山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1174号-(百伝074)木曽駒ヶ岳「ふたつの神社と濃ヶ池の伝説」

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【本文】

▼【木曽駒ヶ岳とは】
 駒ヶ岳という山は全国にあり呼び方も地元では、ただ
「駒ヶ岳」と呼ぶので紛らわしくて困ります。なにしろ
1989年(昭和64・平成1)に「駒ヶ岳友好連峰会議」が
でき、「全国駒ヶ岳サミット」が開催されている程の多
さなのだそうです。

 中央アルプスのここの駒ヶ岳(2956m)でも近くに南
アルプスの駒ヶ岳(2967m)があります。そこで中央ア
ルプスの方を「木曽駒ヶ岳」とか、「西駒ヶ岳」と呼び、
南アルプスの方を「甲斐駒ヶ岳」とか東駒ヶ岳といって
います。なるほど伊那谷からみると、西に木曽駒ヶ岳が、
東に甲斐駒ヶ岳が見えます。ところが木曾谷からは、木
曽駒ヶ岳が東に見えるので「東岳」と呼んだというから、
なおややこしくなってしまいます。

 木曽駒ヶ岳は中央アルプスの主峰で、本岳の西隣りに
ある木曾前岳、また南東隣りにある中岳、さらに東方の
伊奈前岳などを含む総称だそうです。この山は激しい風
化で峰や谷が多い山。江戸時代後期の『信濃奇勝録』(巻
4)にも「○駒ヶ岳、実に屏風を立てたるが如し、俗に
三十六峰八千谿(たに)と云」とあり「三十六峰八千谷」
という異名もあるそうです。

 しかしいまでは、千畳敷までロープウエイで簡単に登
れ、お花畑のカールが広がり、大勢の観光客や登山者で
にぎわっています。さらに2時間あまりで木曽駒ヶ岳の
山頂に登ります。山頂には方位盤もあって、宝剣岳や南
方に宝剣岳や三ノ沢岳、東南には甲斐駒ヶ岳、北岳など
南アルプスなど思いのままです。

▼【ライチョウ】
 話は変わりますが、中央アルプスでは、半世紀前に絶
滅したとされるライチョウの「復活作戦」行われてきま
した。実際、いま木曽駒ヶ岳で実施中で、成功しつつあ
るとのことが報道されています。ライチョウは昔から神
の使いとして大事にされ、国の特別天然記念物にもなっ
ています。

 ここ木曽駒ヶ岳にも昔からライチョウが相当数いたら
しく、高遠藩の木曽駒ヶ岳の1回目検分登山報告書「駒
ヶ岳一覧記」に「岩鳥は雉(きじ)の如き鳥にて脇下尾
下共に薄白く 足は指まで毛生え黄色にて少し赤味あり
 追い立て候いて舞い申さず 此鳥も七八合目より峰ま
での間に多分相見之候」と出ています。

▼【西向き木曽側の神社】
 ここの山もかつては信仰の山だったそうで、山頂には
ふたつの「駒ヶ岳神社」の奥社が建っています。登山者
がさい銭をあげているのは、たいがい山頂にある西向き
の大きい方の神社です。里宮は西ろくの上松町徳原(と
くばら)にある駒ヶ岳神社で、ここは木曽側からの駒ヶ
岳登山口になっています。

 山岳宗教としては、南北朝時代の暦応1年(1338)、
西ろくの木曽側から、「八社の大神」(『駒ヶ岳御尋書』)
に出てくる佐陰の峯、月陰峯、宝剣峯、前嶽、日陰峯、
駒鼻岬、甕(かめ)ノ原、濃ヶ池)の大神を山頂にまつ
ったのがはじまりといいます(『日本山名事典』)。

 のち室町時代の天文元年(1532)7月、木曽上松の徳
原長大夫春安という人が、山頂に駒ヶ岳神社を建て、保
食大神(うけもちのおおかみ)という神さまをまつりま
した。その後本社を山ろくの「上松野尻」地区に移し、
産土神(うぶすながみ)としたのがこの駒ヶ岳神社のは
じまりだそうです。

 保食神は大宜都比売神(おおげつひめのかみ)ともい
います。『日本書記』では、保食神が月読命(つきよみ
のみこと)をもてなすため、口からいろいろな食べ物を
吐き出しました。それを見て怒った月読命が「けがらわ
しい」と保食神を殺してしまったたという伝記がありま
す。

