山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1184号-(百伝084)赤石岳「南朝の親王と古屋漏るの伝説」

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【本文】

▼【赤石岳とは】
 南アルプスのほぼ中央にある赤石岳(3120m)は、
赤石山脈という山脈名にもなっている山。日本で第7位、
南アルプスのなかでは第4位の高さを誇ります。山頂に
は日本一高い標高の一等三角点(本点)の標石が敷設さ
れています。古くから信仰の山として登られており、そ
の三角点峰の南寄りのピークには小さな祠と、乱立する
祠があります。

 赤石岳の山頂からの眺めは、北アルプス、中央アルプ
ス、南アルプスの主峰群、深南部、白峰南嶺、安倍奧の
山などなどがすばらしい。赤石岳は高山植物も豊富で、
タカネマンテマ、ムカゴユキノシタ、チョウノスケソウ、
ツガザクラ、コケモモ、アカイシリンドウなどが見放題
です。

▼【山名】
 赤石岳という山の名は、東側山ろくの静岡県側の人た
ちの呼び名で、西側の長野県では駿河の国(静岡県)境
にあるため駿河岳と呼んだそうです。この山はまた別名、
釜沢岳本岳とか大河内岳・大河原ノ岳の名もありまし
た。このうち大河原ノ岳は、西ろく信州側の大河原集落
からの呼び方だそうです。

 「赤石」とは、南面の静岡県側ふもとの椹島(さわら
じま)から遡(さかのぼ)る大井川の支流赤石沢の名に
由来しているとされています。赤石沢はさらに北沢・南
沢に分かれ、赤石岳や百間洞・聖岳北面に突き上げてい
ます。この赤石沢は、谷底に赤紅色のラジオラリアチャ
ートがあり、赤石沢の名は、その赤い石からきていると
いいます。そういえば赤石岳付近では赤い色の石をよく
目にします。

▼【登山の歴史】
 赤石岳への登山は、信仰登山としてすでに江戸時代か
ら行われていたようですが、記録としては明治12年
(1879)の内務省地理局の測量隊が行った測量登山が最
初といいます。ただ『點ノ記』(『新日本山岳誌』)によ
ると、一等三角点「赤石岳」の標石が敷設されたのは1891
年(明治24)9月2日で「大河原ヨリ釜沢ヲ経テ……
谷川ヲ四十三度渡リ、赤石岳麓ノ広河原ト云フニ至ル」
と当時の記録に記載されているそうです。

 修験者としての開山は、明治19年(1886)、長野県下
伊那郡河野村堀越(いまの豊丘村堀越区)の信州の堀本
丈吉(敬神講)によってなされたといいます。また、同
じ年に、山梨県中巨摩郡芦安村(いまの南アルプス市芦
安)の名取直江(直衛)も、荒川岳とともに赤石岳に登
り山を開きました。

 また『孤高の人』、『単独行』で有名な登山家・加藤
文太郎の「南アルプスをゆく」のなかには、小赤石岳の
南、剣ヶ峰に「蚕玉大神(こだまたいじん)」をまつっ
てあるとも書いてあります。西ろくの飯田市など伊那谷
には「蚕玉神」をまつる祠や神社が多くあり、ここにま
つってある「蚕玉大神」はこんなところから来ているの
でしょうか。

▼【大倉喜八郎】
 赤石岳について話のタネになるのが大倉喜八郎の大名
登山です。1926年(大正15)夏、88歳の高齢をおして、
特別注文の山カゴに乗り、人夫200人を従えて、東ろく
の登山基地である椹島から赤石山頂に登ったというか
ら、ケタがはずれています。大倉喜八郎といえば、大倉
財閥を一代で築いた政商。当時、このあたりの山林はす
べて大倉喜八郎のもの。登山基地椹島から赤石岳をめざ
す登山道、東尾根を大倉尾根というのは喜八郎の名から
来ているそうです。

 1837年(天保8年)、新潟県新発田で産声をあげた喜
八郎は、18歳の時江戸に出て鰹節店に丁稚奉公3年後、
上野に乾物屋を開き独立、その後鉄砲店を開業します。
おりしも日本は幕末、維新の大動乱。官軍から幕軍から
も注文殺到です。商売とあらばあっちもこっちもありま
せん。喜八郎は両軍に鉄砲を売りまくり大儲け。

 その後、大蔵組商会を設立、貿易商と用達事業に乗り
出し財閥の基礎を築きます。大倉商事、大倉鉱業、大倉
土木の三社を中核とする組織機構をつくりあげました。
一時は奴豆腐が食べたいとパーティー会場に豆腐屋を呼
んでつくらせたり、びんビールを持参させたり当時で4
億円の経費を使うという豪傑ぶりだったという。

