▼【本文】
▼【大峰山とは?】
大峰山脈は、奈良県の吉野から和歌山県の熊野まで170キロ
の山々連なる大山脈。サクラで有名な吉野も大峰山(おおみねさん)
の一部です。中心は山上ヶ岳(さんじょうがたけ)で、最高峰は八
剣山(仏経ヶ岳、八経ヶ岳)。そのほか大普賢岳(だいふげんだけ)、
弥山(みせん)、稲村ヶ岳(いなむらがたけ)、大天上ヶ岳など、1
200mを超える峰々が50座も連なっています。開山は飛鳥時代
の白鳳年間(672〜686)、役行者小角(えんのぎょうじゃお
づぬ)によりなされたとされています。
大峰山中には山伏たちがお参りして歩く場所(行所)が75ヶ所
あり、七十五靡(なびき)と呼んでいます。七十五靡を巡るにも
順序があり、熊野から吉野への入峰(にゅうぶ)を「順峰」(じゅ
んぶ)、その反対を「逆峰」(ぎゃくぶ)というそうです。
七十五靡の番号も、熊野本宮が第1番で、八経ヶ岳(第51番)、
弥山(第54番)、山上ヶ岳(第67番)などを経て、吉野蔵王堂
が第73番、最後は柳の宿の第75番になっています。この山は
いまだに女人禁制が守られ、吉野金峰神社から山上ヶ岳への途中
には「女人結界門」があり、そこから先へは入れないとの看板も
建っています。
▼【吉野】
今回は逆峰になりますが、吉野から入り、主だったピークをたど
ってみます。吉野といえば金峰山(きんぷせん)蔵王堂です。蔵王
堂はすでに奈良時代には建てられていたといいます。役行者が山上
で厳しい修行の末、有名な蔵王権現が湧出しました。そこを山上
ヶ岳と名づけ、蔵王堂(山上蔵王堂・金峯山寺本堂)が建てられま
した。
それにに対して、吉野金峰山寺の山ろくの山下(さんげ)にも山
下蔵王堂を建てました。これがいまの金峰山蔵王堂なのだそうです。
役行者は、山上で感得した蔵王権現の像をサクラの木に刻んで蔵
王堂に納めました。それからというもの、サクラがご神木になり、
金峰山寺にお参りにくる人たちは、皆苗を持ってきて植えて行く
習慣ができたといいます。
それが次第に増え、いつしか吉野中がサクラの木で埋まり、毎
年春になると、吉野山が全山サクラの花が咲き乱れます。とくに
奥千本地区から、蔵王堂などある中千本、下千本方面を見下ろし
た景色は、まるで夢を見ているようです。そのサクラに惹かれ、
昔から文人墨客がたくさん訪れました。西行法師もそのひとりで、
その庵が奥千本にあります。また奥千本の吉野寄りには、金峰神
社や「義経隠れ塔」もあります。
▼【山上ヶ岳】
役行者が蔵王権現を湧出した山上にある山上ヶ岳は、奈良県天川
村(てんかわむら)にあります。山上ヶ岳は大峰山の中心なので、
単に大峰山、大峰、金峰山などともいうそうです。七十五靡(なび
き)の第67番目の行所です。頂上には大峰山寺の本堂(蔵王堂)
と寺務所、絵馬堂が建ち、一段低い台地に護持院の参籠所(宿坊)
があります。いまもつづく女人禁制の中心地で、登山口の清浄大橋、
五番関、阿弥陀ヶ森、レンゲ辻には女人結界門が建っています。
▼【行者還岳】
さらに南下すると行者還岳(ぎょうじゃがえりだけ)に着きます。
第58番目の靡(なびき)で南面は大岩峰になっています。大絶
壁は難所中の難所。役行者(えんのぎょうじゃ)でさえ登坂をあ
きらめて引き返し、東の肩をまわって南へ下ったといいます。七
十五靡(なびき)の第58番目に当たります。
▼【弥山】
行者還岳から川迫川渓谷(かわさこがわけいこく)の源流を回り
込んで弥山(みせん)に着きます。七十五靡の第54番目の霊場
です。山頂は樹林に囲まれた広場に弥山神社が鎮座していて、北
東の坪内集落の天河弁財天(てんかわべんざいてん)の奥宮にな
っています。ここも明治の「神仏分離令」で、天河神社と改称さ
せられました。祭神も弁天さまから市杵島姫命(いちきしまひめ
のみこと)などに変えられました。
しかし民衆は、お上が勝手に決めたそんなことにはおかまいな
