山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1176号-(百伝076)空木岳「ウツギの花と木曽義仲」

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【本文】

▼【空木岳とは】
 空木岳(うつぎだけ)は、中央アルプス主脈の中央に
あり、その名は春になっても残雪が山頂あたりに白く輝
き、すでにふもとで咲いている植物のウツギの花が梢に
群がっている感じから来ているといいます。その空木岳
の北側主稜に「木曽殿越・きそどのごえ」という鞍部が
あります。

▼【高山植物】
 山頂から北稜一帯には、チングルマ、タカネツメクサ、
ツガザクラ、オヤマノエンドウ、ミヤマキンバイ、トウ
ヤクリンドウ、イワギキョウ、チシマギキョウなどの高
山植物がみられます。また空木平には、ヨツバシオガマ、
クロユリ、ウサギギク、ハクサンチドリなどのお花畑が
広がります。


▼【山名】
 空木岳の山名は、すでに明治39(1906)年発行の高頭
武著『日本山岳志』という文書や、同じころの小島烏水
著『日本アルプス』(第3巻)の中に出てきます。しか
し、当時農商務省が発刊した2万分の1地形図の木曾図
幅には、空木岳に該当するところに駒ヶ岳として2864m
の標高が記されています。ちょっと不思議ですが、山の
名前は地域によって、時代によって変化していきます。

 空木岳ははもともとは、明治初期までは、木曽駒ヶ岳
から南へ南越百山(みなみこすもやま)(2569m)あた
りまでを総称して「駒ヶ岳」と呼んでいました(『下信
濃国上伊那郡図』)。しかし、木曽駒ヶ岳名がはっきり
したあたりから「前駒ヶ岳」(1911年陸測5万分の1地
形図「赤穂」)になり、のちに「ウツギヶ岳」(上伊那
郡町村誌宮田村」)と呼ばれていました。大正期以降に
なって、「空木岳」に統一されたそうです。

 山名の空木(うつぎ・)はウノハナ(ユキノシタ科の
落葉低木のウツギ)のこと。東ろくの伊那地方から山頂
を望むと、雪形がウツギに似ているためとか、また実際
にウツギが多く生えているといいます。そんなことから
農民が「空木岳」と呼ぶようになった(『日本山名事典』)
といわれています。

 空木岳は5、6月ころ、山頂東斜面の空木カール状地
形に積もった雪は、まだ深く岩峰があらわれることが少
なくまだ白く輝いている状態です。伊那谷のふもとから
見ると、中腹から下のシラビソやトウヒの黒々とした木
々に対比し、まるでウノハナが梢に白く群がり咲いてい
る姿そのままの感じに見えることからついたともいいま
す(『駒の残雪』)。

 『駒の残雪』の著者の向山雅重(大正・昭和期の長野
県の郷土史家)。その文章を『信州山岳百科2』から引
用させていただくと、「その東斜面の緩やかなカール状
地形に積もっている雪は深く5、6月になっても、岩峰
などの現れること少なく、まことに白皚々(がいがい)
と輝いている。中腹以下はすでに白檜(※しらべ・シラ
ビソの別名)、唐檜(※とうひ)の茂るくろぐろとした
姿なのに、頂は輝く雪、それは丁度「うつぎ」(卯木・
卯の花)の花がその梢の上に群がり咲いている姿そのま
まである。しかも山麓は、六月ともなれば卯木の花ざか
り、この卯木の花ざかりの頃あいに、青空に咲きいでた
ウツギを思わせる山容を称えて、いつ、誰がいいはじめ
たともなく、ウツギ岳と親しみ呼ばれるようになったの
ではなかろうか……」と記しています。

 また同じ東ろくの駒ヶ根市から見て、空木岳の前山に
もなっている池山(1774m)にウツギが群生しているか
らなどの説もあるそうです。空木岳の名は明治39(1906)
年の『日本山岳志』(高頭武著)や小島烏水の『日本ア
ルプス』(第三巻)に出ています。しかし不思議なこと
に、当時農務省が発行した2万分の1地形図の木曽図幅
には、空木岳に該当する場所に「駒ヶ岳」として2846m
の標高が記されているといいます。

▼【幻の祠】
 さて、各地の山の頂上には必ずといっていいほど「祠」
がありますが、空木岳山頂にはないのでしょうか。清水
栄一氏は『信州百名山』の1954年(昭和29)の登山記
として、「……頂上には、大きな花崗岩と白砂の中に、
小さな祠が伊那谷に向かって置かれていた」と述べてい
ます。すわ早速と、調べに登った時はすでになく、何を
まつってあったかははっきりしません。

