山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1172-(百伝072)富士山「お八めぐりと伝説」

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【本文】

▼【富士山とは】
 富士山は不思議な山です。日本人ならだれでも一度は
登るといわれるほどなじみ深い富士山。見たこともない
のにその形を絵に描け、登ったこともないのに高さも知
っている富士山大昔から信仰登山が行われてきた山で
す。

 その富士山の頂上には、直径800mもの大噴火口があ
り、大内院と呼ばれています。一周が約3.5キロほどで、
そのまわりに剣ヶ峰、白山岳(釈迦ヶ岳)、久須志岳(薬
師岳)、大日岳(朝日岳)、伊豆ヶ岳(阿弥陀岳)、成就
ヶ岳(勢至ヶ岳)、駒ケ岳(浅間岳)、三島岳(文殊ヶ
岳)と八つのピークがあります。これらのピークにはそ
れぞれ本地垂迹(ほんぢすいじゃく)による仏神が配置
されています。それらを「八葉蓮華」(お釈迦様が座っ
ている蓮)に例えて「お八」といったそうです。

 これらの火口壁を一周するのがお鉢めぐり。昔は「お
八」の尊称から「お八めぐり」といっていたそうですが、
明治維新の廃仏毀釈の影響で仏教的な呼び方が廃止さ
れ、山頂の大内院(火口)を「すり鉢」に例えて「お鉢
めぐり」と呼ぶようになりました。火口には大内院のほ
か、西安河原にも小内院と呼ばれる噴火口があります。
小内院の外側を回るのを外輪コース、内側を回るのを内
輪コースと呼んでいます。

▼【富士山の誕生伝説】
 富士山は太古の昔から詩歌、紀行、史実にあらわされ、
また山岳信仰のメッカとしてあがめられてきた山。大衆
化されたとはいえ、やはり富士山は神秘の山。いろいろ
面白い話が残っています。富士山はいつできたか。科学
的な研究は専門の先生方にまかせておくとして、こちら
は相変わらず途方もない話でご機嫌を伺うことと致しま
す。富士山の誕生伝説には、「孝安天皇92年湧出説」と、
「孝霊5年湧出説」が有名のようです。

▼【孝安天皇92年湧出伝説】
 まず「孝安天皇92年湧出説」は、第6代孝安天皇の92
年というから、『日本書紀』の記述からの換算すると紀
元前301年になります。その6月のことだそうです。耳
をつんざくような大音響と共に、突然地面が盛り上がり
富士山がわき出したというのです。このとてつもなく大
きな山の出現に、まわりの村々は大騒ぎです。

 「すわ山崩れか」と表に飛び出して見ればとてつもな
い大きな山があります。人々は二度ビックリ、目を見張
りました。それからその村を「大目村」と名づけたとい
います。いまは山梨県上野原市大野・談合坂サービスエ
リア近くのあった村です。また別の村では、音楽のよう
な爆発音がやたらと大きく「賑やか」で外に飛び出し仰
天。「賑丘村」と呼ばれました。いまは大月市賑岡(に
ぎおか)町・岩殿山周辺の話です。


 またその音に「大嵐」が来たと思ったのは「大嵐村」
の人々。いまは、富士河口湖町大嵐・足和田山の東方の
人たちです。まだまだあります。また鳴沢村では、怪し
い沼の「沢鳴りか」と大騒ぎしました。いまの足和田山
の南方の村人。これは「どうした」ことだと慌てたのは
南都留郡道志村での話。また、地面にひれ伏し、まるで
毬栗(いがぐり)が、平つくばったように震えていたの
は平栗の里人。いまの都留市平栗、都留市駅の西方にあ
った村だといいます。

 そんな中で、のんびりしていたのは明日見村の人々。
一向に気にとめず外に出る者もいません。ほかの村の人
が「おーいッ。タイヘンだ。早く出てきて上を見てみろ」
と、いいながら村中歩いたが「どうせ大したことない。
あす見よう。明日見よう。」と、ものぐさをきめ込みま
した。

 ところが翌日、外に出てきたときにはには地形が変わ
ってしまっていて、永久に富士山の姿は見られないよう
になってしまっていました。いまの富士吉田市大明見、
小明見・月江寺駅の東方の人たちだったそうです。これ
は『古縁起』という古書にあるお話です。どこからかん
なとてつもない話が出てくるんでしょうか。いやあ、ま
いりました。