▼【東向き伊那側の神社】
 その山頂の神社のすぐ東側、東(伊那側)を向いてい
る神社は、伊那側の人たちがまつった駒ヶ岳神社の奥社
です。この祠は登山道から少し下にあり、地味なためか
イマイチ目立ちません。この祠はいつ建立したかは不明
ながら、天保3(1832)年に西春近小出(いまの伊那市)
の平沢貞一という行者が再建、また安政6年にも改築し
たという記録があります。さらに何回か改修。1957年
(昭和32)大改築をしているそうです。

 ここの駒ヶ岳神社は、はじめ山そのものがご神体であ
る駒ヶ岳大権現(垂迹神(すいじゃくしん)は衣食住の
祖神である保食神・うけもちのかみ)をまつっていまし
たが、明治の廃仏棄釈で大混乱。神仏混合の「権現」で
はけしからんということで、いまでは、国常立命(くに
とこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、
少彦名命(すくなひこなのみこと)、春日皇大神(かす
がこうたいじん)、月読命(つきよみのみこと)ほかの
大勢をまつっています(昭和32(1967)年改築記録)。

 ちなみに、木曽駒中岳には宮田村の駒ヶ岳神社がまつ
られ、伊那前岳には赤穂町(いまの:駒ヶ根市)の駒ヶ
岳神社がまつられているそうです。なにかの本でみまし
たが、日本人は山があればナントしてでも山頂に神さま
をまつりたくなるとありましたが本当のようですね。

▼【山名】
 さて、ここの「駒ヶ岳」山名の由来にはいろいろな説
があり、どれをとるか迷うほどです。まず(1:馬の雪
形説。(2:木曽駒を産する山だからとの説。(3:ま
た山頂に馬の形をした岩があるからとの説。(4:古く
からの神馬伝説。(5:さらに山容が駒に似ているから
の由来説などなどです。

▼【馬形の岩】
 そのうち、(3:の山頂に馬の形をした岩があるから
との説については、『遠山奇談』後篇「巻之二」第十一
章「駒ヶ岳并駒岩に瑞ある事」にこんなことが書いてあ
ります。ちなみに『遠山奇談』とは、江戸時代後期の天
明8年(1788)の京都大火で焼失した東本願寺御影堂を
再建するため、華誘居士(かゆうこじ)が建築材の調達
で遠山を訪れた時見分した珍しいことをまとめた本で
す。

 それによると、「……駒ヶ岳より昔名馬を出せし所と
いふ。むかし天平の比(ころ)、八月神馬を献ず。黒毛
白髪白尾也といふ。ここによって駒ヶ岳の名あり。名馬
の出しは、いにしへのことなれども、今も山の中の岩を
見るに、……。心を付(け)てみれば自然に馬の像あり。
馬に見ヘし岩、これ又沢山あり。其勢ひ生(き)たるご
とく夏雪のまだらなる時は、それぞれ毛色のごとく美し
く見ゆ。今は名馬なけれども、自然(じねん)石の馬あ
るは、駒ヶ岳の妙なり」と出てきます。また木曽側では
駒ヶ岳の手前の麦草岳にも馬の形の岩があり、山名の由
来になっています。

▼【雪形いろいろ】
 木曽駒ヶ岳にはいろいろな雪形もあらわれます。山頂
近くの東側に、駒飼の池という山上池があります。雪解
けのころに伊那谷から眺めると、黒駒が頭を下げて駒飼
の池の水を飲んでいるように見える雪形があらわれるそ
うで、山名由来の一つになっています。ロープウエイの
千畳敷から急坂を登った乗越浄土の東にある伊那前岳に
も、雪解けのころ種まき爺さんの雪形が出て、農作業の
目安になっていたそうです。

 また、木曽駒ヶ岳本峰の北東の、将棊頭山(しょうぎ
がしらやま)の稜線付近にも2頭の駒の雪形があらわれ
ます。さらに宝剣岳から稜線を少し南下した、極楽平近
くの島田娘南東面にも島田まげの娘の雪形が出て、南ア
ルプス前衛の入笠山からでもはっきり確認できます。

