▼【本文】
▼【荒島岳とは】
福井県大野市の東にそびえる荒島岳(1524m)は、大野郡和泉
村との境にある山。大荒島岳と小荒島岳からなり、大野盆地の南東
部にある加越山地の山です。
山頂からは、白山連峰や乗鞍岳、木曽御嶽などなどが展望できま
す。頂上近くはダケカンバ林やハクサンフウロなど亜高山性のお花
畑もあります。
▼【歴史】
昔から山岳信仰の山として、平安初期の官人の業務マニュアル
である「延喜式」にも、阿羅志摩我多気(あらしまがたけ)と出
てくるそうです。いまも西麓の大野市佐開(さびらき)地区には
「荒島神社」が鎮座しています。この山は白山と同じ泰澄上人の
開山とのことです。
山頂には荒島神社奥宮の小祠がまつられ、ほかに一等三角点、建
設省無線中継所の建物やマイクロウエーブの反射板が建っていま
す。
▼【荒島神社】
荒島岳の神をまつる「荒島神社」は、いまは大野市佐開(さびら
き)地区にあります。この神社はもとは山頂にありましたが、明治
のはじめ、いまの鎮座地に移転したといいます。
神仏分離令に関係あるか分かりませんが、「明治元年(1868)八
月村人相謀リテ荒島岳ノ頂ヨリ今ノ地ニ遷宮」と、「越前国神社明
細帳」(明治12年(1879)ごろ)にあります。もとのものは奥社と
なり、その跡には大きな杉の切り株が残っています。ここは昔は鬼
がすむと里人に恐れられたそうです。
▼【荒島大権現】
神仏分離以前の荒島大権現は、本地(本来の仏)は聖観音菩薩で、
垂迹(すいじゃく・仏の代わりに仮にあらわれる神)は物部連(も
のべのうらじ)公だとしています。
▼【荒島岳の山名】
荒島岳の山名は、荒島神社の名からつけられたという説と、荒島
谷川の奥にあるためという説、荒島という集落名に由来するという
説。はたまた、荒は新(あらた)で、島はうちの「シマ」のように
同族の一区画。新しく開拓された身内だけの集落名だという説があ
ります。
この山は「荒島山」とか、大野市森目付近からみると富士山にそ
っくりな形のため「大野富士」ともいいます。また日本海を航海す
る船からも見ることができ、三国湊に入港する目印になったので「越
の黒山」とも呼ばれました。
▼【荒島岳の雪形】
さて、この山にも雪形が出るそうです。雪形は残雪が溶ける途中
で、いろいろな形に見えるもの。ここの雪形は「Y字形」をして
いて、地元の人は「鹿の角」と呼んだといいます。ふもとの人は
それを見て季節を知り、村を流れる九頭竜川のアユ捕りをはじめ
たということです。
また春、荒島岳から吹き下ろす乾燥した南東の風は、相当強い
風らしく、大火をもたらす「荒島おろし」と恐れられました。さ
らに、初夏に吹く風はウンカを運び、稲に被害をもたらすとされ
るというから厄介です。
▼【荒島権現ご神体伝説】
荒島岳のまつられる荒島権現のご神体は首だけなのだそうです。
それにはこんな理由があります。大昔山崩れ(雪崩とも)が起きて、
荒島権現のご神体が流されてしまいました。あわてた氏子たちが村
総出で探しました。
一年後やっと首だけが土砂の中から見つかりました。もとあった
胴体は、そばの真名川を堂本地区まで流れてしまいました。そのた
め「胴元」から「堂本」の地区名になったということです。
▼【仙人伝説・1】
この山には、餐霧(さんむ)という仙人が住んでいたといいま
す。江戸中期の『帰雁記』という本に、「これは常陸房(ひたちぼ
う)が事なり」とあり、義経の家来常陸坊(房)海尊(かいそん)
だとしています。
海尊は常陸の国(茨城県)の鹿島神宮の別当(寺務を治める)
寺で修行し、のち、滋賀県三井寺(園城寺)に移ったといわれる僧
で、武蔵坊弁慶などとともに源義経の家来として活躍した人物。
ともに「源平合戦」で平家と戦い、奥州落ちも一緒に行動しまし