▼【孝霊5年湧出伝説】
 さて、次は「孝霊5年湧出説」です。つまり孝霊天皇
5年、日本書紀』の記述による年代計算では紀元前286
年になります。古川柳に「孝霊五年あれをみろ、あれを
みろ」というのがあります。これは「孝霊天皇五年、近
江国水海湛、駿河国富士湧」。江州(滋賀県)の地面が
へこみ一夜のうちに駿河の国(静岡県)に富士山が盛り
上がった。そしてへこんだところに水が溜まり琵琶湖が
出現したというのです。

 江戸時代前期の万治3年(1660)ころに刊行された『東
海道名所記』(浅井了意)という本に、富士山は「近江
のみづうみ(琵琶湖)、はじめて湛へ、その土ここにわ
き出て、この山となりたり」などと記されています。ま
た、寛政9年(1797)刊の名所案内記『東海道名所図会』
の中にも、「近州(近江)琵琶湖とともに一夜に現ずと
もいい伝えたり」との一文があります。

 さらに、江戸時代中期初頭の百科事典『和漢三才図会』
(巻第69)にも「孝霊天皇5年6月に富士山がはじめ
て姿をあらわした。そもそも江州(おうみ)の湖が一夜
に湧出してその土が富士山となったのである。だから今
でも江州人は七日精進するだけでよい。その他の人は百
日潔斎してから山に登る。登山は毎年6月上旬から7月
に至るまで。その頂上には常に煙気があって、四時いつ
も雪は消えない。ただ6月15日の1日だけ雪が消え、
その夜にまた降る」とあります。

 一方その昔、神々が駿河と甲斐(山梨県)の間に大き
な山をつくろうと相談。山頂を神々の集合場所とし、四
方の悪神ににらみを利かせようとしました。これを聞い
た上野(群馬県)に住む天狗が山づくりの速さの競争を
挑みました。しかし天狗と神との競争、勝てるわけがあ
りません。とうとう天狗は途中で逃げ出しました。こう
して出来たのが富士山。神々たちはその土を近江から運
び、あとにできた大きなくぼみは琵琶湖になったといい
ます。そして天狗がつくりかけた山はその名も榛名富士
だという話もあります。昔の人はデカイことを考えるも
のですね。

▼【富士山の三猿伝説】
 木花開耶姫(このはなさくやひめ)の昇天伝説もあり
ます。路傍の石仏、庚申塔や青面金剛塔などに3匹の猿
がそれぞれ目や口、耳を押さえている像があります。「見
ざる聞かざる言わざる」の三猿で日光東照宮の陽明門で
もおなじみです。これは伝教大師または天台大師が、天
台の不見・不聞・不言の三諦(さんたい)を3匹の猿の
形に託して表現したのが最初との説もあります。

 その三猿伝説が富士山にもありました。富士山にまつ
られる木花開耶姫は、絶世の美女として有名です。この
咲き開くサクラのような存在の姫の美しさ。そのとりこ
になった男神たちは、毎夜姫のもとに通い詰め、姫の御
殿は毎夜にぎやかでした。しかしある日、姫はそれを誇
りにしている思い上がった自分に気づきました。花の美
しさは散りゆく時。その一瞬のはかない美をこのまま地
上で散らしてはならないと考えました。

 姫は白馬に乗り、富士山山頂を目指しました。だれも
登ったことにない富士山。案の定途中で、すっかり方向
を見失ってしまいました。そこへ3匹の猿があらわれま
した。そして姫の道案内をはじめたのです。姫は猿たち
のあとについて行きました。しばらく石ばかりの急坂を
登っていくと、やっと山頂に出られました。姫は猿たち
に礼をいいました。

 しかし無事山頂に着き安心したのか馬が突然、そこに
倒れてしまったのです。それが富士山山頂にある8つの
峰のひとつ、いまの駒ケ岳(浅間ヶ岳)です。開耶姫は
猿たちに向かい「私がここにきたことを誰にもいっては
ならぬぞ」といい残し、なおも高所に登ると手にした剣
を地につきさし、天に昇っていったという。いまの剣ケ
峰(3776m)なのだそうです。

 猿たちは姫のいったとおり「見ざる・言わざる・聞か
ざる」の三戒をひとつずつ守り、ふもとに降りていきま
した。(『富士山・史話と伝説』)。それがいまの三猿伝
説だといいます。こうして木花開耶姫は「富士山開山」
の名を与えられ、次第に富士山の主祭神に祭りあげられ
ようになったということです。

▼【かぐや姫伝説】
 かぐや姫は富士山にも関係があるといいます。美しい
かぐや姫のうわさを耳にした帝は、姫を呼び、その魅力
に夢中になり、妃のように愛しました。3年が過ぎたこ
ろ、かぐや姫は「私は天女です」といい残し、不死の薬
や手紙を渡し、天に昇ってしまいました。悲しんだ天皇
は、姫から預かった不死の薬や手紙を、天に一番近い富
士山頂で燃やしてしまうよう臣下に指示しました。

