山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

…………………………

▼1177号-(百伝077)甲斐駒ヶ岳「伝説の神馬と摩利支天の天狗」

…………………………

【本文】

▼【甲斐駒とは】
 駒ヶ岳という山は日本各地にたくさんありますが、大
体は良馬の産地または駒の雪形、馬の伝説などに由来し
ています。南アルプスの山梨県と長野県境にそびえる駒
ヶ岳(甲斐駒ヶ岳・標高2967m)は、そのなかでも最高
峰です。ただ富士山の外輪山にある駒ヶ岳(一名浅間ヶ
岳)は、標高3710mで別格ではありますが…。

 ここ甲斐駒ヶ岳は見た目にも、いかにもドッシリとし
たその雄姿はミゴトだとの評判があります。その山頂か
らは北に八ヶ岳、北アルプスの山なみ、西に中央アルプ
ス、南に仙丈ヶ岳から北岳つづく南アルプス、富士山な
どがの望めます。高山植物もあり、急傾斜地にはチシマ
ギキョウ、イワウメ、イワベンケイ、ガンコウラン、ミ
ネズオウなどがみられます。

 江戸時代の甲斐の国の地誌『甲斐国志』(かいこくし)
にはこんなふうに紹介しています。その「巻之三十、山
川部第十一」に、「一駒ヶ岳 横手・台ヶ原・白須諸村
ノ西ニ在リ、……山上ヲ甲信ノ界トス、(……中略……)。
(勘五郎の石小屋、一条ノ石小屋あり)「……此ヨリ上
ハ絶壁数千丈ニシテ攀援(はんえん)スベカラズ木樵山
伐ノ者ト雖(モ)至ラザル所ナリ、遠ク望メバ山頂ノ岩
窟ノ中ニ駒形権現ヲ安置セル所アリ」と、ふたつの石室
より上は、絶壁で木こりさえ行けないと解説しています。

▼【山名】
 ここ甲斐駒ヶ岳の山名の由来も良馬の山地からだとい
うほか、いくつかの説があります。(1)山中に神馬の
天津速駒(あまつはやこま)がすむという伝承にちなむ
説、(2)残雪の雪渓の雪形が馬の形であることにちな
む説。(3)山梨県巨摩(こま)郡第一の峰だから。(4)
このふもとは高麗からの渡来人が多かった。(5)聖徳
太子の黒駒が空を飛び、ここに降りたという伝説から
(「聖徳太子伝暦」)。(6)山の形が駿馬がかける形に
見える説、(7)良馬の産地説などなどがあります。

 ここの駒ヶ岳は、甲斐の国にあるので甲斐駒ヶ岳と呼
ばれていますが、甲斐(山梨県)だけでなく長野県伊那
市との境にもなっています。一般的に使われている甲斐
駒ヶ岳(甲斐駒)の名は中央アルプスの駒ヶ岳(木曽駒
ヶ岳)と区別するために使われています。しかし、甲斐
駒ヶ岳の名は、もとは山梨県側のみの呼び方だったそう
です。

 長野県側の人は、同県伊那地方からはこの山は東側に
見えるので「東駒ヶ岳」とか、「東駒」と呼んでいたら
しい。また以前は白崩山(しろくずれやま)、赤河原岳
の名もあったようです。この白崩山とは、山頂の花崗岩
が白く崩壊した様子をいっています。また明治の初めこ
ろは駒ヶ岳と、白崩山は別の山だと思われていたようで
すから、地元の人は混乱していたんでしょう。

▼【山頂の祠】
 甲斐駒ヶ岳の山頂には一等三角点(2965.6m)と、甲
斐駒ヶ岳神社の本宮のブロックの祠があり、開山威力不
動尊や石碑がまつられています。この祠は、白州町にあ
るふたつの駒ケ岳神社の奥宮で、大己貴神(おおなむち
のかみ=大国主神)がまつられ、また、修験道の信仰の
威力大権現が祀られています。前宮は前掲の山梨県北杜
市白州町横手地区と白州町の竹宇の2ヶ所にあり、両方
とも黒戸尾根経由での甲斐駒ヶ岳への登山口になってい
ます。

▼【駒飼い国】
 さて甲斐駒だ木曽駒だとにぎやかですが、そもそも甲
斐国の「甲斐」とはどこからきているのでしょうか。そ
の昔、富士山のふもとにすんでいた竹取の翁(おきな)
が「かぐや姫」を見つけるところからはじまります。あ
る日爺さんが竹やぶの中で、ウグイスの卵から生まれた
かぐや姫を養子にしました。

