山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1190号(百伝90)大台ヶ原山「二人の怪女と熊笹を背負った大猪」

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▼【本文】

★【大台ヶ原】
 大台ヶ原山は奈良県と三重県境にある高原状山地。大台ヶ原は
最高峰の日出ヶ岳を中心に三津河落山(みつかわおちやま)、経ヶ
峰などがある「西大台」と、大蛇ー(だいじゃぐら)、蒸籠ー(せ
いろぐら)、千石ー(せんごくぐら)などがある「東大台」に分か
れています。とくに「東大台」の南斜面にある大蛇ーは、標高差
1000mの東ノ川の谷底まで落ち込む大絶壁です。

 ここは昔から妖怪のすむ山として地元の人々から恐れられた地
域だという。このあたりは年間雨量5000ミリを超す、わが国
有数の多雨地帯。1923年(大正12)9月には24時間で1
011ミリを記録、この特有の局地豪雨を「背降り」と呼んでい
るそうです。明治初年ごろ、この広大な高原を開拓しようと工事
に着手しましたが失敗、いまでは「開拓」という地名で残ってい
るということです。

★【山名】
 大台ヶ原は、大台ヶ原山ともいい、古くは大平(おおだいら)
とも大平原とも呼ばれ、その他大臺原山・大臺山・大平山・三國
山・巴嶽・三津河落山(みつかわおちやま)・日の出岳・秀ヶ岳の
名もあります。山名の大台ヶ原山は、これらの広大な台地に由
来するとのことです。

★【山頂】
 山頂の展望台からは、尾鷲湾や熊野灘、西には大峰山の八経ヶ
岳などの連山が、また北西には台高山系の山々が展望できます。

★【松浦武三郎碑】
 山頂には幕末の本草学者で探検家の松浦武三郎の碑が建っていま
す。京都で山本亡羊(ぼうよう)に本草額を学び、諸国を巡って探
検を志していました。当時蝦夷(えみし)といっていたのを北海道
と名づけた人だそうです。明治18(1885)年に大台ヶ原に登
りましたが、その記録には「多年登山を心がけしが案内の者を得ず、
空しく過ごした」とあります。このように村人はこの山に恐れを抱
いて、誰も入らなかったようです。

★【伝説】
 そもそも大台ヶ原は、似たような台地や原が次々とつづき、迷い
やすい山です。「魔の山」とか、「迷いの山」といわれ、魔物がすむ
と思われていたようです。

 その迷いやすさは、『日本書紀』や『古事記』などの伝説にある、
神武天皇の一隊が熊野から大和に行く途中、道に迷い八咫烏(やた
がらす)に案内されたとされるほどのもの。これにちなんだものか、
神武天皇の像が牛石ヶ原の一角に建てられています。

★【一本だたら伝説】
 大台ヶ原の北西に伯母ヶ峰(おばがみね)というピークがあり、
その西方に伯母峰峠があり国道169号線が通っています。昔、
射馬兵庫(射場兵庫とも)という武士が、峠の南、天ヶ瀬(北山
村西原、いまバス停がある)に住んでいました。兵庫は毎日勇敢
な斑犬(ぶちけん)を連れて山狩りをしていました。

 ある日、伯母ヶ峰の奥に入った時、急に犬が吠え出しました。
見ると谷間のクマザサが揺れており、やがてクマザサの薮が動き
だし、谷を渡ってかけ出したのです。見るとそれは背中にクマザ
サを生やしたイノシシでした。兵庫はすかさずねらいを定めて打
ち込みました。イノシシはそれでもひるまず、牙をむいて荒れ狂
い向かってきましたが、二発、三発とつづけ打ちされ、ついに精根
つきて倒れました。

 それから数日後、紀州の「湯の峰」の温泉に足を痛めたひとり
の野武士が湯治にやってきました。そして宿の亭主に「静かな離
れを貸してくれ。わしの寝ている時はだれも来てはならんゾ。ま
た決して部屋を覗くのではないぞ」といって部屋に入りました。
亭主がその客の草鞋(わらじ)を見ると、それは藤づるで作って
あるばかりか、その形がとても人間のものではありません。その
上、草鞋のひもが一本ずつ建物の柱の元を持ち上げて、固く縛って
あります。