く、いまでも日本三弁天のひとつとして崇敬しています。山頂に
は小池があって、その昔、役行者が大峰山を開山したとき出現し
た弁財天の池なのだそうです。その水は、先達(せんだつ)が汲
んでから参詣にきた信者が受ける掟になっているそうです。もし
信者が勝手に、池の霊水に手を入れたりすると、たちまち水は干
上がってしまうそうです。
▼【最高峰八経ヶ岳】
弥山から30分も南下すると、大峰山脈最高峰の八経ヶ岳(はっ
きょうがたけ)です。仏経ヶ岳とか、八剣山、八剣岳とも呼ばれて
います。標高は1914.9mで、近畿地方の最高峰。七十五靡
の第51番に数えられています。この山は、役行者が「法華経」8
巻を埋めたところといい、修験道の石碑がたくさん建っています。
江戸時代には「明星ヶ岳」の名で呼ばれ、いまのように八経ヶ岳と
いうよになったのは明治以降のことだそうです。その名残がこの山
の南方にある明星ヶ岳で、明星ヶ岳は第50番の行場として残って
います。
▼【釈迦ヶ岳】
七十五靡の第40番の行所が釈迦ヶ岳(しゃかがたけ)です。
転法輪岳(てんぽうりんだけ)とも、単に大峰とも呼ばれます。
この山はかつて、釈迦如来が説法をしたといわれる、インドの霊
鷲山(りょうじゅせん)と檀特山(だんとくさん)が、人々を救
うためにこの地に飛んできたという伝説があります。そのため釈
迦如来をまつったのでその名があるそうです。山頂には銅製の釈
迦如来像が建っています。これは強力の岡田雅行という人が運び
あげたものだそうです。釈迦ヶ岳から南へ1時間、「太古の辻」か
ら東に下ると「前鬼の里」という集落があります。
▼【女人禁制】
さて、いまだに大峰山につづいている「女人禁制」にはこんなエ
ピソードがあります。かつて、アメリカの進駐軍女性が、ここに
登ろうとしたことがありました。警察から「国際問題になるので、
女性たちの登山を止めたりしないように…」とのお達しです。し
かし、住民はそれにも耳をかさず、男性300人を召集して進駐
軍女性たちを通せんぼ。「この山は、アメリカの尼僧院と同じ場所。
尼僧院だって男性が入れば混乱するでしょう」と、相手を納得さ
せたということです。
しかし、女人禁制の大峰山も入っている『日本百名山』を完登
した女性は多い。それもそのはず、以前から登っている女性もい
るらしいのです。記録にあるだけでも、昭和4年(1929)の
山開きに女性2人が登っています。昭和5年(1930)発行の
雑誌「山岳旅行案内
昭和5年版」(野球界社発行)の「山上岳」
の記事に「往古より女人禁制の山であったが、昨夏二人の女性に
山頂を征服せられてしまった」と報じています。
また「昭和12年(1937)9月と11月の2回、女性を伴
い登山決行」という記事が、昭和26年(1951)の「山と渓
谷」148号の特集「新稿山岳辞典」(17回)にも掲載されてい
ます。
一方、牧田満政氏という人が、1956年(昭和31)に発表
した「大峰山に登った女性」という文書には、次のような関西の
山岳会主宰者からの手紙を披露しています。「今更登山の見地から
ならば、女性登山など問題じゃない…。ただし、昭和5年の女性
2人の他は、女性が入山したのは、総て開山期以外、もしくは、
行者路以外である。開山期に無理に女性が押し入ろうとすれば、
頑迷固陋(ころう)の地元民の性格を知らないで無理強いするの
は無謀であり、傷害事件に発展する可能性もある」と述べていま
す。時代が大きく変わったいま、いつまで女人禁制が守れるか興
味のあるところです。
▼【吉野・源義経隠れ塔】
金峰山神社のそばには、源義経ゆかりの隠れ堂があります。11
85年(文治元)、義経は壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼしたのち、兄
の源頼朝と対立することになります。義経は後白河院から鎌倉追討
の院宣を得ますが、大半の武士は知らんぷり。鎌倉の頼朝は逆に義