 月日が過ぎて、田んぼの作業があまり忙しいので婆さ
んが、何も手助けしないかぐや姫に愚痴をいいました。
これを聞いたかぐや姫は怒り、富士山に登って頂上の岩
を蹴破りました。当時はまだ富士山は煮えたぎった山。
たちまち溶岩が流れ出し、里は焼けただれてしまいまし
た。竹取の爺さん婆さんは大慌てで白根ヶ峰へ逃げたと
いいます。

 また農作業に使われていた馬も「信州駒ヶ岳」の峰に
逃げ、そこにすむようになったといいます。そして「其
ノ駒主ヲワスレズ、ツネニナレシカバ、カノ馬ヲコゝロ
ニ入レテ飼(カヒ)シユヱナリ。コノトコロヲ飼国(カ
ヒコク)ト云。シカルヲカナガキニ甲斐(カヒ)トカク
ナリ。黒駒トモ云モ、甲斐ヨリイヅルナリ」なのだそう
です(「国名風土記」続群書類従による)。甲斐(かい)
の国とは馬を「飼い」育てる国だったのですね。

▼【ライチョウ】
 山を歩いていてライチョウに出会うことも楽しみのひ
とつです。江戸時代の甲斐の見聞記『裏見寒話』には、
「此山ニ雷鳥トイフ鳥アリ、大サ白鳥程有リテ黒毛ニ嘴
ト足黄色ナリト云フ」という記事があります。これは甲
斐駒ケ岳のライチョウを紹介した最初の文献だそうで
す。

▼【修験道】
 この山も修験道の山。開山は江戸時代後期の文化13
年(1816)信州諏訪の延命行者によって行われ、さらに
文政年間に新たに行場が開かれ、鉄剣・石像・石碑など
いまも各所に残っています。延命行者は弘幡行者ともい
い、本名は小尾権三郎といったそうです。竹宇駒ヶ岳神
社からの黒戸尾根に向かい、笹ノ平手前に「粥餅石」(か
ゆもちいし)があり、水場になっています。ここは甲斐
駒を開山した延命行者が修行の一千日の間、粥餅しか食
べなかったということに由来しているといいます。

▼【駒ヶ岳神社】
 山頂の駒ヶ岳神社奥宮に対する前宮が、山ろくの横手
地区と竹宇地区の2ヶ所にあります。ここも神仏混淆の
「駒形権現」が、明治時代の神仏分離令の影響を受け、
駒ヶ岳神社に改名しました。しかし、当初の駒ケ岳教の
風習が残り、奥宮を登拝する「駒ヶ岳講」などが、いま
も行われているそうです。

▼【横手・駒ヶ岳神社】
 2ヶ所の前宮のうち、北杜市白州町横手にある横手駒
ヶ岳神社は、祭神が大己貴神(おおなむちのかみ=大国
主命)や、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、少彦名
命(すくなひこなのみこと)、素盞鳴命(すさのおのみ
こと)、保食神(うけもちのかみ)などの神をまつって
います。

▼【竹宇・駒ヶ岳神社】
 もうひとつ前宮・白州町竹宇にある竹宇駒ヶ岳神社
は、主祭神が大己貴神(おおなむちのかみ=大国主命)
で、配祀として少彦名神(すくなひこなのかみ)、 天
手力男神(あめのたぢからをのかみ)がまつられている
のだそうです。

▼【大己貴と建御雷神話】
 突然ですが、日本神話の『古事記』の神代記などに出
てくる「出雲の国譲り」の時の話です。高天原から派遣
された建御雷神(たけみかづちのかみ)は、十拳剣(と
つかのつるぎ)を波頭にさかさまに立て、その剣先にど
っかとあぐらをかいて、大己貴命(=大国主命)に、国
譲りをせまったという話があります。

 大己貴命は仕方なくOKしたのですが、その子・建御
名方神(たけみなかたのかみ)はせっかく苦労してここ
までにつくったのにと、国譲りを承服しません。しかし
相手は相手は建(猛々しい)御雷(厳めしい)という意
味の神でもある建御雷神(たけみかづちのかみ)です。
そこで二人の神は、力比べで勝負を決めることになりま
した。

 大国主の子の建御名方神(たけみなかたのかみ)が手
を出すと、建御雷神(たけみかづちのかみ)の手がサッ
と「剣の刃」に変わり、その上、雷を司る神であり空を
切り裂く太刀まで持っていて、まるで勝負になりません。
建御名方神は、とうとう破れ、長野県の諏訪湖まで逃げ
て来て諏訪大社の祭神になったということです(『古事
記』上つ記)。神様の世界も強いもの勝ち。いつ領土を
めぐり攻めてこられるか厳しい世界のようです。

