR宗谷本線稚内下
車、稚内港から船で2時間で鴛泊(おしどまり)からタクシーで利
尻北麓野営場、さらに歩いて6時間で利尻岳(利尻山)北峰。2
等三角点亡失(1718.7m・2011年10月31日)と利尻山神社奥宮
がある。そこから230mほど南の南峰に写真測量による標高点(17
21m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第1番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第2番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第12番選定
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第11 番選定

【位置】
・北峰2等三角点(亡失):北緯45度10分49.64秒、東経141度14
分28.83秒
・南峰標高点:北緯45度10分42.57秒、東経141度14分31.67


【地図】
・2万5千分1地形図名:鴛泊

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典1・北海道(上)』(角川書店)1991年(平
成3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・「週刊日本百名山32・利尻岳、羅臼岳」(朝日新聞出版)2008年
(平成20)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記3・富士とその周辺』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山名総覧』武内正著(白山書房)1999年(平成11)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室