▼【信長の神馬探し】
 またこの山には、昔から神馬が住むと信じられ、信仰
の対象になっていることも山名由来のひとつになってい
ます。時代は戦国時代、この山に伝承される神馬の話を
伝え聞いた織田信長が、神馬を探しに行くつもりだった
というのです。

 江戸中期、宝暦7年(1757)松平秀雲(君山)が著し
た木曽地方の地誌『吉蘇志略』(きそしりゃく)という
本の「巻第二 上田の項」駒嶽の条に載っている話です。
「駒嶽 是木曾東嶽也其高数千仞(じん・両腕を広げた
長さ)数峰連続一峰頂有石形若(ごとし)馬故名……」
と漢文で書かれています。これは大体下記のようなこと
が書かれています。

 「駒ヶ岳。是(れ)木曾の東嶽なり、其(の)高さ数
千仞(じん・両腕を広げた長さ)にて数峰連続す、其(の)
一つの峰は頂きに石有り、形馬の若(ごと)し故に名づ
く。或は曰(い)ふ、此(の)山に神馬有り故に名づく
と。按(あん)ずるに三季物語に、織田右丞(うじょう
・織田信長)甲州を征伐し、軍を回すの日諸将に謂(い)
ふて曰く、吾(れ)聞く信州駒(ヶ)嶽に、四百年来神
馬あり、…

 …明年は諸国の卒徒(そつと・兵卒)を督(うなが)
し、此(の)山を囲み、之を猟得せん、源右幕下(源頼
朝のこと)の富士の狩(り)に倣(なら)ふべき也。そ
の年明智光秀の為に弑(しい)に遭(あ)ひ、其(の)
事遂に輟(や)む」と、まあ、こんなことになるらしい
です。

 ちなみ『三季物語』という文献は、作者不詳、年代も
江戸時代のいつごろか成立時期は不詳で、刊本もありま
せん。また信長は天正10年(1582)、美濃岩村から伊那
谷に入り北進して、3月に高遠城を滅ぼし、さらに諏訪
から甲州に進みます。そして武田を滅ぼしたのち、その
足で東海道を上洛(京へ向かう)して6月に「本能寺の
変」に遭っています。もし、明智光秀の本能寺の変がな
かったら、伝説の神馬を捕まえることができたのでしょ
うか。

 また1829年(文政12年)刊行の信濃の奇談短編集「信
濃奇談」(巻之下・駒ヶ岳)には、「みだりに神物(※
確認済み)を得ましく欲したまひしゆゑに、その咎を得
給ひしなりと後の人評しき」と、皮肉っています。木曽
駒はとかく馬に関深い山ではあります。さすが「駒ヶ岳」
ですね。

▼【木曽駒の神馬をみた】
 江戸中期の『新著聞集』(しんちょもんじゅう)とい
う本の「勝蹟篇第六・信州駒が兵馬化して雲に入る」の
項にもこんな話が載っています。寛文4年(1664・江戸
時代も前期)、尾張(いまの愛知県)の大目付佐藤半太
夫、勘定方天野四郎兵衛、金役天野孫作、材木役都築弥
兵衛、小目付真鍋茂太夫など、えらい役人たちが木曽路
を見まわりやってきました。

 見まわりの前日、山村甚兵衛家来ふたりが地元の農夫
を案内役にして、木曽駒ヶ岳に登ったというのです。一
行は、やぶや草木をふみわけ、岩や木の根、つたなどに
つかまりながらよじ登っていきました。頂上付近にやっ
てきたとき、突然目の前に大きな「あし毛の馬」があら
われました。

 その馬は首の毛や尾が、地面に垂れて引きずるほど長
く、眼の光は鏡のように輝き、身の毛もよだつ恐ろしい
形相をしています。馬は、役人らの人影を見ると、彼ら
を無視するように峰の中央に静かに登って行きました。
そんな時、霧の雲が急にわきだしてしまい、雲のなかに
隠れて、とうとう見失ったといいます。役人たちがあわ
てて馬のいた場所までかけより、地面を見ると大きな蹄
の跡があり、長さが30センチ以上もあったそうです。