 諏訪湖の神として落ち着いた建御名方神は、周辺の山
々を眺め見るうち、甲斐駒ヶ岳に目がとまりました。神
はこの山の雄姿を見て、その崇高さにうたれ、父親神(大
己貴命・大国主命)をその山頂にまつりました。それが
この山の奥宮のはじまりだといいます。

 横手・駒ヶ岳神社の祭神に少彦名命の名が出てきます
が、これは大己貴神との大・小(少)の対比かららしく、
よくコンビとしてまつられているケースです。ほかに雄
略朝というから、大和時代に出雲国の宇迦山から神の座
を移したとする資料もあるそうです。

▼【甲斐の黒駒伝説】
 甲斐駒ヶ岳のいわれと切っても切れない有名な「甲斐
の黒駒」について、こんなエピソードがあります。『日
本書紀』に出てくる話です。韋那部真根(いなべのまね)
という人は斧の使い方の名人で、仕事の正確さは右の出
る者がいないと評判でした。それを聞いた天皇はどうし
たわけか、真根(まね)の斧の正確さにかえっていらだ
ち、彼の目の前で、裸の女官同士で相撲を取らせました。

 さすがの韋那部真根(いなべのまね)も、女官の裸体
には気になります。真根は女官たちに気をとられ手元が
くるい、斧で指に怪我をしてしまいます。すると天皇は
「けしからん。朕を恐れず、みだりに軽々しいことを」
と怒って、真根を処刑するように刑吏に命じたのです。
(それはアンマリだ)。

 すると、仕事仲間が真根(まね)が処刑されるのをい
たんで、「ああ、惜しむべき韋那部(いなべ)の工匠(た
くみ)よ。彼は立派な技術者である。もう彼の技術を継
ぐものはいないだろう」と歌ったのです。この歌を聞い
て天皇は後悔しました。「うっかり貴重な人を失うとこ
ろだった」。天皇は甲斐の黒駒を引き出させ、それに真
根(まね)の処刑をやめるよう使者を乗せて処刑場に走
らせました。

 なんとか処刑中止が間にあったのを知った天皇は、「ぬ
ば玉の 甲斐の黒駒 鞍著(くらき)せば 命死(いの
ちし)なまし 甲斐の黒駒」と詠みました。「甲斐の黒
駒に、もし鞍を置いたりしていたら、手遅れになって、
工匠は処刑され死んでいただろう。甲斐の黒駒よ。と歌
った(雄略天皇十三年九月の条)のだそうです。それほ
ど甲斐の黒駒は足が速いってことでしょうか。

▼【聖徳太子と甲斐の黒駒伝説】
 こんどは聖徳太子と甲斐の黒駒についての話です。平
安末期の成立の歴史書である『扶桑略記』に「六年戌午
夏四月。太子二命左右一。求二善馬一。并符二諸国一令レ貢。
甲斐国貢二一烏駒四脚白一。……」。つまりこんなことの
ようです。飛鳥時代の598年(推古6)4月、聖徳太子
が、全国の牧場に馬の貢上(こうじょう)を命じました。

 集まった数百頭の名馬のなかから、甲斐の国から献じ
られた「4本の足だけ」が白い烏駒(くろこま)を選び、
愛馬として飼育させました。9月になり、太子がその「甲
斐烏駒」に乗ってみると、その馬はたちまち雲の中に飛
び去りました。やがて帰ってきたのは、3日後だったと
いうことです。その間に、太子はまず富士山頂に行き、
その後は信濃国をまわっていたのだということです。

▼【天津速駒伝説】
 それとは別の伝説があります。竹宇駒ヶ岳神社の言い
伝えによると、甲斐駒ヶ岳には昔から、神馬・天津速駒
(あまつはやこま)という不老不死の白馬がすんでいた
といいいます。これは資料によっては中央アルプスの木
曽駒ヶ岳の馬とあり、甲斐駒ヶ岳に入れるべきか迷いま
す。しかしこの駒はどうやら、生まれたのは甲斐駒ヶ岳
ですが、翼があって空を飛べるため、時々伊那谷を飛び
越えて、木曽駒ヶ岳に遊びに行ったようなのです。

 その証拠に駒ヶ根市の北割地区に、「馬蹄石」と呼ば
れる1.2mほどの平らな石があり、深いくぼみと削った
ような跡があります。この神馬が東駒ヶ岳(甲斐駒ヶ岳)
から伊那谷を飛び越え、西駒ヶ岳(木曽駒ヶ岳)へ跳ん
だ時、この石の上につけた跡で、削ったように見える部
分は、すべった跡なのだというのでず。