 あまりの不思議さにこっそり覗いてみると、背中にクマザサを生
やした怪物が、部屋いっぱいに窮屈そうに寝ているではありません
か。亭主はビックリ仰天大騒ぎ。それに気がついた武士は「見られ
たのでは仕方ない。わしは北山の天ヶ瀬奧の伯母ヶ峰にすんでい
たものだが、この間、天ヶ瀬の射馬兵庫(射場兵庫とも)という
ものに撃たれて、最期をとげた猪笹王(いのざさおう)の亡霊で
ある。誠に無念であるが、敵を討とうにも、あの鉄砲と斑(ぶち)
の犬が邪魔で仕方がない。なんとしてそれらを手に入れたいが、
世話をしてはくれまいか」といいます。

 そんなことをいっても射場馬(場)兵庫が受け入れるはずはあ
りません。その後、猪笹王の亡霊は、一本足の鬼と化して、伯母
ヶ峰にあらわれ、ふもとを通る旅人を襲い、生き血を吸いはじめ
ました。そのため、街道は人が通らなくなり、廃道同様になって
しまいました。その後、高僧の丹誠(たんせい)上人が伯母ヶ峰
の地蔵尊を勧請してこの鬼神を封じ、いまの経塚堂に経文を埋め
たおかげで、再び旅人が通れる街道にしたということです。

 ただし、毎年12月20日だけは、一本足の鬼の自由に任すこ
とになっているそうです。そのため、いまも「果ての二十日」だ
けは伯母ヶ峰の厄日とされて、この峠を超すことは警戒されてい
るそうです。いまも天ヶ瀬地区には射場(馬)氏の家宝横溝の鉄
砲を納めた小さな祠があるとのことです。

★【ふたりの怪女伝説】
 また大蛇ー(だいじゃぐら)には大蛇が鬼女に化ける話もあり
ます。海辺の漁師の六兵衛は村長に頼まれて、漁師のロープの材
料の「シナノキの皮」ををとるために、大台ヶ原へ登っていまし
た。この日も大蛇ーのあたりに速成の小屋を造って、「シナノキ」
を探しに行きました。意外に多く穫れて気をよくした六兵衛は夜
もシナノキの皮をむくために夜なべをしていました。

 なにかの気配にふと六兵衛が顔を上げると、いつの間に来たのか
すぐ目の前に、40歳くらいの大柄な女が立っていて六兵衛をじ
っと見下ろしていました。そしてご飯をくれといいます。女はま
たたく間にそれを食べるとこんどは「お酒をおくれ」といいます。
女がぐいぐいと酒を飲んでいると、後からもう一人大柄な女があ
らわれて、最初の女を鋭い目で睨みあいをはじめました。

 そして小屋の外に出るように目配せして二人は出ていきました。
二人が出て行くなり、天地が鳴動するような大音響が、真っ暗な
山にとどろきました。その衝撃に六兵衛は、いっとき気を失いま
した。六兵衛が気がついた時、大きな体をした白いひげを生やし
た老人が、焚き火の前に座っていました。そのそばにあとから来
た女の人が、さっきとはうって変わった優しい顔つきで立ってい
ました。

 老人は「もう心配はいらん。わしは大台ヶ原山の山の神である。
先の女は大蛇の化身じゃ。奴の力が強くお前を助けてやれなかっ
たが、この弥山大神(みせんたいじん)の助けを借りて、危なか
ったお前の命を助けることができた。安心して仕事を続けるがよ
い」。六兵衛がわれに返ると、二神の姿はパッとかき消えていまし
た。こんな出来事があってから、六兵衛ははじめてものを恐がる
ことを覚え、それからはひとりで山に入ることはしなくなったと
いうことです。

