【本文】
▼【聖岳とは】
南アルプスに聖岳(ひじりだけ)という山があります。
JRの飯田線飯田駅の南東31キロあたり、山頂は東西2
峰に別れ、西側を前聖岳(3013m)、東側を奧聖岳(三
角点・2978.3m)といっています。ただ東側の奥聖岳の
さらに東方に東聖岳(2880m)があり、また前聖岳の南
に小聖岳(2662m)があるので注意が必要です。しかし
ふつう聖岳といった場合は、標高の高い西側の前聖岳を
いうそうです。
▼【聖岳の山名】
前だ奥だ、東だ西だと紛らわしいですが、西ろくの長
野県側からみると手前にあるのが前聖岳で、奧にあるの
が奥聖岳、さらにその東にあるのが東聖岳となり合点が
いきます。ただ聖岳というのは、静岡県側大井川支流の
聖沢の源流にある山の意味です。
聖の文字から、なにか偉いご聖人さまの名が出てきそ
うですが、宗教登山とは関係がないようです。この山に
東ろくの静岡県側から登る時、かつては、大井川と別れ
ていまの聖沢を遡っていかなければなりませんでした。
この沢が悪沢で、岩壁をヘズって行くところの連続で、
ヘズリ沢と呼ばれていたのが、ヒジリ沢になったという
のです。また、その沢がうねうねと曲がりくねり、ヒジ
リながら流れているので、ヒジリ沢と呼ばれるようにな
ったとする説もあります。
その他、上河内岳、日知ヶ岳などの呼び方もあり、江
戸後期の『駿河志料』には、「上河内岳、日知ヶ岳、奥
西河内岳…(略)…井河奧ノ深山」などともいうと書い
てあります。日知ヶ岳とは、朝早々にこの山が太陽の恩
恵を受けるからだといいます。そのほか山自体が、高僧
が座る「聖の座」に似ているとの説もあります。
一方長野県側では、遠山川の支流の西沢が前聖岳に突
き上げていることから「西沢岳」とか「西沢の頭」と呼
ばれていました。また地元発行の村史には、3000m峰
として最南避遠の地にあって、安易にはに近づき難いと
いうので、ヒジリと呼ばれるようになったと説明してい
ます。ヒジリは聖で、聖人には近寄りがたいということ
でしょうか。
ここは3000m級の山の日本最南端の山になっていま
す。前聖岳と奥聖岳との稜線の両側にはカール地形が数
ヶ所見られます。このカールも、南アルプスのカールの
最南端のものだそうです。
山頂からは、北方に百間洞(ひゃっけんぼら)を隔て
て赤石岳の雄大な姿を望めます。一方、南には聖岳を境
に山の雰囲気の異なる上河内岳、茶臼岳、新田岳、易老
岳、光岳と2500m前後の山並みが展望できます。高山
植物も多く、シーズンにはウサギギクや、コケモモ、タ
カネトウヒレン、アオノツガザクラ、クロユリなどが咲
き乱れます。
信仰としての登山は、長野県側旧信濃村(いまの信濃
町)から兎岳まではその足跡は残っているようですが、
聖岳にはないようです。また静岡県側からも信仰登山は
なく、この山には地元の漁師や川狩りの人夫さえ、聖沢
の大滝まで入るのが精いっぱいでした。
▼【便ヶ島伝説】
伊那側から聖岳に登るにはJR飯田線の飯田駅からタ
クシーで、遠山川沿いの「便ヶ島」(たよりがしま)ま
で入ります。または、飯田線平岡駅からタクシー(台数
が少ない)で同じ便ヶ島に入り、そから西沢沿いに聖平
薊畑(あざみばた)経由で、聖岳山頂をめざして登って
いきます。
この登山口「便ヶ島」にはこんな伝説があります。聖
岳の西ろくの遠山谷は、戦国時代から江戸時代初期にか
けては地方豪族遠山氏の領地でした。その領主遠山土佐
守景直は、郷民から厳しく年貢を取り立てる暴君でした。
その圧政に耐えかねた農民たちが一揆を起こし滅ぼしま
した(遠山騒動)。
その遠山氏が「遠山騒動」で滅びた時、領主の奥方は
侍女12人とともに、山深く落ち延びていきました。そ
して道に迷いながらたどり着いたところが、いまでいう
聖岳の登山口の「便ヶ島」でした。そこでやっと落ち着