 しかし、中国大陸への進出に比重をかけ過ぎ、第二次
大戦の敗戦でそのすべてを失い衰退したといいます。い
まの東京経済大学(大倉高等商業学校)や、東京・虎ノ
門の大倉集古館、東海パルプ、大成建設、サッポロビー
ルなどは大倉喜八郎が興した会社です。いま南アルプス
のほとんどの山小屋は東海パルプ子会社関連の施設にな
っています。

▼【椹島】
 赤石岳の登山口、椹島(さわらじま)ロッジには大倉
財閥の創業者大倉喜八郎の記念碑があります。喜八郎は
狂歌を好み「鶴彦」の号まであったといいます。記念碑
には「赤石のやまのうてなに万歳を唱ふる老も有難の世
や」(大正一五年八月七日 赤石岳絶頂を極む 九十翁
大倉鶴彦)と刻まれています。

▼【大聖寺平の伝説】
 さて、赤石岳北側に大聖寺平(大小寺平とも)という
平坦地があります。西ろくの長野県大鹿村方面へ下る分
岐があり、指導標とケルンが建っています。ここは大鹿
村大河原に籠居していた南朝、後醍醐天皇の子、宗良(む
ねなが・むねよしとも)親王の遺骨を足利勢に奪われな
いよう埋葬したところだとされています。また一説には、
親王のお守刀の大小(刀)を埋めたから、大小寺平と書
くととも伝えています。

▼【宗良親王伝説】
 それの関連したこのような伝説もあります。室町時代、
南北朝廷の争いで京を追われ、吉野に新たな南朝を樹立
した後醍醐天皇の皇子たちは、各地の南朝勢力に支えら
れて南朝挽回のため、戦い続けました。後醍醐天皇第四
皇子(※第○皇子かは文献によってまちまち)宗良親王
も、他の皇子たちと同様、遠江の国(いまの静岡県西部)
伊谷城(いやじょう)から、信濃国に入り、伊那の奧の
大鹿村大河原に隠れ住んだといいます。その時従ったの
は、南朝方の武将北条時行や、諏訪頼継、高坂高宗(こ
うさかたかむね)らだったそうです。

 のち同親王は文中3年(南朝・1374・北朝は応安7)12
月、いったん吉野に帰りはしましたが、約30年間にわ
たって当地あるいは大草を根拠に駿河・武蔵・上野・越
後・美濃・尾張などを転戦、南朝方の挽回を画策したと
いいます。そしてしばしば、ここ赤石岳の山頂に登り、
宿敵足利氏調伏を祈ったといいいます。

 宗良親王は、父後醍醐天皇が没した(1339年・延元
4・北朝は暦応2)のちも、ここ大鹿村大河原を拠点に
して、北陸や関東などの各地で戦い続けました。宗良親
王は、その一方では多くの歌を詠んだ歌人でもあり、私
家集の『李花集』を遺しました。

 親王が幽居した大河原の名は、JR飯田線伊那大島駅
から、大鹿村役場・鳥倉林道経由、三伏峠登山口(鳥倉
登山口)への途中、大鹿小学校付近にあり広い川原をな
し、この地形からつけたもの。

 そこから国道253号線を釜沢温泉まで行き、小河内沢
沿いに行った先に御所平があり、宗良親王御所跡の碑や
供養塔である宝篋印塔も残されています。そこからつづ
く尾根の上には的場(まとば)という地名があり、鉄鏃
(てつぞく=鉄の矢じり)が出土しており、親王の家来
たちが弓矢の訓練をしたところだそうです。

 この宗良(むねなが)親王がいつこの地に来たかにつ
いては、親王の私家集「李花集」の詞書(ことばがき)
から推定できるといいます。それには「興国五年、信濃
国大川原(ママ)と申す山のおくに籠り居侍(り)しに」
という歌があります。興国(こうこく)5年というのは
南朝の年号で、北朝の年号では康永(こうえい)3年、
西暦1344年にあたります。このことから、親王がこの
土地に来たのは興国5年(1344)か、その前年の興国4
年(1343)ではないかとされています。

 それから三十数年間後の天授4年(南朝年号・1378・
北朝は永和4)に、親王は吉野に帰りましたがその3年
後以降消息は不明になっているそうです。宗良親王の終
えん場所については、諸説があり混沌としていますが、
天文19年(1550)作成の「大草の宮の御哥」と題され
た古文書(京都醍醐寺所蔵)の記述から、信濃国大河原
に帰り、ここで崩御したという説が有力だということで
す。