▼【高遠藩検の分登山】
 また江戸中期、高遠藩が、木曾駒ヶ岳の山中を3回も
団体で検分登山しています。第一回めは元文元年(1736)
に、第二回めは宝暦6年(1756)に、第三回めは天明4
年(1784)に行い、それぞれ(1:「駒ヶ岳一覧之記」、
(2:「後駒ヶ岳一覧之記」(宝暦六年駒ヶ岳一覧記と
も)、(3:「登駒ヶ岳記」という記録を残しています。

▼【駒ヶ岳一覧之記】
 「第一回目検分登山の『駒ヶ岳一覧之記』の内容は、
大体次の通りです。「元文元年(1736)の検分登山は、
高遠藩郡代安藤太郎兵衛政陽を長に、計114人という大
部隊であった。一行は8月5日、高遠を出発し小出村に
2泊して準備を整た。8月7日、権現山からスズタケの
薮の中を進み、午後5時ごろ東芝山のある平地に野営し
た。

 8月8日、濃ヶ池のほとりに到着。高台に登ってみる
と、木曽駒本岳ははるか遠くで白雲がまとわりついてい
る。岩ままた岩でどこから登っていいのか分からない。
案内人に聞くと、わしらもここから先に行ったことはな
いとのこと。すでに日は傾き、午後4時をまわってしま
った。しかし、山頂を見残しての下山は何ともかえがた
いというので、登りはじめ、午後4時半ついに頂上に着
いた。

 山頂は鍋を伏せたような丸い山だった。頂上には12、3
センチ角で、長さが1mほどの木の柱が2本立っており、
下の部分は石で固めてあった。柱は2本とも文字が消え
ていたが、固めた石から引き抜いてみると、「案内だれ
だれ」と農民の名前が消えずに残っていた。これは8,
9年前に飯田、木曾からの検分登山した際、建てたもの
思われた。

 中村左衛門がこの木の柱に、『元文元丙辰(ひのえた
つ)八月八日御名内、内藤庄右衛門、安藤太郎兵衛、同
金左衛門、岩瀬丈右衛門、中村甚左衛門従者ともにて二
十一人、小出殿島両村の人足九十三人都合百十四人登山』
と記入して下山にかかった。8月9日、午後5時ごろ権
現山の上に着くと、出迎えのものが迎えてくれて、酒や
肴でねぎらてくれた。夕刻小出村に一同無事下山した。」
と、あります。

▼【後駒ヶ岳一覧記】
 「第二回目検分登山の報告書「後駒ヶ岳一覧記」(「宝
暦六年駒ヶ岳一覧記」とも)の内容は概略次の通りです。
「第一日目の(宝暦6年・1756)8月11日、昼ごろ登
山口の宮田に着き、登山の準備をととのえた。8月12
日は、帰命山(きみょうざん)から中御所谷を遡り、清
水小屋先の平地にある木樵の小屋に一泊。8月13日、
小横川の渡、大横川の渡を渡り、「中御所の平」経由し
て前岳の5,6分目上のハイマツの中で野営した。

 8月14日。夜明けて宮田村の役人たちが、夕べ尺丈
岳(宝剣岳)で火が燃えていたといい、人足たちまでこ
のような所に泊まるのは不承知だという。理由を聞くと、
このような尾根先は天狗の通路になっており、木こりな
ども夜、こういうところにはいないといい出す。そこで、
それなら村方の者は山の平(千畳敷)にいって泊まれと
いい、自分だけその場で泊まった。

 8月15日。ここを未明に出発。「前岳の本岳」へ登り、
しばらく検地した。この「前岳」より「本岳」へ移る間
に、人足たちが「山男の足跡」があったという。そこへ
行ってみるとなるほど、大きな人の足跡のようなものが
あった。「一の岳」(前岳の頂上)に登りはじめると高
山植物のクロユリなどがあらわれた。

 やがて「尺丈ヶ岳」(宝剣岳)に下ると、村役人や人
足たちが、大声を出さないよういっている。わけを聞く
と大声を出すと山が荒れるという。そこで前夜火が燃え
ていたと人足たちがおびえていた尺丈ヶ岳(※宝剣岳)
の中腹へ6匁(もんめ・約22.5グラム)の鉄砲を一発
はなち、また大きな岩を落として、かけ声をかけながら
大声で騒いでみたところ、別に変わりはなかった。