★【義経の笹馬伝説】
 さらには足を折って、源義経に乗り捨てられた愛馬の「笹馬」が
妖変して背中に笹を生やし、正木ヶ原を駆けまわっていたという話
もあります。文治元年(1185)壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼして
からのち、義経は兄の源頼朝と対立。その後天王寺から逃れてきて
吉野山に籠もります。ところが、吉野にも源頼朝方の軍が攻め寄せ
ます。

 そこで、源義経は、吉野からさらに南東へ入っていき、大峰山(い
まの奈良県吉野郡天川村付近)に逃れようとします。その途中、大
台ヶ原を通りましたが、同行していた名馬が足を折り、山道を進む
のが難しいということになり、やむを得ずその馬を捨てました。こ
の馬はその後、捨てられた恨みから「笹馬」と呼ばれる怪物に変わ
ったといわれています。

★【義経伝説】
 また大台ヶ原尾鷲辻からほど近い正木ヶ原の片腹鯛池(かたはら
たいいけ)にはこんな伝説があります。源義経が吉野から逃れる際、
一行が山頂の正木ヶ原にさしかかった時、持っていた塩干しの鯛を
出して食べはじめました。塩干しの半身を食べ、残りの半身で旅先
の無事を占うことにしました。

 そして「汝もし生あらば印を見せよ」と唱え、片身の鯛を地面に
落とすと、鯛の形の池ができ、干鯛は池の底に没していったという
ことです。この話にはほかに「池に半身を入れたら生き返った」な
どという説もあるそうです。この池は実際にこの場所にあるという
ことですが、私はまだ確認していません。

★【神器伝説】
 また、南北朝時代、南朝の後亀山天皇の玄孫(やしゃご)は、南
北朝の紛争後に奈良県吉野郡上北山村小橡(ことち)に潜伏してい
ましたが、殺害され神器(じんぎ)と首を奪われたという話も残っ
ています。里人はこれを奪い返して、村の神社の修めたといいます。
それ以来村では、毎年神社での祭礼を行っているそうです。

★【牛石伝説】
 そのほかに僧の丹誠(たんせい)上人が、妖怪変化を退治した伝
説もあります。江戸時代初期に伯母ヶ岳にルートを開いた天台宗の
お坊さんが法力によって大台ヶ原にいるたくさんの妖怪変化を岩の
下に封じ込めました。すると不思議なことに岩が牛の形なっていき
ました。それが牛石ヶ原にお横たわる巨石の「牛石」だということ
です。一説にはその上人は空海であったともいわれているそうです
よ。


▼日出ヶ岳【データ】
★【所在地】
・奈良県上北山村と三重県大台町(旧三重県多気郡宮川村)との
境。近鉄吉野線大和上市駅の南東30キロ。近鉄吉野線大和上市
駅からバス・大台ヶ原から歩いて牛石ヶ原経由3時間で日出ヶ岳
(標高1695.06m)三角点がある。

★【地図】
・2万5千分の1地形図「大台ヶ原山(伊勢)」


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典24・三重県』伊藤達雄ほか編(角川書店)
1983年(昭和58)
・『角川日本地名大辞典29・奈良県』永島福太郎ほか編(角川書
店)1990年(平成2)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・西宮一民(新
潮社版)2005年(平成17)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平
成17)
・『天狗と天皇』大和岩雄(白水社)1997年(平成9)
・『登大台山記』:(「和州吉野郡群山記」幕末の紀州藩士、畔田翠山
(源伴存)著(御勢久右衛門 編著・東海大学出版会・1998年)
に収録
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成
9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・岩波文庫『日本書紀(一)』校注・坂本太郎ほか(岩波書店)1
995年(平成7)
・『日本伝説大系9』保仙純鋼ほか(みずうみ書房)1984年(昭
和59)
・『奈良の伝説』(日本の伝説・13)岩井宏実ほか(角川書店)
1976年(昭和51)
・『日本歴史地名大系30・奈良県の地名』(平凡社)1981年
(昭和56)
・『柳田國男全集6』柳田國男(ちくま文庫/筑摩書房)1989
年(昭和64・平成1)