▼【山椒魚伝説】
 赤石岳にはこんな伝説もあります。赤石岳山中の沢や
川にはサンショウウオが沢山すんでいます。ここのサン
ショウウオは北アルプス山中のものと違って、体長が
15?18センチもあるそうです。そんなことからか、昔、
江戸からふたりの香具師(やし)が、見せ物にするため、
大河原にサンショウウオを捕りにきました。

 しかし何が原因だったか、突然ふたりはケンカをはじ
めました。最初はちょっとしたことでしたが、次第に本
気になり、ついに決死の大格闘に発展、片方が組み伏せ
られ、ついに喉を締めつけられて殺されてしまいました。
おまけに両手をうしろに縛り、木の枝にぶら下げて山を
降りてしまいました。

 次の年、その男がサンショウウオを捕りに、またそこ
へ行きました。去年の死体は白骨化して、まだ不気味な
格好で木の枝にぶら下がっています。男は「お前、まだ
そんなざまをしているのか」と一括しあざ笑いました。
とたんに白骨がグラグラと崩れ落ちてきました。ワッ。
男はそれを除けようとしてよろけてそばを流れる川に落
ち、群がるサンショウウオに噛みつかれ死んでしまった
そうです。里人はサンショウウオの祟りだと噂し合った
ということです。

▼【フルヤモル伝説】
 またこんな伝説もあります。その昔、赤石岳の山奥に
粗末な小屋で、仙人同様の暮らしをしている老人夫婦が
いました。このような古屋で暮らす夫婦が一番困るのは、
雨降りの天気の日でした。屋根はこわれ、雨の日は家の
中にいるのか、外にいるのか分からないくらいの雨もり
がするありさまです。

 ある夜、以前からこの夫婦を食ってやろうとオオカミ
がやってきて、中をうかがっていました。中では爺さん
はいろりでほだ木を燃やしながらいいました。「この世
でフルヤモルほど恐ろしいことはねえのう」、「ほんと
に」と婆さんもうなずきます。それを聞いたオオカミは
驚きました。「いままでオレが一番だと思っていたが、
さては「フルヤモル」という恐ろしい奴がいるのか」。
ビビったオオカミはそやつが来ないうちにと、一目散に
逃げ去りました。

 間もなくそこへ大猿があらわれました。この猿は、仙
丈ヶ岳の項で紹介した、地蔵尾根コースの登山口の柏木
地区に伝わる「孝行猿」の数十代前の猿でした。その内
容は、猟師に親を捕らわれた子猿たちが、真夜中、いろ
りのそばで手をあぶり、温かくなった手で代わる代わる
親猿を介抱しているのを見て、猟師は以後殺生をしなく
なったというものです。

 さて中をうかがおうと大猿が、古屋の中をのぞき込む
と、やはり恐ろしい「フルヤモル」の話をしています。
猿はもっとくわしく様子をさぐろうと雨戸のすき間から
長いしっぽをさし込みました。これを見つけた爺さんが、
いきなりしっぽを捕まえて力任せに引っ張ったからたま
りません。

 猿は恐ろしい「フルヤモル」に捕まったと大慌て。し
っぽの根元から引きちぎって山奧に逃げ込みました。そ
れ以来、大猿の子孫は代々しっぽが短くなってしまい、
また逃げる時力みすぎたので、真っ赤な顔になったとい
うことです。ちなみに「フルヤモル」とは「古屋漏る」
で、「古屋なので雨水が漏る」という意味だそうです。



▼赤石岳【データ】
★【所在地】
・静岡県静岡市と長野県下伊那郡大鹿村との境。飯田線
飯田駅の東南東31キロ。JR飯田線伊那大島駅からバス
・塩川終点から歩いて三伏峠経由延べ19時間40分で赤石
岳(標高3120.1m)。一等三角点と敬神講など山岳信仰
の祠がある。地形図に山名と三角点標高、赤石避難小屋
の文字と独立建物(極小)記号の記載あり。三角点より
南方95mに赤石避難小屋がある。

★【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」



▼【参考文献】赤石岳
・『アルパインガイド30・南アルプス』白籏史郎(山と
渓谷社)昭和54年(1979)
・『アルプスの伝説」山田野利天著(株)ナガザワ
・『角川日本地名大辞典20・長野県」市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典22・静岡県」小和田哲男ほか編
(角川書店)1982年(昭和57)
・『信州山岳百科2」(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・『信州の伝説』(日本の伝説3)浅川欽一他(角川書
店)1976年(昭和51)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成4)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)197
9年(昭和54)
・『日本山岳風土記2・中央・南アルプス」(宝文館)1
960年(昭和35)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年
(平成21)
・『山の伝説』青木純二著(丁未(ていび)出版社)1930
年(昭和5)

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