 それより「尺丈ヶ岳」をまわって「天狗岩」を検分し、
絵図に写した。そして要所要所を絵図に書きしるしなが
ら、「二の岳」(中岳)を経て「三の岳」(本岳頂上)へ
登った。しばらく休憩し「濃ヶ池」の様子を検分した。
この峰に長さ3尺(約1m)幅3寸(約10センチ)の
杭と、同じ太さで長さ2尺(約60センチ)の杭が立っ
ている。

 雨や風にさらされ、文字は読めないが、そのそばの板
きれに「酒五、升差し上げ申候」、その下に「宮ノ腰、
大野村」などと書きつけてあった。さらに「四の岳」、
「四の峰」から「本つるね」を経て「濃ヶ池」へ下り水
中の様子を検分した。この水はかねてから毒水の由、し
かるに水の流れは宮田村に落ち、用水として使用してお
り、不審に思い飲んでみたが支障なかった。そこから大
釣根(おおつるね・馬の背)へ出て、小尾根を越えたと
ころで泊まった。

 私も以前、「濃ヶ池」のほとりにテントを張ったこと
がありました。その時、この池の水を汲んで夕食用の際
使いましたが、別にふつうの水でした。毒水ではない証
拠にまだ生きています。それから20年くらい経ったあ
る夏、再び訪れましたが池の水は干上がっていました。

 先述した「尺丈ヶ岳」で燃えた火につき、調べた結果、
人足がハイマツの中に焚き火をし、たばこを吸うため杭
に火をつけたものを見誤ったものと判明。また山男の足
跡といって騒いだのも、その場所に行って見ると熊の糞
が所々にあり、熊の通り道でもあることから、これも熊
の足跡であることがわかった。

 5日目の8月15日は、大釣根、小室岳(こむろだけ
・将棊頭山)を経て急坂を下り、黒津へ出て、泥ヶ池を
調べてから権現釣根を経て、午後6時に小出村に着き、
この大登山を終わった。

▼【登駒ヶ岳記】
 第三回目の報告書「登駒岳記」の概略です。それによ
ると、「一行は郡代坂本天山はじめ80人あまり。天明3
年(1783)7月23日、宮田を夜に出発、7月24日、摩
髯石(いまの髯摺岩(ひげすりいわ)で黒川を渡り、大
滝の上の小屋で泊まる。7月25日、大滝のわきに縄を
張り、一歩一歩攀(よ)じ登り前岳の上に出る。

 石の上の所々にひずめの跡があって、山の駿馬のつく
ったものだという。最高点から畳岩峰にくると、ウズラ
のような鳥を見かけたが名は分からない。ここに黝(く
ろ・青黒)い石があり、石質が密で字を刻むのによいの
で銘をつくり石工に刻ませた。金策峰(宝剣岳)にくる
と、同行の2人は峰に登ったが、自分はあえて登らなか
った。

 さらに北へ行くと広い平地があった。山霊が馬を調教
したところといわれる所で、かたわらに石がゴロゴロし
ていた。北の方を眺めると、三越(越中、越後、越前)
の諸山が重なり合っていた」。この時刻んだ銘は、勒銘
石(ろめいせき)と呼ばれ、いまも残っています。それ
には「霊育神駿(霊は神駿を育み)、高逼(ひつ)天門
(高く天門に逼(せまる))、長鎮封域(長く封域を鎮
め)、維岳以尊(これ岳ははなはだ尊し)」と刻まれて
います。(※維(これ)はあとに続く語を強調する意)。

▼【濃ヶ池伝説】
 その昔、木曽駒岳山ろくの木曽町(旧木曽郡木曽福島
町)大原という里に美しい娘がいました。その娘を毎日
高い山の上から見ていたものがいました。木曽駒ヶ岳の
濃ヶ池のヌシです。あまりの美しさにすっかり夢中にな
った蛇身のヌシは、その娘を自分のものにしたいと思う
ようになりました。そこで密かに娘に妖術をかけました。
夜中になると娘の髪が逆立ちし、恐ろしい顔に変わるよ
うにしたというのです。

 そのため娘は、婿さんを貰って結婚をしても夜中に婿
が逃げてしまいます。次に結婚してもまた一晩で婿さん
は逃げだします。3度目4度目も同じこと。ある晩、ふ
と鏡で自分の顔を見た娘は気がつき驚きました。何とい
う恐ろしい顔に顔になっていることでしょう。娘はわが
身を悲しみ何日も泣きつづけました。