(深田久弥著)の一番目に書かれている山。利尻郡利尻町と利尻
富士町との境にあります。日本最北の山で、利尻岳とも書かれ、
島そのものがひとつの山になっています。美しい姿から利尻富士
とも呼ばれています。

 ここには不思議なことに熊やマムシなどのヘビ類がいないとい
う。深田久弥は『日本百名山』の中で、かつて利尻島南東方向対
岸の北海道天塩(てしお)町で山火事があった時、火事現場から逃
れてきたのか熊が泳いで渡ってきて、すみついたことがあったとい
う。しかし、いつの間にかいなくなっていた。たぶんまた古巣へ泳
ぎ帰ったのだろう、というようなことを書いています。

 山名はアイヌ語の「リ・シリ」の音訳「高い島山」という意味
で、となりの低い島山「礼文」に対するもの。この山は、島の中央
に山頂を突き上げ、北峰(1719m)、本峰、南峰(1721m)の三つ
のピークを持っています。でも北峰から先は崩落が激しく登山禁止
になっています。

 北峰に利尻郡利尻富士町鴛泊(おしどまり)地区にある利尻山神
社の奥社の祠があります。利尻山北ろくには鴛泊ポン山(四四四メ
ートル)、南麓に鬼脇(おにわき)ポン山(410m)、仙法志(せん
ほうし)ポン山(320m)などという一風変わった名前の小さな寄
生火山もあります。また北に直径250mの姫沼、南麓の沼浦(ぬま
うら)には直径400mのオタドマリ沼、三日月沼があり、山の風景
に趣をそえて利尻富士観望の地となっています。

 この山は古くから高くそびえた美しい姿で、航海や漁場の目印に
され、海の安全を願う人々から崇められたという。しかし姿に似合
わずこの山の気象は厳しく、天気が晴れて山の姿があらわすのは、
一年のうち100日もないということです。また利尻山に吹き込む風
は「北海の荒法師」とも呼ばれるほど烈しいという。

 ここ利尻島には長くアイヌの人たちが住んでいました。ここに初
めて和人が入ってきたのは1706年(宝永3)。能登の人、村山伝兵
衛が松前藩からソウヤ場所の漁場請負人を命じられて、住みはじめ
たのが開発の先駆けだそうです。その後1787年(天明7)8月に
はフランスの探検家、ラ・ペルーズという人が、サハリン島から南
下した時、宗谷海峡でこの山を見て、館長のラングルにちなんでラ
ングル峰と名づけたという。

 登山の古い記録としては、江戸時代後期の1789年(寛政10)、
武藤勘蔵の『蝦夷日記』のバッカイベツからソウヤへの7月7日の
見聞記があり、それによると、最上徳内(もがみとくない・江戸時
代中後期の探検家であり江戸幕府普請役)が記されていてこれが最
初らしい。江戸時代後期の1808年(文化5)になり、ロシア武装
船の来襲のときには、幕府から出兵を命じられた会津藩士が水腫病
にかかり、大勢死亡していった事件もあったといいます。

 山頂北峰にある神社の里宮、鴛泊の利尻山神社は、1824年(文
政7)に建立した神社だという。そののち、山頂に奥社の小祠をま
つりました。ついでながら祭神は、オオヤマツミノカミ、オオワタ
ツミノカミ、トヨウケヒメノカミを合祀(ごうし)しています。

 オオヤマツミは、『古事記』では大山津見(おおやまつみ)と表
記され、『伊予国風土記』逸文(いつぶん)という文書では、大山
積(おおやまつみ)と書き、大山をつかさどる山神だそうです。ま
た『日本書紀』では、大山祇(積)と表記し、イザナギ(男神)・
イザナミ(女神)の子。大山をつかさどる山神だそうです。

 またオオワタツミは、『古事記』では大綿津見神(おおわたつみ
のかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わた
つみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などと表記。海の三
神の一神で、綿(わた)は海(わた)で、津見は司ることなのだそ
うです。

 さらにトヨウケヒメは、『古事記』では豊宇気毘売神(とようけ
ひめのかみ)、『日本書紀』では豊受気媛神(とようかひめのかみ)、
豊受大神(とようけのたいじん)などと書き、イネの精霊の神格化
したもののようです。つまりこの祠には、山と海と食べ物の神さま
をまつったのでしょう。