 勅使(使者)は大勢の兵士を連れて富士山に登りまし
た。山は兵士でいっぱいになりました。そこで「士に富
む山」というので「富士山」と名づけたと平安時代の作
『竹取物語』にあります。また、古書の筆写本といわれ
る室町時代の『富士山縁起』には、帝からかぐや姫に贈
る王冠を預かった使いが富士山に登る途中でかぐや姫に
会い、姫は使いから渡された冠をつけて山頂に登って行
ったとあります。

 さらに南北朝時代の本『神道集』にも、かぐや姫を寵
愛していた国司が頂上にある大きな池(噴火口?)の煙
のなかにほのかな姫の姿を目撃しましたが、姫は煙の中
に身を躍らせてしまい、見失ってしまったという記述が
あります。それ以来煙は消えず「不死の煙」(富士の煙)
というのだといっています。その他にも同様な物語があ
り、かぐや姫と富士山はよく結びつけられています。

▼【二人の天女伝説】
 一方、初めて富士山頂のようすを詳しく書いた「富士
山記」(平安時代初期)には、承和年中(834〜848・平
安初期)山頂から穴のあいた珠玉が落ちてきたり、貞観
17(875)年11月5日、頂上で白衣の美女2人が1尺位
の空中を舞う目撃談があります。当時は、まだ活動して
いたであろう霊峰富士山には何か不思議な仙女でもいる
と信じられていたのでしょうか。なお、宝永山(富士山
の南東斜面にある側火山)の西側に浮き出る雪形をかぐ
や姫の雪形とし、雪姫とも呼んでいます。

▼【聖徳太子と黒駒伝説】
 さらにまた、598年という大昔、聖徳太子が25歳の時、
諸国から集めた馬の中から甲斐の国から献上された馬に
乗り、調使麻呂とともに東の方へ飛び去っていきました。
そして日本を一周、富士山頂に馬の足が触れたとしてい
ます。平安時代前半の『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』
の記述です。

 同様に平安時代後半の『聖徳太子絵伝』にも、太子27
歳のおん時とした上で「甲斐の黒駒に乗り、3日3夜日
本国を見廻るため、虚空を飛び富士山に到り給う…」と
あります。この書はさらに「富士山頂にも地獄池有り。
中に太子入給。善光寺如来、地より出給て、太子共に語
う」とつづきます。

 これらの記述にちなんだのが、五合目佐藤小屋の上に
ある八角堂わきの聖徳太子と黒駒の碑です。ふたつの石
碑の前には花も供えられてありました。また八合目の山
小屋、その名も太子館には、『聖徳太子絵伝』の記述に
ちなんだ「太子冨登嶽之図」がかけられ、聖徳太子を祭
ってあります。

▼【風の神伝説】
 またその昔、富士山火口にコノシロ池という池があっ
て、ここにはコノシロという魚がすんでいたといいます。
この魚は、富士山本宮浅間大社奥社の祭神である木花開
耶姫の眷属になっていて、富士浅間の氏子衆は決してコ
ノシロは食べないそうです(『駿河国新風土記』)。

 このコノシロ池については、こんな話があります。
江戸中期の俳文集『風俗文選(もんぜん)』の(富士山
賦)に、「絶頂ノ鮗(このしろ)・半腹ノ雀」と出てお
り、富士山頂にコノシロ池があることは昔から知られて
いたようです。

 静岡県の地誌『駿河国新風土記』(卷二十三 富士山
上)に、「此(の)峰の下の方小しく(すこしく)池
のかたちなる所コノシロノ池と称す、此池の事につき不
審あり、まつ(ず)此(の)国人の常談に富士の山上に
コノシロの池と云(う所)ありてこのしろと云(う)魚
すめり、故に富士浅間の氏子はこのしろを食はす(ず)
と云(う)ことあり」として、先の風俗文選の文を引用
しています。

 そして「……今のこのしろの池、七、八間(13〜15m
位)四方、時によりて水の有(る)こともあり、又無(き)
事もありて魚などのすむべき處にあらず」とあります。
「…魚などのすむべき處にあらず」とわざわざあるのは、
それほど一般に広く信じられていたのでしょう。先述の
とおり、古くから富士浅間の氏子はこの魚(コノシロ)
は食べないということです。