た。文治5(1189)年、義経が「衣川の戦い」で敗死した日は、海
尊はたまたま同僚と、付近の寺参りに行っていて留守でした。
寺参りから帰ってきて、義経が死んだと知った海尊たちは、その
まま行方をくらましてしまったと『義経記』(室町初期の軍記物語)
巻第八・「衣河合戦の記」に出ています。
その後、江戸時代初頭になって海尊が姿をあらわしたといいます。
「わしは不老不死だ」といい、大昔の「源平合戦」の模様を当事者
のようにまわりの人によく話していたといます。
この不思議な老人に、世間では常陸坊海尊は仙人になって現れた
のに違いないと大評判。この仙人は、フラフラとあちこちに出没し
ていたらしく、江戸川柳にも「ひたち坊風来ものの元祖なり」など
と詠まれているほどだったそうです。
▼【仙人伝説・2】
もうひとつの仙人伝説です。木落村の大畠清左衛門という人があ
る日、荒島岳に山芋掘りに登り、ひょっこり仙人に出会いました。
するとどういうわけか突然、金縛りのように動けなくなりました。
それからというもの「持っていた唐鎌がさびて折れ落ちるような」
長い時間が経ったころになって、やっと動けるようになり、何とか
家に帰りました。
しかし村は何代かの時間が過ぎていて、すでに誰一人知る者はい
なくなっていました。その後、清左衛門は光明寺に移り住みました
が、ますます元気で、ナント!40人もの嫁さんを迎えたというこ
とです。
▼【麻那姫伝説】
こちらは荒島岳の西ろくを流れる真名川の上流にある「麻那姫湖」
の伝説です。大昔、「十文字」という名の情けの深い長者がいまし
た。長者夫婦はこどもがいませんでしたが、一心不乱に神に祈った
おかげか、かわいい女の子が授かりました。名前を麻那姫と名づけ
て大切に育てました。
ある年のこと、大干ばつがやってきて稲作がひどい被害を受け、
村人は飢えに苦しみました。長者は村人に米や食糧を分け与え、雨
が降るようにと川のふちに立ち、毎日神に祈りました。ある夜長者
の枕元に女神があらわれ、「これは竜神が怒っているせいです。娘
の麻那姫を捧げれば、竜神の怒りがおさまり雨が降るでしょう」と
のご託宣。
一人娘を犠牲にはできないと悩んでいる長者を見て麻那姫は、「私
は人々の不幸を救うために神から命を授かった身なのです。命を竜
神にささげることで農民が救われるなら喜んで……」といい、自ら
川に突き出た岩から竜神のすむ川に身を沈めたのでした。
すると一転にわかにかき曇り、雨が降りはじめました。作物はみ
るみる息をふきかえし、川は下流の田をうるおしました。村人たち
は大喜びし、身をぎせいにした姫を慕って、岩のそばに松を植え、
姫の霊をとむらいました。
のちに姫をたたえてお堂を建てて、姫と長者の供養をしたという
ことです。そして川を真名川と呼ぶようになりました。いま湖畔に
はこの麻那姫をしのんで銅像が建てられているそうです。
▼【九頭竜川】
荒島岳の東ろくを九頭竜川が流れ景勝地九頭竜峡をつくっていま
す。この九頭竜峡は荒島岳の爆発で、流れている九頭竜川を東に追
いやってできた峡谷とか。見かけによらず荒々し山ですね。
この九頭竜川の名前の由来にも諸説があります。(1:寛平(か
んぴょう)元年(889・平安前期)に、平泉寺(福井県勝山市平泉
寺町)の坊さんの前に、権現さまが姿をあらわしました。僧は「尊
像を此(の)流水にうかめ奉る」と、一身九頭の竜出てきてこれを
頂き、黒竜の明神の向こう岸に留まったといいます。そこでこの川
を九頭竜川といったといいます(『帰雁記』江戸中期の書物)。
(2:泰澄大師が白山に登り開山し、白山の神に本地(神の姿に
なっている本来の仏)を祈った時、九頭の竜があらわれてこの川に
降臨したために九頭竜川の名がついたとの説(白山の縁起)。ただ