いた奥方は、いままで住んでいた城はどうなっているか、
また親しかったあの人、この人の身を案じて、くり返し
手紙を書いたといいます。いまこの地を便ヶ島(たより
がしま)というのはここから来ているそうです。
また別の伝説では、遠山氏の姫君がここまで落ち延び
てきて、かねてから相愛の仲だった若侍の安否が気にな
り、何回も便りを侍者に託したところだともいわれてい
ます。そのほか、ここは農民たちが一揆をひそかに相談
した場所で、決起に加わる者の名を石に刻んだところだ
ともされています。ただその石がいま、どこにあるのか
は不明です。
▼【待合伝説】
「便ヶ島」の手前、須沢集落に「待合」(まちや)と
いうところがあります。ここは農民一揆の密議のため便
ヶ島へ向かう途中、仲間と待ち合わせ場所にしたところ
ともいいます。また遠山氏が滅亡した時、大勢の農民た
ちが逃げまどう落人たちを襲うため、待ち伏せしたとこ
ろだともいわれています。このほか遠山郷では、あちこ
ちに遠山氏一族にまつわる伝承が多く残されていて、村
人の畏敬の対象となっていることが分かります。
▼【兎岳】
赤石岳から南下、前聖岳手前に「兎岳」(2818m)と
いうピークがあります。北方に小兎岳(2738m)を従
えています。山頂からは360度の展望で、北を見れば赤
石岳から荒川岳、さらには甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳までが
手にとるようです。山頂直下長野県側に避難小屋があり
ます。しかし水場はなく、小兎岳手前まで行かねばなり
ません。このあたりはクロユリの群生地で、7月下旬ご
ろが見ごろです。
ここは晴れた日など、長野県側遠山の里からはっきり
眺められ、遠山郷の人たちは「ウサギ、ウサギ」と呼び
親しんでいる山です。長野県南信濃村の旧木沢小学校
(2000年(平成12)廃校)の校歌にもこの山が出てお
り、「明日に仰ぐ聖岳、夕べに望む兎岳、気高く清い
山々に……」と歌われていたそうです(『信州山岳百科
2』)。
兎岳の山名は、遠山川が弁天岩付近で本流と分かれ、
支流になり兎岳へ突き上げる「兎洞」の名からきている
そうです。兎岳の山頂直下、南側にある「兎平」は百間
平や、センジガ原と同じ、準平原時代の名残であるとさ
れています。
▼聖岳【データ】
★【所在地】
・長野県飯田市南信濃地区名(旧下伊那郡南信濃村)と
静岡県静岡市との境。飯田線飯田駅の南東31キロ。大井
川鉄道井川駅からバス、畑薙第一ダム下車、歩いて14時
間で聖岳。前聖岳に写真測量による標高点(3013m・最
高峰)、それに奥聖岳に三角点(2978.3m)と写真測量
による標高点(2982m)がある。地形図上には聖岳の総
称山名と、前聖岳の山名とその標高、さらに奥聖岳の山
名とその三角点記号と標高、同山の標高点の標高の記載
あり。奥聖岳の三角点より西方向直線約45mに同岳の標
高点がある。さらに西方向直線約580mに前聖岳の標高
点がある。
★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステ
ム」から検索)
・前聖岳の標高点:北緯35度25分21.26秒、東経138度08
分22.63秒
・奥聖岳の標高点:北緯35度25分31.14秒、東経138度8
分42.48秒
・奥聖岳の三角点:北緯35度25分31.71秒、東経138度0
8分44.2秒
★【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典22・静岡県』小和田哲男ほか編
(角川書店)1982年(昭和57)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
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