経追討の院宣を貰い義経を討ちに向かいます。義経は兵庫県の大物
(だいもつ)の浜から乗船、九州を目指します。
しかし、突然の突風で船は難破、九州行をあきらめたため、仲間
たちは逃げ去ってしまいました。その時、義経についてきたのは
武蔵坊弁慶と静御前などたった4人だったということです(『吾妻
鏡』)。その後天王寺から吉野山に、愛妾の静御前や武蔵坊弁慶らと
ともに逃れ来て、吉野へ籠りますがここでも、衆徒(僧兵)が源義
経一行の捜索に乗り出したという情報が入ります。
身の危険を感じた源義経一行は、山伏姿になって、吉野山からの
脱出を図ります。しかし大峰山は女人禁制(きんぜい)、一緒に行
くわけにはいきません。そこで静御前に相当の金銀を与えて、京に
行くように供の者たちに命じました。そして自分たちは、吉野から
さらに南東へ入っていき、大峰山(いまの奈良県吉野郡天川村付近)
に向かいました。
ところが供の者たちは金銀を奪って静を金峯山の雪の中に置き去
りにしてしまったのです。静はさまよい歩いた末、いつの間にか蔵
王堂にたどり着き助けられます。そして、金峯山寺の僧坊・吉水院
(吉水神社)で5日間かくまわれたあと、京に送られたのち、また
鎌倉の頼朝のもとへ送られ尋問を受けることになります。そして鶴
岡八幡宮の神前で、有名な静御前の舞いが行われます。
その静御前については、謡曲『吉野静』、『二人静』や浄瑠璃『義
経千本桜』になって残っています。『二人静』の物語の内容です。
ある年の正月7日、吉野の勝手明神の神職が女性に若菜を摘みに
行かせたところ、静御前の霊があらわれ、お経を書いて回向(え
こう)をしてくれるように頼みます。霊は女性に乗り移り、自分
は静御前だと名乗ります。
神職が神社宝蔵の「舞い衣装」を着せると女性は舞いだしまし
た。やがて亡霊も姿をあらわし2人になって舞いはじめました。「し
づやしづ、賤(しず)の苧環(おだまき)繰り返し、昔を今にな
すよしもがな」。春に吉野で楽しく過ごした義経との昔語りをフタ
リシズカとなって謡いあげていくというストーリーです。
また「ヒトリシズカ」、「フタリシズカ」という野草(センリョウ
科)の名前になっても残っています。江戸中期初頭みら寺島良安
『和漢三才図会』に「ヒトリシズカ:静とは源義経の寵妾。吉野
山で歌舞したという故事がある。好事家はこの花の美しさをそれに
たとえてこう名づけている」とあります。さらに「フタリシズカ:
俗称。謡歌に、静女の幽霊は二人となって同じく遊舞した、とある。
この花は二朶(だ)でともに艶美である」としています。
▼【吉野のツチノコ伝説】蜻蛉の滝
吉野の上千本、奥千本から金峰神社、その奥の金峰山といわれ
る地域の最高峰に青根ヶ峰(あおねがみね)があります。少し先
の林道を左折、音無川沿いに下っていくと蜻蛉(せいれい)の滝
があります。この滝はいまは蜻蛉の滝といっていますが古くは清
明の滝といい、奇岩・漠水が見物で松尾芭蕉も訪れたところ。む
かしはツチノコ(野槌蛇)がよく見かけたという場所です。
ツチノコは野槌蛇(のづちへび)ともいって、一時話題になっ
た奇妙な形をしたあれです。江戸時代の百科事典『和漢三才図会』
(わかんさんさいずえ)には「大きいものは直径五寸(15センチ
位)、長さ三尺(90センチ位)。……和州(やまと)の吉野山中の
菜摘川(なつみがわ)(いまの吉野町大字菜摘あたりの吉野川)、
清明の滝(いまの蜻蛉の滝)辺りで往々にこれを見かける。口は
大きくて人の脚に噛みつく。坂を走り下って大変速く人を追いか
ける。ただし、登りは極めて遅い。それで、この蛇に逢えば急い
で高い処へ登れば、追ってはこない」と出ています。
蜻蛉の滝のわきの岩上に弁天宮があり、付近の不動堂には不動
明王と役行者の像が安置してあり、いまは滝の近くまでバス道路
が通り、あたりに県民グラウンドまでできてしまうにぎやかさ。
滝のまわりを一周する遊歩道もあります。滝はさすがに文人墨客