これは記述している内容に疑問があるという参考書もあります(『越
前名勝志』)。
(3:もうひとつは、この川は久津利宇川(クヅリウカワ)、と
書き、古来流れが定まらない暴れ川。このためついた名が崩川(く
ずれがわ)。その音が転じて「九頭竜川」になり、字面の印象から
いろいろな伝説が生まれたのだとしています。
▼【九頭竜黄金流出伝説】
九頭竜川にはこんな伝説もあります。昔、荒島岳の山中に九つの
頭をもった竜がすみつきました。そしてふもとを通る旅人や通行人
を捕まえては食べたり、田畑を荒らすので里人は困り果てていまし
た。
これを見た荒島岳の神さまが怒って、「お前はこの山にすんでは
ならん。山のふもとを流れる川に降れ。そのかわり一年に3匁(も
んめ・一匁は3.75グラム)の金を川に流してやる」。竜はふもとの
川に移りすみました。それからというもの、この川にすむアユには
黄金色の紋模様が出るようになったということです。
▼【真名峡の銭亀伝説】
昔、平沢地区にお爺さんとお婆さんが住んでいました。お爺さん
は欲が深くなまけ者で、たきぎ一本も取りにも行きませんでした。
そして毎日、「うまい金儲けの口がありますように」と、神さまに
お願いしていました。
ある夜、お爺さんの枕元に白いひげの神さまがあらわれ、「この
山の頂上に大きなツバキの木があるのでそこを掘れ。このことは誰
にもいわないように」とのお告げがありました。お爺さんは大喜び
で山に登り、毎日ツバキの根もとを掘りました。
ふだん何もしないグータラ爺さんが、毎日せっせと山へ行くのを
見てお婆さんは不思議に思いました。そこでこっそりあとをつけて
いくと、お爺さんは夢中で大きなツバキの木の根元を掘っています。
するとカチッと何か当たりました。
みるとキラキラと光る銭の入った大きなかめが出てきました。そ
れを見てお婆さんは「お爺さん!、お爺さん!」と大声で叫びなが
ら駆けよってきました。すると銭の入ったかめは、ガラガラッと音
をたてて崖を転げ落ちていきました。その落ちたところがいまでい
う真名峡の「ぜにがめ」(銭亀)というところだそうです。
▼荒島岳【データ】
★【所在地】
・福井県大野市(旧大野郡大野町)と福井県大野市(旧大野郡和泉
村)との境。JR越美北線(九頭竜線)越前大野駅の南東11キロ。
JR越美北線(九頭竜線)勝原駅から歩いて4時間で荒島岳。一等
三角点(1523.5m)と、祠がある。
★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」から検索)
・三角点:北緯35度56分03.49秒、東経136度36分04.5秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「荒島岳(岐阜)」
★【山行】
・某年9月1日(水・晴れ)
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典18・福井県』河原純之ほか編(角川書店)
1989年(平成1)
・『帰雁記』(きがんき)松波伝蔵著(正徳2・1712年)、松波伝蔵
・『山岳宗教史研究叢書01・山岳宗教の成立と展開』和歌森太郎編
(名著出版)1975年(昭和50)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成4)
・『日本の民話12』(加賀・能登・若狭・越前編)清酒時男ほか(未
来社)1974年(昭和49)
・『日本歴史地名大系18・福井県の地名』(平凡社)1981年(昭和56)
・『柳田國男全集25』柳田國男(ちくま文庫)1990年(平成2)
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