 山頂の三角点(点の名称「利尻絶頂」)は、1912年(大正元)5
月に陸地測量部の技師井口貫一によって選点されたものという。さ
らに1871年(明治4)日本政府の招きで開拓使顧問として来日し
た、アメリカの農政家、ケプロンが書いた「ケプロン報文」(来曼
北海道記事)には「バツカイ(稚内市の地名)近傍ノ海浜通リ数英
里ノ間、殆ド円錐状ニシテ、四側平等ナル利尻山ノ美景ヲ眺望シツ
ヽ経過セリ」と利尻山を見ながら航海していたことが記されていま
す。

 利尻山の登山道を開いたのは修験者天野磯次郎という人物。1890
年(明治23)ころ、鴛泊(おしどまり)からの登山道をつくった
のが最初だという。明治後期になると、植物学者牧野富太郎も植物
採集のためこの山を訪れています。

 また「♪山は白銀、朝日を浴びて……」の詩でおなじみの『スキ
ーの歌』の作詞家、時雨音羽がこの利尻出身。彼は利尻山について
「山は世界に山ほどあれど海の銘山これひとつ」と詠んでいます。
島の沓形岬公園には彼の「ドンとドンとドンと波のり越えて一挺二
挺三挺八挺櫓で飛ばしゃ……」という『出船の港』の歌碑もありま
す。

 利尻山は、古くは利後(りいしり)山と呼ばれたという。この山
について民俗学者、吉田東伍は、「(現代文で書くと)島の中央に屹
立する休火山にして、洋名をランタンという。壮麗なる円錐形をな
して裾を四方に延ばし、遠くこれを望めば、さながら富岳のようで
ある。よって北見富士の名称がある。山ろくはおおむね樹林をもっ
て覆われ、四合目以上は全く火山質の石礫(せきれき)をもって覆
われている」というような紀行文を残しています(『日本山岳ルー
ツ大辞典』)。

 ここは高山植物でも名高いところでもあります。緯度が高いため
に本州では標高2000mあたりに生息する高山植物が、利尻島では
平地に平気な顔をして?生えています。ここの固有種のリシリヒナ
ゲシ、ボタンキンバイ、リシリオウギ、リシリトウウチソウなど、
利尻の名を冠した種も多く、南斜面に群生するチシマザクラは、1968
年(昭和43)道天然記念物に指定されました。

 また三合目、姫沼分岐近くにわき出る寒露泉は1985年(昭和60)
の「日本名水百選」(環境庁)のなかで一番北の名水になっていま
す。この名水は、サケのふ化事業にも利用されています。深田久弥
選定「日本百名山」第1番選定。岩崎元郎選定「新日本百名山」第
2番選定。田中澄江選定「花の百名山」(1981年)第12番選定。
田中澄江選定「新・花の百名山」(1995年)第11 番選定。


▼利尻岳【データ】
【所在地】
・北海道利尻郡利尻町と利尻富士町との境。JR宗谷本線稚内下
車、稚内港から船で2時間で鴛泊(おしどまり)からタクシーで利
尻北麓野営場、さらに歩いて6時間で利尻岳(利尻山)北峰。2
等三角点亡失(1718.7m・2011年10月31日)と利尻山神社奥宮
がある。そこから230mほど南の南峰に写真測量による標高点(17
21m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第1番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第2番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第12番選定
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第11 番選定

【位置】
・北峰2等三角点(亡失):北緯45度10分49.64秒、東経141度14
分28.83秒
・南峰標高点:北緯45度10分42.57秒、東経141度14分31.67


【地図】
・2万5千分1地形図名:鴛泊

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典1・北海道(上)』(角川書店)1991年(平
成3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・「週刊日本百名山32・利尻岳、羅臼岳」(朝日新聞出版)2008年
(平成20)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記3・富士とその周辺』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山名総覧』武内正著(白山書房)1999年(平成11)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)
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