が好んで訪れただけあって幽閉なところで、水量も多く水しぶきが
すごい。滝下を渡るにちょっと勇気が要るくらいでした。
▼【役行者伝説】
大峰山は開山者の役行者に関係した事柄があまりに多く、峰々
のいたる所に行者の石像が建っています。行者の本名は役小角(え
んのおづぬ)。修験道の開祖とされ、全国80数座の山々を開いたと
伝えられています。飛鳥時代の634年、いまの奈良県御所市茅原(ち
ばら)の吉祥草寺で生まれたとされています。役ノ公(えんのき
み)、役優婆塞(えんのうばそく)、小角仙人などとも呼ばれていま
す。
子どもの時から神童といわれ、13歳のころから、葛城山(いま
の金剛山)に入り、32歳の時、葛城山に籠もって山岳修行。つい
に思いのままに行動できる呪術(じゅじゅつ)を得たといいます。
39歳のころ蔵王権現を感得。62歳(伝記によっては64歳)の時、
ねたんだ一言主神が悪口を天子に告げ口をします。それを信じた
朝廷は役行者を捕まえて伊豆の大島に流しました。その後何年か
して奈良へ帰った行者は、母親を鉢に乗せ唐へ飛び立ったといい
ます。そんなことから『本朝神仙伝』という本には、役行者は仙
人として、37人中、5番目にあげています。江戸後期になると朝
廷から「神変大菩薩」の称号が送られ、いま山上ヶ岳大峰山寺わ
きに「神変大菩薩壹千貳百年御遠忌」の像が建っています。
▼【前鬼・後鬼伝説】小角との出会い
各地の役ノ行者の像のかたわらには必ずといっていいほど2匹の
鬼がついています。この鬼たちは前鬼(ぜんき)と後鬼(ごき)と
いうそうです。前鬼の方は赤目で斧(おの)を持ち、後鬼は黄色い
口をしていて、2匹は夫婦だとも、兄弟だともいっています。夫婦
鬼の説では、酒を飲んで酔っぱらい、目を赤くして歌を歌う夫鬼を、
黄色い口を開けた女房鬼が、笑いながらみている姿をあらわしてい
るのだとのこと。この鬼たちはもともと、大阪市と奈良県の境にあ
る生駒山(いこまやま)という山にすんでいて、山越えをして通る
旅人を襲っていた盗賊だとの説もあります。
役ノ行者が16歳の時(異説あり)、近くの信貴山(しぎさん)で
修行をしていました。すると、身の丈3mもあるような、牙を生や
した2匹の鬼が邪魔をしだします。怒った行者は、空を飛んで鬼を
追いかけ、生駒山南東の奈良県側で捕まえました(いまの生駒市鬼
取の里)。そして、南西の大阪側まで引きずっていき、髪を切って
(いまの東大阪市かみ切りの里)、妖力をなくします。いま、それ
ぞれの場所に鬼取山鶴林寺、髪切り山慈光寺というお寺もあります。
こうして折伏(しゃくぶく・悪を打ち砕き迷いを覚まさせること)
された鬼たちは、行者の忠実な従者となったということです。
▼【前鬼の里】
この2匹の鬼はその後、行者の遺言で大峰山の修行の場をまもる
ため、吉野と熊野の境に「前鬼の里」を開き、天狗となって山をま
もり続けていると伝えます。その子孫は、江戸時代までに5つの家
に分かれ、鬼熊、鬼上、鬼継、鬼助、鬼童の姓を名のり、まとめて
「五鬼」と称していたということです。いまも前鬼の里には、大峰
山で修行をする行者や登山者たちのための坊(ぼう・宿泊所)があ
ります。
▼【洞川竜泉寺の伝説】
さて山上ヶ岳から洞辻茶屋(どろつじちゃや)分岐で洞川(どろ
かわ)集落へ下りると大峰山竜泉寺というお寺があります。ここは
山上ヶ岳への入峰者は必ずこの竜泉寺で水行したという所。ここ
には寺創建に関わる伝説があります。ずっと昔の話です。村はず
れに茂助という身寄りのない若者が住んでいました。
村人茂助はある日、古池のそばで苦しむ若い女性を助け、のち
二人は結婚。やがて子供が産まれましたが、女性は自分の正体の
白蛇姿を見られてしまい、赤子に片目を残し池に帰っていきまし
た。赤子は母親の目玉をなめながら育ちましたが、やがて目玉も
小さくなりなくなってしまいました。茂助は泣く赤ん坊をあやし、
さまよい歩きました。すると、池の水がざわめき、片目の母親の