 このコノシロ池に関してこんな話があります。ある時、
風の神が富士山の開耶姫に一目惚れしてしまいました。
寝ても起きても姫のことばかり。風の神はとうとう姫を
妻にしたいと決心。いまでいうストーカーのように開耶
姫につきまといます。驚いたのは父の大山祇神(おおや
まずみのかみ)です。断れば乱暴者の風の神です。どん
な暴風を吹かせて暴れるかも知れません。ところが姫は
何を考えたか、従者をコノシロ池の魚を捕まえに走らせ
ました。

 次の日、返事を聞きに風の神がやってきました。風の
神が庭先ヘ入ってみると、みな泣きはらしています。そ
してなんともいえぬ不快な臭いがおそってきました。「姫
様がおなくなりになりました」という従者の言葉。では
この臭いは……。風の神は葬儀の煙を見て、ワァ〜ッと
ものすごい声を出しました。

 風の神は、悲しみ方も並はずれていて、「地だんだ」
を踏んで転げ回っていたということです。コノシロとい
う魚は、焼くと人を焼く臭いのする煙を出すという。こ
うして風の神に諦めさせましたが、いくら風の神といえ、
ちょっとかわいそうな気もします。

 これに似た話もあります。その昔、下野国(しもつけ
のくに・いまの栃木県)の長者に、美しい一人娘がいま
した。これを見そめた常陸国(ひたちのくに・いまの茨
城県)の国司(こくし・地方官)が、結婚したいと申し
出ました。が、娘には将来を約束した人がいたのです。
そこで親は「娘は病気で死んだ」と国司にうそをいって、
娘の代わりに魚を棺に入れて、使者の前で火葬して見せ
ました。

 それはツナシという魚で、焼くと人体が焦げるような
匂いがします。国司の使者たちは、娘が本当に死んだも
のと思い、国へ帰ていきました。それからというもの、
子どもの代わりになった魚のツナシは、子の代わり(子
の代・コノシロ)と呼ぶようになったということです。

 ちなみにコノシロ池は、富士山頂、静岡県下山道口か
ら山小屋と郵便局の間を左方へ進んだ平坦な「水溜まり」
をいうそうです。11月になるとコノシロ池も凍ってし
まいますが、池の形はしているそうです。またこのコノ
シロ池のまわりには仏教の経典が埋められているともい
います。

 このほかさすが富士山。これらのほか、日本武尊や除
福、天智天皇・役行者小角・恒武天皇・空海など登山説
などなど古書による伝説にいとまがありません。こんな
富士山も、1872年(明治5)3月、大政官の布告「神
社仏閣地に女人結界之場所有之候処、自今被廃止、登山
参詣可為勝手候事」という誰が登ってもいいというお達
し。明治政府のこの一文により、長い間つづいた「女人
禁止」の掟も解かれました。



▼富士山【データ】
★【異名・由来】
・異名:不尽、不二、布士、富慈、芙蓉峰(ふようほう)、
富岳などの呼び方がある。

・由来:天地の富を士(つかさどる)故に富士山と号し、
郡名と作(な)す。勅使が大勢の兵士を連れて登ったの
で、富士山が兵士でいっぱいになった。そこで「士に富
む山=富士山」になった(「竹取物語」)。

富士山8合9勺(はちごうきゅうしゃく=3360m)から
から上、約400万平方mは、徳川家康が富士山本宮浅間
大社に寄進したとの記録があるが、明治維新後国有地に
されていた。8合目から上の神社の施設のある約16万平
方m分は1952年(昭和27)に大社に譲与されているが、
富士山頂が返還されなかったため、大社側が国を相手取
って裁判を起こしました。1974年(昭和49)、最高裁の
判決で大社側の所有が認められた。しかし静岡、山梨の
県境が確定しておらず、登記手続きがとれず(東海財務
局)、2004年(平成16)12月17日、土地の所有権が国か
ら富士山本宮浅間神社に移った。(2004年(平成16)12
月18付け朝日新聞から)。しかし、土地の所有権は認め
られはしたものの、山頂付近の静岡県と山梨県の県境は
まだ定まっていないという。したがって、土地登記が出
来ずじまい。住所は、もちろん静岡県でもなく山梨県で
もない。所在地は、日本国富士山無番地なのだそうです。
同大社側は「これで所有権の手続きは解決した。県境の
問題は県民感情もあり、登記に向けて時間をかけて解決
したい」と話しているという。

★【所在地】富士山頂
・山梨県富士吉田市、山梨県南都留郡鳴沢村と静岡県富
士宮市、富士市、御殿場市・静岡県駿東郡小山町との境
だが八合目付近から上部は富士山本宮浅間大社の「私有
地」になっており、境界がはっきりしていない(電子ポ
ータル地形図には山梨県の町村境のラインが引いてあ
る)。富士急行河口湖駅からバス、河口湖口五合目から
5時間30分で富士山頂。山頂剣ヶ峰に電子基準点(3777.
39m)と二等三角点(3775.63m)、白山岳に二等三角
点(3756.36m)がある。火口内に写真測量による標高点
(3535m・標石はない)がある。

