山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1186号(百伝86)光岳「落ちない天狗石と海野兄弟伝説」

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【本文】

▼【光岳】
 南アルプスの光岳は「光」と書いて「てかり」と読む光岳(てか
りだけ)。この山は静岡県と長野県の境にあり、山頂には三等三角
点(2591.1m)が建っています。ここは一般的な登山対象の山と
しては、南アルプスの最南端の山とされています。

 東ろくは静岡県静岡市葵(あおい)区、南ろくは同県川根本町、
西ろくは長野県飯田市。天竜川の支流の遠山川の易老沢(いろう)
や、大井川の支流の寸又(すまた)川の源流にあたります。

▼【山名】
 別称を三隅岳といい、近世までは信濃・駿河・三河の三国境だっ
たそうです。「てかり岳」とは妙な名前ですが、三角点の西南にあ
る乳白色の大きなふたつの石灰岩からきているといいます。その岩
は大きな石灰岩がレンズ状に入った巨岩で、遠州側に向かって白い
ザラザラな岩峰が断崖になっています。

 それが夕日を受けると、「テカッ」と白く光ります。山ろくや池
口岳山頂などから見るとよく目立ち、猟師たちはその岩を光岩と
呼んでいたそうです。その後、陸地測量部の測量官が測量に登った
時、この山を「光岳」と命名したといいます。

▼【山頂】
 山頂は東西に細長く、三角点がある地点はシラビソやトウヒなど
の樹林の中で見晴らしがありません。

▼【歴史・登山史】
 この山への登山記録としては、明治45(1912)年、中村清太郎
が光岳に登頂、北へ赤石岳まで縦走したのが最初の記録だそうです。

▼【ハイマツ】
 テカリ岩の周辺は、チョウノスケソウの群落や、南アルプス固有
種とされるミヤマムラサキの群落でお花畑になっています。これら
の高山植物は両方ともここが南限地だそうですから貴重です。光岳
はハイマツ群落の南限地でもあるそうです。山頂から南斜面にかけ
て広がるハイマツの群落の中には、人間の背丈より高く伸びたもの
も多くあります。

 しかし普通のマツのように直立せず、傾斜しながら育つハイマツ
としての性質は残しているそうです。ここはまた、ハイマツ帯をす
みかにしるライチョウの南限生息地でもあるというから恐れ多くな
ってきます。

▼【テカリ岩】
 テカリ岩の上からは展望がよく、南アルプスの「深南部」の山々
が望めます。

▼【山名・易老岳】
 さて、南アルプス赤石岳から南下し、聖(ひじり)岳、上河内(か
みこうち)岳、茶臼岳を経て、光岳を目指します。西側長野県飯田
市の登山口、易老度(いろうど)からの登山道を合わせた易老(い
ろう)岳に着き、一休み。

 易老岳とは、石廊(石の廊下)の意で、この山中には石の回廊の
ような所があるといいがどこにあるかはまだ確認していません。か
つては、東側山ろく静岡県葵区井川集落から塩や魚介類を背負って、
この山を越えて長野県側遠山谷へ運んだという。昔の人はすごいも
のです。

▼【地名・静高平】
 さらにしばらく進むと静高平(しずこうだいら)。やや平らにな
っており、ハイマツが絨毯のように覆っています。ここは、1935
年(昭和10)に旧制静岡高等学校の山岳部「静高山岳部」が、登
ったことを記念して命名したということです。やがて広々とした草
原のセンジヶ原。二重山稜に亀甲状土が見られます。

▼【山名・イザルヶ岳】
 そこを東に入ったところが2540mのイザルヶ岳です。笊(ざる)
のことを信州の方言で「イザル」といい、なだらかな山の形が笊を
伏せたようにみえるからその名があるそうです。

▼【手者万九伝説】てしゃまんく
 さて、光岳の山ろくにはいくつかの伝説があります。先ず静岡県
側井川集落の伝説です。その昔、井川村田代地区(いまの静岡県静
岡市葵区井川地区田代集落)に、手者万九(てしゃまんく)という
力自慢の男がいました。