白蛇が姿をあらわしました。
「残っているもうひとつの目玉をなめさせて下さい。でもこれ
からは昼夜が分からなくなってしまうので、朝3つ、夜6つの鐘
を鳴らして下さい」。母親は池の底に姿をかくしました。茂助は感
動し、妻への仏の加護を願うため竜泉寺のお寺を建立したといい
ます。境内にある竜王堂の鐘楼からは、いまも朝は3つ、夜は6
つの鐘の音が、大峰山ろくに響いています。
▼【七たび生まれ変わった伝説】八経ヶ岳
大峰山脈最高峰の八経ヶ岳は「八剣山」ともいいます。ここに
は役行者が亡くなってまた生まれ変わったことを示す、前世の遺骨
が残っているといいます。室町時代以降の成立といわれる『役行者
本記』という本の「第三 小角の奇特の部
その一」に次のようなこ
とが載っています。天智6年(667)の4月、役行者小角が34歳の
時、はじめてここ大峰山に登り、剣の峰(八剣山、八経ヶ岳)まで
行きました。
そこに一体の骸骨が横たわっていました。それは左手に独鈷杵(と
っこしょ)を持ち、右手には利剣(りけん・邪悪なものを打ち破る
剣)を持って、上を向いて横たわっています。小角がそれを取ろう
と力を入れると、山がゆれ動きましたが持ちものはとれません。行
者は修行の力が足らないのかと、天に祈りさらに苦しい修行をつづ
けました。疲れ果て気絶していると、「小角よ。汝はこの峰におい
て一生を終わること7度である。ここにあるのはその第3生の遺骸
である。まだこの峰にはほかに2生の遺骸がある。千手の呪(千手
観音の陀羅尼呪)を5度と、化呪という呪文を3度唱えてから独鈷
杵(とっこしょ)と宝剣を取ってみよ」との声が聞こえました。
小角が呪文を唱えると、骸骨は手を開いて持ち物を小角に渡しま
した。小角はこれを大事にして一生身から離さなかったといいます。
それから西向野(小笹)に行くと、別の骸骨がありました。それは
第6生の遺骸でした。また釈迦ヶ岳にも一体の遺骸があり、それは
第5生のものでした。
第1生は、遠く允恭天皇(いんぎょうてんのう・412〜453)の
時代から、第7世である現在の天智6年(667)に生まれ変わって、
ついに経歴の功が果たされたのだということです。これと同じよう
なことは鎌倉時代の本や、江戸中期のものにも記載されています。
修行を完成するには7世もの期間かかるんですね。
▼【参考文献】
・「あしなか3・第53輯」(山村民俗の会発行)1956年(昭和31)
・『吾妻鏡』:岩波文庫『吾妻鏡』(1)龍(りょう)粛(すすむ)
訳注(岩波書店)1997年(平成9)
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平成6)
・『義経記』(日本古典文学大系37)岡見政雄校注(岩波書店)1959
年(昭和34)
・『山岳宗教史研究叢書18』(修験道史料集2)五来重(ごらいし
げる)編(名著出版)1984年(昭和59)
・『修験道の本」(学研)1993年(平成5)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本伝奇伝説大事典』乾克己ほか編(角川書店)1990年(平成
2)
・『日本歴史地名大系30・奈良県の地名』(平凡社)1981年(昭和56)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新社)2004年
(平成16)
・『吉野・大峰の古道を歩く」山と渓谷社
・『和漢三才図会』巻第九十四の末(吉野静、二人静)寺島良安:
東洋文庫「和漢三才図会17」訳注・島田勇雄ほか(平凡社)1991
年(平成3)
……………………………………………………………………………
山旅通信【ひとり画ッ展】題名一覧へ【戻る】
……………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」HPトップページへ【戻る】
|