 天津速駒は建御雷神(たけみかづちのかみ)の霊から
生まれたとされる勇猛果敢な名馬だとか。この神は前述
のように、『古事記』の神代記に出てくる「出雲の国譲
り」に出てくる神。大国主の子・建御名方神(たけみな
かたのかみ)を諏訪湖まで追いかけてきて降参させまし
た。天津速駒は、不老不死の神馬、両肩に銀色の翼を生
やし、大空を飛び、夜は甲斐駒ヶ岳の山頂で眠るといい
ます。

 この駒は精気に富んでいて、どんな虚弱な人でもこの
駒に出合えば、全身に活気がみなぎるといわれています。
北杜市を流れる尾白川という川は、この神馬の白い尾か
ら名づけられています。尾白川渓谷は甲斐駒ヶ岳に源を
発する女性的な美しさを秘めた渓谷で千ヶ渕・神蛇滝・
不動滝など数多くの滝や渕があり、その清冷な水は、名
水百選にも選定されています。

 そんなことはともかく、そのころ、栃木・福島・茨城
県境の八溝山(やみぞさん)にどう猛な八岐大蛇(やま
たのおろち)がすんでいました。この大蛇を退治せよと
の勅命を受けた那須の国造(くにのみやっこ)が、出陣
するのですが、相手が強すぎて手も足も出ません。そこ
で国造は、かねてから聞いていた天津速駒を探しに甲斐
駒ヶ岳へやってきました。

 しかし、速駒は雪のあるときは峰々をさまよっていて
とても見つけられません。夏になり山上の水がなくなる
と、山中のとっておきの秘められた泉の姫ヶ泉(秘めが
泉)に水を飲みに出てくるということを聞きました。国
造はその泉を探して歩き回り、姫ヶ泉で水を飲んでいる
速駒を見つけました。でもただ近づいたのではとても捕
まえられる相手ではありません。国造は絹の衣を着て這
いながら徐々に近づいて行きました。速駒はそれを雪だ
と思い油断しているすきをみて手綱をつけて捕らえるこ
とができたのでした。

 そして、北アルプスの乗鞍岳から天安鞍(あめのやす
くら)を借り受け、同じく立山から天広盾(あめのひろ
たて)を、槍ヶ岳からも天日矛(あめのひぼこ)を借り
受けました。こうして暴れん坊の神馬からも決して落ち
ない鞍、相手の数に応じて広がる盾(たて)、矛先が燃
える槍を持った那須の国造は、勇気百倍千倍。天空を自
由に飛び回る天津速駒に乗って八溝山へと向かいまし
た。

 すると八溝山から、すざましい大旋風が巻き起こり、
毒の霧が立ちこめました。しかし速駒にとってはなんの
障害にもなりません。毒霧の間をかいくぐり大蛇に近づ
き、ついに退治してしまったといいます。その後甲斐駒
ヶ岳に、戻った天津速駒はいまも雪の積もる峰々や、谷
々をさまよっているということです。

▼【摩利支天山の天狗伝説】
 さて、甲斐駒ヶ岳にコブのようにくっついているよう
な岩峰は摩利支天です。この山の名はいわずと知れた仏
様の名前です。私たちがよく見る仏像はおおまかに、如
来と菩薩、それに天部、明王、さらに羅漢(らかん)の
5つに分けられますが、摩利支天 はその天部に属する
仏像だそうです。摩利支天はいつも日天に従い、自在の
通力を有する女神だといいます。しかし山頂東南側の絶
壁は、女神とは思われぬ荒々しさ。頂上に壊れた像と、
摩利支天を象徴する鉄剣をまつっているのがその名の起
こりだといいます。

 こんな山に天狗がすみ、時々山ろくにあらわれるとい
います。こんな話があります。あるふもとの山小屋に木
こりが住んでいました。そこに大男がたずねてきて「お
れは天狗だが、毎日木の実ばかり喰っている。たまには
米の飯を食ってみたい」といいました。木こりは「それ
なら喰うといい」といって米の飯をごちそうしました。
大男は、米の飯をうまそうに食べました。そしてその礼
として鳥を手づかみにしてもってきてくれました。