 こどもの時から力自慢で、山へ薪を採りに行っても、大きな木を
素手でゆらしながら枝を折り、たちまち薪の山ができたそうです。
力も自慢なら足も自慢で、大日峠を越えて日帰りで、駿府(すんぷ
・静岡市)まで買い物に行ってきたといいます。

 ある日、手者万九(てしゃまんく)が買い物をして、大きな荷物
を背負い、静岡浅間神社・長谷通り側の石鳥居の前を歩いていまし
た。大勢の職人が神社の鳥居を組み立てています。しかし石の材料
が重すぎて動かず大騒ぎをしています。困っている石工たちを見て
怪力男はもどかしく思っていましたが、とうとう「ちょっとオレが
動かしてやる」。見る見るうちにひとりで石の柱を持ち上げ、なん
なく鳥居を組み立ててしまいました。

 あっけにとられている石工たちや神社の宮司たち。しかし鳥居は
真っ直ぐではなく少し左に傾いて建ててしまいました。そのため、
いまでも静岡浅間神社の長谷通り側の鳥居は少し曲がっているのだ
そうです。この怪力男・手者万九(てしゃまんく)の墓が田代集落
にあり、近くに「てしゃまんくの里」というおでん、てまんしゃく
の「力豆餅」などが名物になっているそうです。

▼【海野七郎、七郎三郎伝説】
 もうひとつ、井川集落岩崎地区の伝説です。昔、この里に海野七
郎太郎と、七郎三郎という兄弟がいました。弟の七郎三郎は兄以上
に剛力でした。時は戦国時代、このふたりは甲斐武田勢が兵を向け
ても少しも屈しませんでした。そこで武田は、村人をそそのかして
山に深いカモシカの落とし穴をつくらせました。村人は剛力の弟七
郎三郎をあざむいて、落とし穴に落とし、大きな石を投げ入れて殺
しました。

 弟を討ち取ったので、武田は兄を捕らえることができました。兄
弟は清水の江尻の浜でさらし首にされてしまいました。それからと
いうもの、井川集落岩崎の里に七郎三郎の怨霊の祟りがおこりまし
た。恐れた村人は祠を建てて、兄弟をねんごろに供養しました。そ
れが井川大橋を渡った対岸の八幡神社のはじまりだということで
す。

▼【光岳の天狗伝説】
 さて光岳の南ろくの川根本町には寸又峡(すまたきょう)温泉が
あります。そこに伝わる話です。ある時、光岳に住む天狗が、ふも
との寸又峡の小高い山にある神社の大石に降り立ちました。大石の
上からあたりを見渡すと、ここには畑がなく食べ物もろくにありま
せん。そのうえ寒々としており、貧しい土地でした。そこで天狗は
大年神(オオトシノカミ・穀物の神)に、五穀(米・麦・粟・黍・
稗)を持参するようにお願いしました。

 神様から五穀がもたらされ、大きな石の上に開けてみると、穀物
は大石の上に山のように盛られ、神社も外まであふれ広がりました。
こうしてこの集落も安心して暮らせる所になりました。このことか
らこの山を「外守(外森)山」と呼ぶようになったといいます。そ
して天狗が降り立った大石は、いまも不安定なまま崖っぷちにとど
まっままになっています。

 この「落ちない大石」は、神社のご神体として崇められ、いまで
は、落ちないことを願う人々(受験生や高所作業者など)の守り神
としてまつられています。ちなみに寸又峡の外森神社の祭神は、大
歳神(オオトシノカミ・穀物神)と誉田別尊(ホムタワケノミコト
・軍神八幡神)としています。

▼【犬と猟師伝説】
 さらに西ろくの長野県飯田市の伝説です。昔ある猟師が、光岳南
西の池口岳で野宿をして夜が明けるのを待っていました。すると連
れてきた犬が、やかましく吠えたてます。いくら止めようとしても
暴れて止みません。猟師はとうとう腹を立て、犬の首を山刀で切り
落としてしまいました。

