山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1180号-(百伝080)北岳「白峰三山と神を怒らせる雨乞い」

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【本文】

▼【北岳とは】
 南アルプスの北部にある「北岳」・「間ノ岳」・「農鳥
岳」を白峰三山(白根三山)といっています。この三山
は、単に白峰(根)山(しらねさん)と呼ぶほかに、甲
斐白根山(かいしらねさん)・白峰山(しらみねさん)
・甲斐ヶ嶺(かいがみね)・白根三山(しらねさんざん)
・白峰三山(はくほうさんざん)とも呼ぶそうです。

 白峰(根)山は三山のほかに、北岳から南にのびる小
太郎尾根の「小太郎山」・北岳から東にのびる池山尾根
の池山・また北岳と間ノ岳の間にある「中白根山」・農
鳥岳の西にある「西農鳥岳」・その南にある「広河内岳」
(ひろこうちだけ)などがあります。

▼【山名】
 白峰(根)とは標高が高く、まわりの山々より冠雪期
間が長く、峰が白くめだつためにつけた名前だそうです。
山名は『平家物語』(巻十)「海道下(くだ)り」にで
てくる平重衡(たいらのしげひら)歌から由来している
といいます。つまり平家の公達の平重衡が、源平合戦に
敗れて、捕虜になって鎌倉に送られました。

 そして駿河の手越(てごし・いまの静岡市)のあたり
にきた時、雪の積もった山を見て「手越を過ぎていけば、
北に遠ざかりて雪白き山あり、問えば甲斐の白根とぞい
う」と詠んだのが「白根」の名のはじまりとか。また鎌
倉時代の『海道記』(作者不明)にも、同じような記述
が、さらに江戸中期の『裏見寒話』にも「富士山に続い
ての高山也、盛夏まても雪あり、其年中絶さるを以て、
白根ヶ嶽の名あり、此山を甲斐ヶ根とも云ふ」とあり、
どの歌にも「雪で白い山」が出てきます。

 そんな大ざっぱな呼び方も、時代が経て知識が増すに
したがい、北にあるから「北岳」、間にあるので「間ノ
岳」など、三山の名も各峰ごとに細かくつけられはじめ
ます。そんな過度期には混乱もあり、「白根ヶ岳(中略)
一名甲斐ヶ根ともいふ 又農鳥山ともにいふ、是は夏農
の時期雪の消(きえ)方によりて、農具の形或は鳥の形
顕る」(『裏見寒話』)などと、白根山(白根ヶ岳)の異
名に農鳥岳をあげているものもあったそうです。

▼【北岳】
 さて昔白根(峰)山の代名詞だった北岳は、白峰三山
の主峰で、富士山に次いで2番目の標高(3193m)です。
江戸時代の甲斐国四郡の地誌にも「一、白峯 此(ノ)
山(ハ)本州第一ノ高山ニシテ(中略)南北ニ連ナリテ
三峯アリ、其(ノ)北ノ方最モ高キ者ヲ指シテ今専ラ白
峰ト称ス」(『甲斐国志』巻之三十三・山川部)とあり、
やはり北岳を白峰といっています。

▼【北岳の高山植物】
 高山植物は、この山の名がついたキタダケトリカブト、
キタダケヨモギ、キタダケナズナ、キタダケソウなど特
産種や特産変種のほか、ミヤマキンポウゲ、シナノキン
バイ、ウサギギク、イワカガミ、ハクサンチドリなどな
ど図鑑がないともったいない位です。

 北岳には、東面大樺沢に大樺沢に向かって高さ600m
の大岩壁(北岳バットレス)があり、山頂肩には瓢池と
も呼ばれる白根御池、また傾斜がきつい急登の「草すべ
り」もあります。なかでもバットレスの険しさは、山岳
宗教の修行の場に適しています。そんなわけか、江戸中
期には北岳山頂に「白根大日如来」がまつられていたら
しい。

▼【日の神黄金の像】
 先記の地誌『甲斐国志』に、「相伝フ山上ニ日ノ神ヲ
祀ル、其ノ像黄金ヲ以テコレヲ鋳ル長サ七寸許リ容(イ
ル)ル銅室ヲ以テス、高サ二尺二寸広サ方八寸其ノ四隅
ニ鈴ヲ掛ク、風吹ケバ声アリ」(巻之三十三・山川部)
とあります。

 この一文、頂上には日の神をまつる20センチくらい
の黄金でつくった像があり、それを70センチくらいの
銅でつくった祠の中に納めてある。銅の箱は、四隅に鈴
がかけてあって、「風吹ケバ声アリ」としています。こ
の祠は明治時代まではあったらしく、明治〜昭和の登山
家・小島烏水はこの鉄板を見たといっています。これが
大日如来(大日如来、天照大神ともいう)のことでしょ
うか。