▼【木曾の殿越え伝説】
 空木岳の北西側の鞍部に「木曽殿越」という所があり
ます。この木曽殿というのは木曽義仲のことだといいま
す。ここには義仲が馬に乗ったまま、「木曽殿越」越え
て伊那谷にいる平家方に向かって太田切本谷を駆け下り
たという伝説があります。木曾義仲は平安時代後半の武
将。清和源氏の嫡流源為義の次子義賢(よしかた)の次
男です。

 1154年(久寿元・きゅうじゅ)、義仲が誕生した翌年、
父の源為義が甥の源義平との戦いで戦死します。義仲は
孤児になってしまいましたが、乳母の夫である木曽の土
豪中原兼遠のもとにかくまわれました。治承4年(1180
・平安時代)5月、源頼政が高倉宮以仁王(たかくらの
みやもちひとおう)を奉じて平氏打倒の挙兵しました。

 それに応じて伊豆に流されていた源頼朝がたちあがり
ました。木曾の山中で成人した木曽義仲も、源頼朝挙兵
の約1ヶ月後平氏打倒の旗を木曾谷に兵をあげました。
義仲27歳だったといいます。ではいつ「木曽殿越」を
越えて太田切本谷を下ったのでしょうか。

 さて、鎌倉幕府が編纂した歴史書『吾妻鏡』(巻一・
治承四年九月・九月大)治承四年九月七日の項に次のよ
うな一文があります。……ここ(長野県伊那地方)に平
家の方人小笠原平五頼直といふ者有り、今日軍士を相具
して、木曾を襲わんと擬す、木曾の方人村山七郎義直、
并(なら)びに栗田寺別当大法師範學等、此事を聞きて
当国市原に相逢いて勝負を決す、両方合戦半にして、日
已に暮る、然るに義直箭(や)窮(つ)きて、頗る雌伏
し、飛脚を木曾(義仲)の陣に遣はして、事の由を告ぐ。
仍って木曾、大群を率ゐ来りて、競ひ到るの處、頼直其
威勢に怖れて逃亡す……。

 つまり、伊那谷に住む平家方の小笠原平五頼直(「信
州山岳百科2」では笠原平吾照直になっている)と、木
曽方の村山七郎義直らが戦いました。形勢不利とみた木
曽側は陣に飛脚を走らせました。状況を聞いた木曽義仲
が大軍を率いて馳せ参じたため、小笠原平五はその勢い
に恐れをなして逃亡した…とあります。まさにこの時、
義仲はいまのJR中央本線倉本駅あたりから山に入り、
空木岳の鞍部の「木曽殿越」から断崖のような大田切本
谷をまっしぐらに下り、伊那谷に侵入したということで
す。

 このように『吾妻鏡』本文には見あたりませんが、江
戸後期になって書かれた天保3年(1832)『駒ヶ岳お尋
書』にはそれらしい記述があります。つまり、「…又寿
永2年帯刀先生義賢(たちはきのせんじょうよしかた)
(東宮帯刀先生=源義賢)の一子駒王丸二歳の時木曾に
隠し成人して義仲と號す令旨(りょうじ)に由りて義兵
揚ぐ此時笠原天神山の城主笠原平吾義仲を討んと欲し兵
八百余人を発し片桐小八郎村上(??不鮮明)又市等と
市原に戦ひ敗走して菅の官者と太田切ノ城に入る。…

 …此時義仲不意を謀り笠原城を焚(※たか)んと欲し
駒嶽の神霊に武運長久を祈る此時神馬教導の神夢を蒙り
て嶮絶を越へ(今木曾殿越ト称ス)笠原の城を夜討し平
氏を追ひ国家を平治し朝日将軍と號す」とあり、内容が
より具体的になっています。ところが、小笠原平五頼直
の名については参考文献によって多少差違があり、この
物語自体も歴史書や百科辞典などには「そういう伝説が
あるが史実はない」と素っ気なく書いてあります。しか
し、そこはそれ山と伝説のなかで遊ぶこと、どうぞご勘
弁ください。

▼【呪文を唱える鹿】
 空木岳にはこんな伝説もあります。木曽殿越で猟師か
ら聞いた話だといいます。「去年の夏、山ろくの村での
盆踊りを見ていたら、輪の中でひときわ背の高い女性が
いた。はて、このあたりでは見かけん女だが。猟師はつ
ぶやいた。

 その女性は、手ぬぐいを頭からかぶっていいた顔は分
からない。しばらくすると雲間から月が出てきた。月の
光に照らされて、踊っている者たちの影が、地面に浮か
び出てきた。アレッ、何だあれはっ。見知らぬ背の高い
女の影は鹿の姿だった。