 犬の首は暗闇の中を飛んでいったかと思うと、大きな地響きがし
て何か落ちてきました。見ると大蛇で、その首には噛みついたまま
の犬の首がくっついていました。犬は猟師を助けるために吠えてい
たのです。猟師はつくづく後悔しました。そして山のふもとに社を
建て、ねんごろに犬の霊をまつりました。いまも長野県飯田市南信
濃和田下大島集落の道ばたに犬神様(犬公神)として残っていま
す。

▼【山行記】
 ある年の8月、赤石岳から南下、光岳を目指しました。光小屋前
の広場が幕営地なっていました。ザックをテン場に置き、光岩を往
復。明日はムギウネホツを下り、柴沢小屋跡の吊り橋を渡り、寸又
川左岸林道を寸又峡まで行く予定です。あしたは早い。早々にテ
ントを張り夕食をすませ、シュラフの中へもぐります。その晩は
「シノつく」ような大雨。朝2時に起床したときには満天の星が
光っています。きょうの寸又峡までの長い林道歩きもさい先良さ
そうです。

 歩き出してから4時間の下り。林道につくころにはジリジリの
暑さ。ここから砂利道を37キロ、人っ子一人いない道をただひた
すら歩きます。所々の道路わきに温泉までの距離板が建てられて
います。途中でカモシカに出会い、滝があれば頭から水をかぶり、
足にマメが出来そうになれば早めに靴を脱ぎ、テーピングのテー
プをべったり貼ります。

 やっと寸又峡に着き、テントを張ったのは薄暗くなりはじめて
からでした。すると隣のテントの家族連れから「これから準備する
のは大変でしょう」と、夕飯を誘ってくれたのです。……。焚き火
を囲んでのあの時の夕餉はいまも忘れられません。ただ寸又川左岸
林道はその後の台風被害でいまも歩けるのでしょうか。



▼光岳【データ】
★【所在地】
・静岡県榛原(はいばら)郡川根本町と静岡市葵区(旧安倍郡井川
村・光小屋、イザルヶ岳)と、長野県飯田市(長野県下伊那郡南信
濃村)との境。大井川鉄道井川駅からバス・畑薙第一ダムから歩
いて13時間で光岳。さらに進むと光石。三等三角点(2591.1m)
がある。

★【位置】(電子国土ポータルから検索)
・三角点:北緯35度20分17.41秒、東経138度05分01.55秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「光岳(甲府)」or「池口岳(静岡)」(2図
葉名と重なる)

★【山行】
・某年8月6日(土)。


▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角川書店)
1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典22・静岡県』小和田哲男ほか編(角川書店)
1982年(昭和57)
・『世界の植物』(朝日新聞社)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭和58)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『日本山岳風土記2・中央・南アルプス』(宝文館)1960年(昭
和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979年(昭和54)
・日本の伝説3『信州の伝説』朝川欣一ほか(角川書店)1976年
(昭和51)
・日本の伝説30『静岡の伝説』武田静澄ほか(角川書店)1978年
(昭和53)
・『日本歴史地名大系22・静岡県の地名』若林淳之ほか(平凡社)
2000年(平成12)年

 

 北海道利尻島の利尻山(りしり・標高1721m)は、『日本百名山』
(深田久弥著)の一番目に書かれている山。利尻郡利尻町と利尻
富士町との境にあります。日本最北の山で、利尻岳とも書かれ、
島そのものがひとつの山になっています。美しい姿から利尻富士
とも呼ばれています。

 ここには不思議なことに熊やマムシなどのヘビ類がいないとい
う。深田久弥は『日本百名山』の中で、かつて利尻島南東方向対
岸の北海道天塩(てしお)町で山火事があった時、火事現場から逃
れてきたのか熊が泳いで渡ってきて、すみついたことがあったとい
う。しかし、いつの間にかいなくなっていた。たぶんまた古巣へ泳
ぎ帰ったのだろう、というようなことを書いています。