 そんなある日娘は決心しました。ヤナギの枝を杖がわ
りにつきながら、娘は何かに誘われるように山に登りは
じめたのです。やがて頂上近くの池にたどり着きました。
そこは木曽駒ヶ岳の濃ヶ池でした。娘は、池のほとりに
杖を差すと水中に身を投げてしまいました。池のヌシが
妖術で娘を呼んでいたのです。娘は深い池の底に沈んで
いきました。いまでも濃ヶ池のそこからは娘の機を織る
音が聞こえ、芽のふいたヤナギの枝がすすり泣くといい
ます。

▼【早太郎伝説】
 木曽駒ヶ岳のふもと、駒ヶ根市にはヒカリゴケで有名
な光前寺というお寺があります。正式な名前は、天台宗
別格本山 宝積山 光前寺。長野県では善光寺に次ぐ名
刹といいます。そのお寺に伝わるはなしです。

 昔、木曽駒ヶ岳に山犬がすんでいましたが、お産が近
くなりふもとの光前寺の縁の下で子犬を生みました。和
尚さんはかわいそうに思い、いろいろと面倒を見てやり
ました。親犬は山へ帰るとき和尚さんの親切を思い、子
犬を一匹預けて行きました。和尚さんは「早太郎」と名
前をつけて大事に育てました。

 そのころ遠州府中(いまの磐田市)の天満宮では、毎
年お祭り前になると怪物が、年ごろの娘のいる家の屋根
に白羽の矢を立てて、生け贄を要求して来ていました。
この話を聞いた旅の僧が、怪しんでひそかに天満宮にし
のんで様子をうかがっていました。すると怪物があらわ
れ、「信州信濃のヘエボタロウに知られるなスッテンテ
ン」と歌いながら、生け贄の娘をさらって行きました。

 「ヘエボタロウとは何だ」。旅の僧は信州にやってき
て苦労の末、ヘエボタロウとは、光前寺の犬ということ
が分かったのです。僧は早太郎を借りて遠州府中に帰り、
天満宮に生け贄の娘の身代わりに置きました。夜中にな
ると怪物があらわれました。飛びかかる早太郎。早太郎
と怪物は激しく戦いました。そしてついに怪物は退治さ
れ、早太郎が勝ちました。怪物は年を経た大きな狒狒(大
ダヌキとも)でした。

 一方、木曽駒ヶ岳のふもとの光前寺の和尚さんは早太
郎が心配で、眠らずにお経をあげていました。明け方に
なり犬の声がするので見ると、早太郎が血だらけになっ
て帰ってきました。そして、和尚さんの顔を見るなりド
ッと倒れ、息をひきとりました。村人は、早太郎の霊を
慰めるため、早太郎を遠州府中の弁財天へ連れて行った
旅の僧(天神社一実坊弁在)の書き写した「大般若経六
百巻」を光前寺へ納めたということです。

 この伝説が江戸時代の中期以降に、「光前寺犬不動霊
験記」などの書物で読まれ、世の中に広く知れわたった
ということです。そしてこの早太郎の伝説がとりもつ縁
で、磐田市と駒ヶ根市は姉妹都市になっています(『信
州の伝説』)。

▼【天津速駒】
 なお、木曽駒ヶ岳に「天津速駒」(あまつはやこま)
伝説があるとする資料(『山の伝説』・「旅と伝説」など)
もありますが、これは甲斐駒ヶ岳の伝説とする資料(『日
本三百名山』・甲斐駒山ろく竹宇駒岳神社の看板やホー
ムページほか)や武御雷命・尾白川の関連から、南アル
プス甲斐駒ヶ岳に記述しました。

▼【天狗ばなし】
 木曽駒ヶ岳の天狗ばなしです。第二回駒ヶ岳検分の長
として「後駒ヶ岳一覧之記」を著した高遠藩の坂本運四
郎英臣が、木曽駒ヶ岳頂上に登りました。そして、そば
にあった岩に、「坂本うんぬん登山記念」という文字を
彫りつけ、そばで野宿をしていました。するとすぐ下の
山道を異数の怪物が列をつくって通りすぎて行きまし
た。見ると中央にふたりに竹竿を担がせ、その竿にまた
がった首領らしい妖怪が、羽うちわを扇いでいます。ほ
かの妖怪たちもみんな醜悪な姿形で、どれもわきの下に
羽が生えていたといいます。

