【本文】
▼【悪沢岳とは】
荒川岳は、南アルプスの主峰赤石岳の北方にそびえる
山で、西から前岳と中岳、東岳(悪沢岳)の三山の総称
です。どれも標高3000mを超す山。三山とはいいます
が、実際は前岳と中岳は一つの山になっていて、東岳だ
けが東側に突きだしています。そのため東岳をとくに区
別して「悪沢岳」と呼ぶ人も多いようです。
ここ東岳(悪沢岳)山頂からの展望はバツグンで、富
士山、赤石岳、塩見岳などが心ゆくまで展望できます。
この山の北面には小さなカールがあり、南アルプスでは
珍しく9月ごろまで雪が残り、雪食地形として雪窪がみ
られていました。しかし、1995年(平成7)ごろから
姿を消してしまったといいます。地球の温暖化はこんな
ところまで影響しているのでしょうか。
▼【山の呼び方】
かつてはこの三つの山の呼び方がばらばらで、長野や
静岡県で違っていたというのです。その上にこの山に接
していない山梨県までが入り込んできますからこんがら
かります。(1:まず西ろくの長野県側の呼び方は、い
まの前岳のことを「荒川岳」、中岳を「中岳」、いまの
東岳を「東岳」と呼んでいます。東岳と呼ぶのは、山岳
宗教敬神講の先達(せんだつ)が、長野県側から前岳に
登った時、一番東にある山を見て「東岳」と呼んだから
との説もあります。
次は(2:東ろく静岡県側の呼び方は、前岳のことを
「荒川岳」、中岳を「奥西河内岳」、東岳を「地蔵岳」
と呼んでいたといいます。東岳を「地蔵岳」と呼ぶのは、
は静岡県葵区井川地区の田代集落の猟師たちが、遠くに
見える山を「地蔵ヶ岳」と呼んだところからきているら
しい。
またまた山梨県側では、前岳のことを「奥西河内岳」
・中岳を「魚無河内岳」・東岳を「悪沢岳」と呼ぶとい
うのです(『角川日本地名大辞典・静岡県』)。これはこ
の山に接していない山梨県(甲州)側からも、山岳宗教
の講の先達が登ったり、猟師たちが大井川源流のあたり
に猟に入ったりして、この山は人々に関係の深い山だっ
たようです。
これでは混乱が起こるのは当たり前で、村人たちの間
では、この三山の呼び方がバラバラだったようです。し
かし、1904年(明治37)に測量登山が行われ、臼井由
清という人がこの山に登り三等三角点を設置。国土地理
院の地図に、西から前岳・中岳・東岳(悪沢岳)と表記
してからは山の呼び方がいまのように定着。混乱はなく
なったそうです。
▼【荒川岳の山名】
さて荒川三山といいますが、荒川とはこの山(前岳)
が西ろく長野県側(信州側)の大鹿村の呼び方。荒川(前
岳)が、大鹿村を流れる小渋川の支流「荒川」の源頭に
あるためだとか、また同じ荒川(前岳)の西側が大崩壊
地で荒れているからともいいます。
荒川の名は、先の地形図作成時に命名されたといいま
す。実際記述どおりで、高山裏避難小屋から、ダケカン
バの間のキツイ登りをたどり、ハイマツの斜面を経て前
岳へ登りつめます。このあたりからの崩壊のすさまじく、
その荒れたさまを見ると納得させられます。
▼【悪沢岳の山名】
次ぎに悪沢岳(東岳)の悪沢の名は、「駿州田代山奥
横断記」(荻野音松著)に由来するそうです。同書によ
れば、甲州の漁師が「此(こ)の山より出づる溪流の西
俣に注ぐもの甚(はなはだ)険悪なれば之を悪沢と呼び、
此の山すなわち悪沢岳と云ふなり」(『新日本山岳誌』)
とあることに由来するといいます。そういえば、東岳北
側から流れ出る沢には、悪沢、蛇抜沢、新蛇抜沢など、
いかにも「たちの悪そうな」名前の沢が、西俣に流れ込
んでいます。
▼【荒川四山】
また荒川岳といえば、さらに地図をよく見ると、ここ
荒川三山から北方に遠く離れた、塩見岳の北側に「北荒
川岳」という山があります。それでは「荒川四山」にな
ってしまいます。北荒川岳の名は塩見岳の北側から突き
上げる川の名前からきています。長野県側天竜川に流れ
込むのが三峰川、その支流が荒川で、さらに南荒川、北
荒川に分かれます。
南荒川の源頭にある山が荒川岳(塩見岳の昔の山名)。
そして北荒川が突き上げる山が北荒川岳というわけで
す。明治時代、信州側では「塩見岳」を荒川岳と呼んで
いましたが、紛らわしいというので、大正時代の初めに
塩見岳に統一しました。北荒川岳というのはそのころの
山名がそのまま残ってしまったということです。それに
しても荒川というのはあちこちにありますが、暴れ川と
いう意味でしょうか。
▼【千枚岳の山名】
さらに荒川三山のすぐ東に千枚岳という山がありま
す。東側は大井川支流の上千枚沢の源頭の千枚ガレにな
っていて、崩壊が進んでいます。この山の名は千枚沢か
らつけられました。千枚沢とは伐採した木材を川へ降ろ
す時、木材を半円形に多数ならべ、滑り台のように伐木