 山名はアイヌ語の「リ・シリ」の音訳「高い島山」という意味
で、となりの低い島山「礼文」に対するもの。この山は、島の中央
に山頂を突き上げ、北峰(1719m)、本峰、南峰(1721m)の三つ
のピークを持っています。でも北峰から先は崩落が激しく登山禁止
になっています。

 北峰に利尻郡利尻富士町鴛泊(おしどまり)地区にある利尻山神
社の奥社の祠があります。利尻山北ろくには鴛泊ポン山(四四四メ
ートル)、南麓に鬼脇(おにわき)ポン山(410m)、仙法志(せん
ほうし)ポン山(320m)などという一風変わった名前の小さな寄
生火山もあります。また北に直径250mの姫沼、南麓の沼浦(ぬま
うら)には直径400mのオタドマリ沼、三日月沼があり、山の風景
に趣をそえて利尻富士観望の地となっています。

 この山は古くから高くそびえた美しい姿で、航海や漁場の目印に
され、海の安全を願う人々から崇められたという。しかし姿に似合
わずこの山の気象は厳しく、天気が晴れて山の姿があらわすのは、
一年のうち100日もないということです。また利尻山に吹き込む風
は「北海の荒法師」とも呼ばれるほど烈しいという。

 ここ利尻島には長くアイヌの人たちが住んでいました。ここに初
めて和人が入ってきたのは1706年(宝永3)。能登の人、村山伝兵
衛が松前藩からソウヤ場所の漁場請負人を命じられて、住みはじめ
たのが開発の先駆けだそうです。その後1787年(天明7)8月に
はフランスの探検家、ラ・ペルーズという人が、サハリン島から南
下した時、宗谷海峡でこの山を見て、館長のラングルにちなんでラ
ングル峰と名づけたという。

 登山の古い記録としては、江戸時代後期の1789年(寛政10)、
武藤勘蔵の『蝦夷日記』のバッカイベツからソウヤへの7月7日の
見聞記があり、それによると、最上徳内(もがみとくない・江戸時
代中後期の探検家であり江戸幕府普請役)が記されていてこれが最
初らしい。江戸時代後期の1808年(文化5)になり、ロシア武装
船の来襲のときには、幕府から出兵を命じられた会津藩士が水腫病
にかかり、大勢死亡していった事件もあったといいます。

 山頂北峰にある神社の里宮、鴛泊の利尻山神社は、1824年(文
政7)に建立した神社だという。そののち、山頂に奥社の小祠をま
つりました。ついでながら祭神は、オオヤマツミノカミ、オオワタ
ツミノカミ、トヨウケヒメノカミを合祀(ごうし)しています。

 オオヤマツミは、『古事記』では大山津見(おおやまつみ)と表
記され、『伊予国風土記』逸文(いつぶん)という文書では、大山
積(おおやまつみ)と書き、大山をつかさどる山神だそうです。ま
た『日本書紀』では、大山祇(積)と表記し、イザナギ(男神)・
イザナミ(女神)の子。大山をつかさどる山神だそうです。

 またオオワタツミは、『古事記』では大綿津見神(おおわたつみ
のかみ)、『日本書紀』は少童命(わたつみのみこと)、海神(わた
つみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)などと表記。海の三
神の一神で、綿(わた)は海(わた)で、津見は司ることなのだそ
うです。

 さらにトヨウケヒメは、『古事記』では豊宇気毘売神(とようけ
ひめのかみ)、『日本書紀』では豊受気媛神(とようかひめのかみ)、
豊受大神(とようけのたいじん)などと書き、イネの精霊の神格化
したもののようです。つまりこの祠には、山と海と食べ物の神さま
をまつったのでしょう。

 山頂の三角点(点の名称「利尻絶頂」)は、1912年(大正元)5
月に陸地測量部の技師井口貫一によって選点されたものという。さ
らに1871年(明治4)日本政府の招きで開拓使顧問として来日し
た、アメリカの農政家、ケプロンが書いた「ケプロン報文」(来曼
北海道記事)には「バツカイ(稚内市の地名)近傍ノ海浜通リ数英
里ノ間、殆ド円錐状ニシテ、四側平等ナル利尻山ノ美景ヲ眺望シツ
ヽ経過セリ」と利尻山を見ながら航海していたことが記されていま
す。