▼【白根御池】
 さらに『甲斐国志』は白根御池(瓢池)のことにも触
れています。「峯下一里半許リニ瓢(ヒサゴ)池ト云フ
アリ、長サ百五十歩広サ八十歩許リナルベシ、(2行:
又一説ニ大加牟婆ノ池廿八歩ニ十八歩許リト云フ是レト
異ナリヤ否ヤ未詳)、登拝ノ者米ヲ其ノ中ニ投ズルニ清
浄ノ人ナレバ其ノ米底ニ沈ミ不浄ノ人ナレバ浮ミテ沈マ
ズト云フ」とあります。

 白根御池は、広河原から草すべり経由で登る途中、白
根御池小屋近くにある直径20mくらいの小さな池。当
時は瓢(ひさご)池と呼び、白根山(北岳)に登る人は
米をこの池に投げる風習があったようです。ここは雨乞
い信仰の池で、干ばつがつづくと国中地方(笹子峠から
西)の村人は、講を組んで参詣登山、池の中に牛馬の骨
を投げ入れたという(「芦安村誌」)ことです。

 このようにふるくから山の中の池には神がいると信じ
られ、いろいろな供え物をして神の意向を伺おうとする
習慣はあちこちにあります。ほかの地方にも、ゴミや汚
いものを神聖な池に投げ入れて、わざわざ神を怒らせて
雨を降らせる例はよくあります。こうなれば人間が神を
手玉にとっているわけですよね。

▼【開山】
 北岳の開山は、1817年(文化14)ころで(または明
治2(1869)年との説も)、山梨県芦安の行者名取直衛
という人が、郡役所に「開闢願書」を提出して、広河原
・白峰御池・北岳のルート開いたそうです。そしての北
岳山頂に「甲斐ヶ峰神社」の本宮を、白根御池の下方に
中宮を、また夜叉神峠入口に前宮を建立しました。ちな
みに夜叉神峠は、この白根三山の展望台になっています。

 しかし、詣でる者もなく、せっかくの名取の努力もむ
なしく、各社は荒廃してしまったといいます。それから
33年後、ウェストンが登ったときにはその残がいが残っ
ていたということです(「極東の遊歩場」)。

 また『白根山脈縦断記』小島烏水)に、「小さい石祠
がある、屋根には南無妙法蓮華経四千部と読まれた、大
日如来だいにちにょらいと書いた木札が建ててある、私
たちの一行より、二十日も前に登山した土地測量技師や、
昨年登山した東京の人たち、山麓蘆安あしやす村でよく
聞く名の森本某、名取某の名刺が散らばっている」あり
ます。

▼【幻の石祠】
 この文に関連して『甲斐の山旅・甲州百山』の中で、
蜂谷緑氏が書いておられた、「以前山頂の石祠で写真を
撮った、それから十数年後、その屋根のかけらを確認し
た」との一文を読みました。「ン!もしかしたらわが家
の写真にも、もしかするかも……」。

 早速北岳山頂の古い記念写真をひっぱり出し、ルーペ
で探しました。細かい岩だらけの写真の一枚の隅に、確
かに祠の屋根らしいものがあります。だがしかし、なん
てことだ、脇に足を組んで座っている人のデカイ登山靴
がジャマになって……、う〜ん、どうしても確認できま
せん。いまとなっては、アア。残念。



▼北岳【データ】
★【所在地】
・山梨県南アルプス市芦安(旧山梨県中巨摩郡芦安村)。
中央本線甲府駅の西30キロ。JR中央本線甲府駅から
バス、広河原から歩いて7時間45分で北岳。三等三角
点と標高点がある。

★【地図】
・2万5千分の1地形図「仙丈ヶ岳(甲府)」or「鳳凰山
(甲府)」(2図葉名と重なる)



▼【参考文献】
・『甲斐国志』(松平定能(まさ)編集)1814(文化11
年):(「大日本地誌大系」(雄山閣)1973年(昭和48)
所収
・『甲斐の山旅・甲州百山』蜂谷緑ほか(実業之日本社)
1989年(平成元)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県」磯貝正義ほか編(角
川書店)1984年(昭和59)
・『白峰山脈縦断記』小島烏水:「山岳紀行文集 日本
アルプス」岩波文庫、岩波書店1994(平成6)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『中世日記紀行集』福田修一ほか校注(岩波書店)1990
年(平成2)
・「旅と伝説」三元社(1942年(昭和17)1月号)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成4)
・『日本歴史地名大系19・山梨県の地名』(平凡社)199
5年(平成7)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
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