を川へ落とします。これを「修羅千枚」と呼び、千枚岳
の命名の由来になっているそうです。
▼【歴史・開山】
荒川岳の開山は、やはり山岳修行者の先達たちです。
山梨県芦安村の修験者・名取直衛(直江とも)という人
が、明治19(1886)年前岳と東岳に登ったといいます。
また同じ年に、長野県下伊那郡河野村(いまの豊丘村大
字河野)の信州の先達堀本丈吉(敬神講)が大鹿村から
広河原を経て、三山(前岳・中岳・東岳)に登ったとさ
れています。もっとも、堀本丈吉行者は、開山する以前
から三峰講社を結成し、何度か講社員登拝の案内をして
いたとも伝えています(『信州山岳百科2』)。
名取直衛先達は、北岳山頂に「甲斐ヶ峰神社」の本宮
を、白根御池の下方に中宮を、また夜叉神峠入口に前宮
を建立した人でもあります。また、堀本丈吉先達は、名
取直衛と同じ明治19年(1886)、それぞれに赤石岳に登
頂して祈祷しているそうです。この明治19年はふたり
とも、荒川岳・赤石岳と忙しく登りくらべをしているよ
うです。
▼【三ッ峠】
この悪沢岳にはこんな話もあります。「赤石山ハ絶頂
三岐シ、荒川・鍋伏・赤石岳ノ三連峰ヨリ成レル故二、
旧名ヲ三ッ峠ト言ヒ、絶頂二祀レル山神ヲ、三ッ峰神ト
言ヘリ」との記録があるそうです(『日本百名山』)。こ
の中の「鍋伏」というのが悪沢岳らしく、赤石岳から見
ると鍋を伏せた形に見えるそうです。
この記述から「赤石山」は山頂が三つ峰になっている
ので、三ッ峠(峰のこと)といい、山頂に「三ッ峰神」
をまつっているといいます。三ッ峰神は、堀本丈吉行者
の三峰講と同じ三峰(三ッ峰)でしょうか。私が登った
1984年(昭和59)8月にも悪沢山頂に、こわれた木祠
がころがっていました。これは山梨県側の名取直衛(江)
・長野県側の堀本丈吉両先達のどの神のものでありまし
ょうか。
▼【紀伊国屋文左衛門】
この大井川の源流の原始林に、みかん船で有名な紀伊
国屋文左衛門が関係しているそうです。♪火事と喧嘩は
江戸の花……、といわれるほど火事が多かった江戸の町。
火事が起こるたびに必要なのが材木です。当然材木商は
大繁盛で財をなし、豪商にのし上がったものも多かった
そうです。
そのなかでも紀伊国屋文左衛門は、江戸中期の元禄11
年(1698・寅年)に、上野東叡山根本中堂の建設木材を
一手に引き受けました。そしてこの大井川源流、荒川岳
の森林を中心にして伐採をすすめたのでした(井川集落
『海野古文書』)。
材木はなによりも輸送手段が問題。切り出してから大
井川へ落とし、筏(いかだ)で流していくのはいいもの
の、さらに焼津の和田港への12キロの運搬をどうする
か。文左衛門は考えた末、この距離に運河の開拓をはじ
めたのです。材木を運河で流せば、材木に傷をつけなく
てすみます。その上運賃が半減しました。それよりも喜
ばれたのは、このおかげで地元の新田開発にも利用でき
て、村々は豊かになりました。
▼荒川三山東岳(悪沢岳)【データ】
★【所在地】
・静岡県静岡市と長野県下伊那郡大鹿村との境。JR静岡
駅からバス、畑薙第一ダムから送迎バス、椹島から歩い
て9時間30分で荒川三山東岳(悪沢岳)。写真測量によ
る標高点(3141m)がある。地形図に東岳(悪沢岳)
の文字と標高点の標高の記載あり。
★【位置】(電子国土ポータル)
・標高点:北緯35度30分02.61秒、東経138度10分
56.73秒(国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索)
★【地図】
・2万5千分の1地形図「赤石岳(甲府)」or「塩見岳(甲
府)」(2図葉名と重なる)(国土地理院「地図閲覧サー
ビス」から検索)
▼【参考文献】
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典22・静岡県』小和田哲男ほか編
(角川書店)1982年(昭和57)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典」村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本百名山』(新潮文庫)深田久弥(新潮社)1979
年(昭和54)
・『名山の民俗史』高橋千劔破(河出書房新社)2009年
(平成21)
・『山の伝説・日本アルプス編』青木純二(丁未出版)1930
年(昭和5)
……………………………………………………………………………
山旅通信【ひとり画ッ展】題名一覧へ【戻る】
……………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」HPトップページへ【戻る】
|