 もしかしてこれは、「後駒ヶ岳一覧之記」の「前嶽の
五六分目、這い松の内にて、一夜を明かす。夜明けて宮
田村役人共、前宵比所に止宿の義、村役人、人足等迄も
不承知にて、……其趣旨相尋ね候処、凡(すべ)て斯様
(かよう)の山尾根先は、天狗の通ひ道にて、樵夫など
の類一切夜分は罷在(まかりあ)らず候由、……然から
ば……私議は直ちに其場に罷在(り)候」とある時のこ
とでしょうか。


▼木曽駒ヶ岳【データ】
★【所在地】
・長野県上伊那郡宮田村と同県木曽郡木曽町(旧木曽
郡木曽福島町)、同県同郡上松町との境。飯田線駒ヶ
根駅の北西14キロ。JR飯田線駒ヶ根駅からバス、ロ
ープウエイ千畳敷から歩いて2時間15分で木曽駒ヶ岳。
一等三角点(2956.0m)と、木曽側と伊那側の木曽駒
ヶ岳神社がふたつある。地形図に山名と三角点の標高
と神社記号鳥居の記載あり。三角点より西方160mに
木曾小屋がある。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシス
テム」から検索)
・三角点:北緯35度47分22秒、東経137度48分16秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図「木曽駒ヶ岳(飯田)」


▼【参考文献】
・『上松町の神社と仏閣』(町誌別編)長野県上松町教
育委員会1985年(昭和60)
・『アルパインガイド29・中央アルプス』(山と渓谷社)
1980年(昭和55)
・「アルプスの伝説」山田野理天(ナカザワ)出版年未
記入
・『伊那市史 現代編』(伊那市教育委員会提供)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『上伊那文化大事典』(井沢和馬)1990年(平成2)
宮田村提供
・『吉蘇志略』(きそしりゃく):宝暦7年(1757・江戸
中期)成立:信州デジタルコモンズ
・『駒ヶ岳研究』(第一輯)(上伊那教育委員会編)1940
年(昭和15)宮田村役場提供
・『コンサイス日本山名辞典』(三省堂)昭和54年(1979)
・『三季物語』2:『ふるさとの山・駒ヶ岳ものがたり』
赤羽篤(国土交通省天竜川上流工事事務所調査課提供)
・『信濃奇談』堀内元鎧?(1829年(文政12年)刊行の
信濃の奇談短編集):(『日本庶民生活史料集成16・奇談
奇聞』(鈴木棠三ほか編)(三一書房)1989年(平成1)
・『新稿日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986
年(昭和61)
・『信州山岳百科2』(信濃毎日新聞社)1983年(昭和58)
・『信州の伝説』浅川欽一ほか(日本の伝説3)(角川
書店)1976年(昭和51)
・『信州百名山』清水栄一著(桐原書店)1990年(平成
2)
・『新著聞集』(勝蹟篇第六・信州駒が兵馬化して雲に
入る)(神谷養勇軒)1749年(寛永2)刊:『日本随筆
大成第二期第5巻』日本随筆大成編輯部編(吉川弘文館)
1994年(平成6)
・『新編日本の民話・14』(長野県)(未来社)1985年(昭
和60)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・「旅と伝説」(第1巻・通巻1号〜6号)(岩崎美術社)
1928年(昭和3)1月〜6月
・『日本山岳風土記2・中央・南アルプス』(宝文館)1
960年(昭和35)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本庶民生活史料集成』第十六巻(奇談・紀聞)(三
一書房)1989年(昭和64・平成1)
・『日本の民話10・(信濃・越中編)』「信濃の民話」編
集委員会(未来社)1974年(昭和49)
・『日本伝説名彙』(にほんでんせつめいい)柳田国男
監修(日本放送出版協会)1950年(昭和25)
・『日本歴史地名大系20・長野県の地名』(平凡社)1979
年(昭和54)
・『ふるさとの山・駒ヶ岳ものがたり』赤羽篤(国土交
通省天竜川上流工事事務所調査課提供)
・『名山の文化史』高橋千劔破(河出書房新社)2007年
(平成19)
・『山の伝説』(青木純二)(丁未出版)1930年(昭和5)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室