 いつの間にかその女は見えなくなっていた。しかし、
女がかぶっていた手ぬぐいは、たしか「伊奈川屋」と屋
号が染めてあった。その猟師はことしの夏、空木岳で「伊
奈川屋」の手ぬぐいを拾っている。ところで、村のある
家の庭に、餌を拾いに来る数頭の鹿がいる。その中に、
上手に山伏の唱える呪文をあげる鹿がいて村中の評判に
なっていた。

 ある時その評判を聞いて、本当の山伏がその家にやっ
てきた。「われわれ山伏の呪文を唱える鹿がいるそうだ
が、呪文というものは、自然力、神、人を意のままにす
るもの。鹿とは考えられぬ。ぜひ聞きたい」。山伏が鹿
を待っていると、やがて数頭の鹿があらわれ、「水ホウ
ズキ」をならすような声で鳴いた。するとそのなかの一
頭が、呪文を上手に唱えはじめた。

 村人は得意げに「ほらね、上手に唱えているでしょう」。
でも山伏は、「イヤ、われわれには、ただの鹿の鳴き声
にしか聞こえぬ」と素っ気なくいい、村から帰っていっ
た。しかし、村の人々は、あの鳴き声は「山伏の呪文」
だと固く信じているそうだ」(『アルプスの伝説』)。

▼【登山道・マセナギ】
 ちなみに、駒ヶ根市萱ノ台から池山を経て空木岳を目
指す登山道にマセナギという場所があります。マセナギ
とは、馬小屋の入り口にかける横棒−マセン棒のように、
ナギが登山道を通せんぼしているところ。ここは崩落が
ひどく、マセナギの縁を横切る道は通れない。現在はマ
セナギの手前から森林帯をやや太田切側に迂回して大地
獄のくさり場、小地獄のハシゴ場を通り、迷尾根から山
頂に登るようになっています。

▼【南駒ヶ岳】
 空木岳の南に南駒ヶ岳があります。かつてこのあたり、
木曽駒ヶ岳(本駒)から伊那谷に沿って、南方の越百山
(こすもやま)一帯へかけて走る稜線を、空を駈ける竜
に見たてて、駒ヶ岳と総称していたらしいといいます
(『信州百名山』)。明治時代の『日本山嶽志』や、『長
野県町村誌』には、空木岳や南駒ヶ岳の名はないそうで
す。ただズ〜ッと北にある本峰や木曽駒ヶ岳などにひっ
くるめられた場所に、「駒ヶ岳」とだけ記されているそ
うです。当時の地図はこのように大ざっぱだったようで
す。

 さて南駒ヶ岳の山頂付近の大岩の陰に、黒い屋根の南
駒ヶ岳神社の祠があります。これは何か。南ろくの飯島
町発行の『飯島町誌』下巻によれば、この頂上付近に祠
を造って神々をまつったという話は言いつたえられてい
ないそうです。ただ、1921(大正10)年、飯島青年会が
初めて南駒ヶ岳に登っ時、祠がすでにあったとのこと。
これは多分、木曽側の人たちが建てた祠ではないかと推
測されています。

 のち、伊那側から南駒ヶ岳への登山道ができてからは、
飯島青年会が祠の修復や改築を行ったといいます。時は
移り、1940(昭和15)年、南駒ヶ岳神社奉賛会を組織。
奉賛会がが中心になって登山口の市ノ瀬に大鳥居を建立
します。その後、有志による参詣登山が行われてきたそ
うです。しかし、いま残っているのは鳥居の礎石だけになってしまっています。


▼空木岳【データ】
★【所在地】
・長野県駒ヶ根市と木曽郡大桑村との境。飯田線伊那福
岡駅の西11キロ。JR中央本線倉本駅から7時間30分
で空木岳。二等三角点(2863.71m)がある。と写真測
量による標高点(2863.7m)。地形図に山名と三角点も
標高と、東側に駒峰ヒュッテの文字記載あり。

★【位置】(電子国土ポータル)
・三角点:北緯35度43分8.36秒、東経137度49分
1.44秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「空木岳(飯田)」


▼【参考文献】
・『吾妻鏡』:岩波文庫『吾妻鏡』(一)龍 粛訳注(岩
波書店)1997年(平成9)
・『アルパインガイド・29』(中央アルプス・御嶽・恵那
山)(山と渓谷社)1980年(昭和55)
・『アルプスの伝説」山田野裡天(ナカザワ)
・『角川日本地名大辞典20・長野県」市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『駒ヶ岳お尋書』天保3年(1833):「駒ヶ岳研究第一
輯」・上伊那教育会編・1940年(昭和15)所収)(長野
県宮田村役場提供)
・『信州山岳百科2」(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『信州百名山」清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌」日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山名事典」徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『山の紋章・雪形」田淵行男著(学習研究社)1981年
(昭和56)

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