 利尻山の登山道を開いたのは修験者天野磯次郎という人物。1890
年(明治23)ころ、鴛泊(おしどまり)からの登山道をつくった
のが最初だという。明治後期になると、植物学者牧野富太郎も植物
採集のためこの山を訪れています。

 また「♪山は白銀、朝日を浴びて……」の詩でおなじみの『スキ
ーの歌』の作詞家、時雨音羽がこの利尻出身。彼は利尻山について
「山は世界に山ほどあれど海の銘山これひとつ」と詠んでいます。
島の沓形岬公園には彼の「ドンとドンとドンと波のり越えて一挺二
挺三挺八挺櫓で飛ばしゃ……」という『出船の港』の歌碑もありま
す。

 利尻山は、古くは利後(りいしり)山と呼ばれたという。この山
について民俗学者、吉田東伍は、「(現代文で書くと)島の中央に屹
立する休火山にして、洋名をランタンという。壮麗なる円錐形をな
して裾を四方に延ばし、遠くこれを望めば、さながら富岳のようで
ある。よって北見富士の名称がある。山ろくはおおむね樹林をもっ
て覆われ、四合目以上は全く火山質の石礫(せきれき)をもって覆
われている」というような紀行文を残しています(『日本山岳ルー
ツ大辞典』)。

 ここは高山植物でも名高いところでもあります。緯度が高いため
に本州では標高2000mあたりに生息する高山植物が、利尻島では
平地に平気な顔をして?生えています。ここの固有種のリシリヒナ
ゲシ、ボタンキンバイ、リシリオウギ、リシリトウウチソウなど、
利尻の名を冠した種も多く、南斜面に群生するチシマザクラは、1968
年(昭和43)道天然記念物に指定されました。

 また三合目、姫沼分岐近くにわき出る寒露泉は1985年(昭和60)
の「日本名水百選」(環境庁)のなかで一番北の名水になっていま
す。この名水は、サケのふ化事業にも利用されています。深田久弥
選定「日本百名山」第1番選定。岩崎元郎選定「新日本百名山」第
2番選定。田中澄江選定「花の百名山」(1981年)第12番選定。
田中澄江選定「新・花の百名山」(1995年)第11 番選定。


▼利尻岳【データ】
【所在地】
・北海道利尻郡利尻町と利尻富士町との境。JR宗谷本線稚内下
車、稚内港から船で2時間で鴛泊(おしどまり)からタクシーで利
尻北麓野営場、さらに歩いて6時間で利尻岳(利尻山)北峰。2
等三角点亡失(1718.7m・2011年10月31日)と利尻山神社奥宮
がある。そこから230mほど南の南峰に写真測量による標高点(17
21m)がある。

【名山】
・「日本百名山」(深田久弥選定):第1番選定(日本二百名山、日
本三百名山にも含まれる)
・「新日本百名山」(岩崎元郎選定):第2番選定
・「花の百名山」(田中澄江選定・1981年):第12番選定
・「新・花の百名山」(田中澄江選定・1995年):第11 番選定

【位置】
・北峰2等三角点(亡失):北緯45度10分49.64秒、東経141度14
分28.83秒
・南峰標高点:北緯45度10分42.57秒、東経141度14分31.67


【地図】
・2万5千分1地形図名:鴛泊

▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典1・北海道(上)』(角川書店)1991年(平
成3)
・『神々の系図』川口謙二(東京美術)1981年(昭和56)
・「週刊日本百名山32・利尻岳、羅臼岳」(朝日新聞出版)2008年
(平成20)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005年(平成17)
・『日本山岳風土記3・富士とその周辺』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平成16)
・『日本山名総覧』武内正著(白山書房)1999年(平成11)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979年(昭和54)
・『日本歴史地名大系1・北海道の地名』高倉新一郎ほか(平凡社)
2003年(平成15)
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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室