 そして「世話になったが、急用で岩手県の早池峰山(は
やちねさん・1913.6m)に行って来る」といってヒラヒ
ラ飛んでいきました。この男は、頭巾(ずきん)と一本
歯の高下駄(げた)を置いていきました。頭巾は大男が
いつも頭にかぶっていたもの。黒の布で作り、12のひ
だがあり、お互いに結びとめてあります。しかし驚いた
ことに頭巾には十六弁の菊の紋章(天皇家の紋章)がつ
いていたということです。またこんな話も残っています。

 ある農家の娘が外風呂(家の外にある風呂)に入って
いました。ところが突然の激しい夕立が降ってきました。
あわてる娘。父親が大声で叫けびました。「だれか手を
貸してくれ。風呂桶(おけ)を家の土間に運ぶんだ」。
すると「承知した」といって大男が現れ、お膳でも運ぶ
ように風呂桶を軽々と家の土間に入れてしまいました。
そして大男は、一本歯の高下駄(げた)で宙に浮かぶよ
うにヒラヒラしながら出ていきました。人々はあれは摩
利支天にすむ天狗に違いないと噂しあったということで
す。(『アルプスの伝説』ナカザワから)



▼甲斐駒ヶ岳【データ】
★【所在地】
・山梨県北杜市(旧北巨摩郡白州町)と長野県伊那市(旧
上伊那郡長谷村)との境。中央線日野春駅の西14キロ。
JR中央本線甲府駅からバス、広河原乗り換え北沢峠、
歩いて4時間20分で甲斐駒ヶ岳。一等三角点(2965.6m)
と、写真測量による標高点(2967m)と、甲斐駒ヶ岳神
社の本宮がある(この神社は山頂に本宮があり、里宮は
前宮になっている)。地形図上には駒ヶ岳の山名と三角
点の標高がある。(旧2万5千分地形図にはすぐ北西に
標高点の標高があらわれる)。三角点より東方向直線約
95mに鳥居の記号がある。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索
・標高点:ポータルには現れず(2万5千分地形図のみ
表示)
・三角点:北緯35度45分28.52秒、東経138度14分12.48


★【地図】
・2万5千分の1地形図:「甲斐駒ヶ岳(甲府)」



▼【参考文献】
・アルパインガイド39「南アルプス」白籏史郎(山と
渓谷社)1979年(昭和54)
・『裏見寒話』(うらみかんわ)宝暦2年(1752)、甲府
勤番の士、野田成方(のだ・しげかた)著
・『甲斐伝説集』(甲斐民俗叢書2)土橋里木著(山梨
民俗の会)1953年(昭和28)
・『甲斐の山旅・甲州百山』蜂谷緑ほか(実業之日本社)
1989年(昭和64・平成1)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県』磯貝正義ほか編(角
川書店)1984年(昭和59)
・『角川日本地名大辞典20・長野県の地名』市川健夫ほ
か編(角川書店)1990年(平成2)
・「郷土研究」第2輯・第1冊:北巨摩郡教育会編(北
巨摩郡教育会)1935年(昭和10)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・
西宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『古事記』:新潮日本古典集成・27『古事記』校注・
西宮一民(新潮社版)2005年(平成17)
・『コンサイス日本山名辞典』(三省堂)1979年(昭和54)
・『新稿日本登山史』山崎安治著(白水社)1986年(昭
和61)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『信州の伝説』浅川欽一ほか(日本の伝説・3)(角
川書店)1976年(昭和51)
・『竹取物語』(旺文社全訳古典撰集)雨海博洋訳注(旺
文社)1994年(平成6)
・「旅と伝説」(第1巻・通巻1号〜6号)(岩崎美術社)
1928年(昭和3)1月〜6月
・『日本山岳風土記2・中央・南アルプス』(宝文館)1960
年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』(毎日新聞社編)1997年(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本書紀』巻第十四(大泊瀬幼武天皇・21代雄略天
皇13年(西暦468)9月の条):720年(養老4)刊:
岩波文庫「日本書紀」巻3(校注・坂本太郎ほか)(岩
波書店)1995年(平成7)
・『日本歴史地名大系19・山梨』(平凡社)1995年(平
成7)
・『日本歴史地名大系20・長野』(平凡社)1990年(平
成2)
・『扶桑略記』阿闍梨皇円(?〜1169(仁安4)年・平
安後期):「国史大系・第12卷」國板勝美ほか編纂(吉
川弘文館)1965年(昭和40)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)
・『山の伝説』(青木純二)(丁未出版)1930年(昭和5)

……………………………………………………………………………

山旅通信【ひとり画ッ展】題名一覧へ戻る
……………………………………………………
「峠と花と地蔵さんと…」HPトップページ
へ【戻る

 

…………………………………………………

【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
……………………………………
 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室