★【位置】(国土地理院「電子国土ポータルWebシステ
ム」から検索)
(山頂剣ヶ峰に電子基準点と三角点、白山岳に三角点、
火口内に標高点がある)
・剣ヶ峰電子基準点:北緯35度21分38.78秒、東経138度
43分38.24秒
・剣ヶ峰三角点:北緯35度21分38.26秒、東経138度43分
38.51秒
・白山岳三角点:北緯35度22分00.02秒、東経138度43分
46.42秒
・火口内標高点:北緯35度21分46.51秒、東経138度43分
53.22秒

★【地図】
・2万5千分の1地形図:「富士山(甲府)」

★【山行】
・某年7月26日(木・晴れ)



▼【参考文献】
・『役行者伝記集成』銭谷武平(東方出版)1994年(平
成6)
・『甲斐国志』第2巻(松平定能(まさ)編集)1814(文
化11年):(「大日本地誌大系」(雄山閣)1973年(昭和4
8)
・『海道記』:新日本古典文学大系51『中世日記紀行集』
福田秀一他校注(岩波書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県』磯貝正義ほか編(角
川書店)1984年(昭和59)
・『古今和歌集序聞書三流抄(こきんわかしゅうききが
きさんりゅうしょう)』:(『中世古今集註釈解題(二)』
片桐洋一(赤尾照文堂発行)1973年(昭和48)
・『古代山岳信仰遺跡の研究』大和久震平著(名著出版)
1990年(平成2)
・『山岳宗教史研究叢書・9」(富士・御嶽と中部霊山)
鈴木昭英編(名著出版)1978年(昭和53年)
・『山岳宗教史研究叢書17・修験道史料集(1)』五木
重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『聖徳太子絵伝』(秦致真・はだのちしん)延久元年
(1069年)
・『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』(藤原兼輔撰)延喜17
年(917)成立
・『詞林采葉抄』(しりんさいようしょう)釈由阿(ゆあ)
上人著(応永2・1369年)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『神道集』(巻八の四十七・富士浅間大菩薩の事)安
居院作:東洋文庫94「神道集」貴志正造訳(平凡社)1994
年(平成6)
・「新聞切り抜き」(富士山噴火シナリオ検討)(朝日新
聞01年1月26日付け)
・『図聚天狗列伝・西日本編』知切光歳著(三樹書房)
1977年(昭和52)
・『駿河国新風土記』国会図書館電子デジタルコレクシ
ョン:(第九、十輯)足立鍬太郎訂。新庄道雄(志豆波
多会)1934年(昭和9)
・『竹取物語』訳注・雨海博洋(旺文社全訳古典撰修)
全訳古典撰集1994年(平成6)
・『天狗の研究」知切光歳(大陸書房)1975年(昭和50)
・『日蓮大士眞實傳』小川泰堂(村上書店)1913年(大
正2)
・『日本山岳風土記・3』(宝文館)1960年(昭和35)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三代実録』(三代実録とも)延喜元年(901年)
:(『新訂増補国史大系第4巻 日本三代実録』(前・後
篇)、黒板勝美編、吉川弘文館、初版1937年、復刊2007
年に所収)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成4)
・『日本伝奇伝説大事典』乾勝己ほか(角川書店)1990
年(平成2)
・『日本登山史・新稿』山崎安治著(白水社)1986年(昭
和61)
・『日本霊異記』:日本古典文学全集・第6巻「日本霊
異記」中田祝夫校注・訳(小学館)1993年(平成5)
・『風俗文選(もんぜん)』【現代文】(富士山賦)(俳諧
叢書シリーズ)五老井許六編(今古堂)1891)年(明治
24)
・「富士山記」(都良香著)(「本朝文粹註釋巻第12」に
収納)柿村重松・註(内外出版)1992年(平成4)
・『富士山・史話と伝説』遠藤秀男(名著出版)1988年
(昭和63)
・『富士山よもやま話』遠藤秀男(静岡新聞社)1989年
(平成元)
・『扶桑略記』阿闍梨皇円(新訂増補国史大系第12巻)
黒板勝美ほか編輯(吉川弘文館)1974年(昭和49)
・『本朝神社考』林羅山著:『日本庶民生活史料集成・
第26巻神社縁起」(三一書房)1986年(昭和61)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新
社)2004年(平成16)
・『柳田国男全集5』柳田國男(筑摩書房)1989年(昭
和64・平成1)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室