【本文】
▼【大菩薩岳とは】
だいぶ以前になりますが、中里介山の小説「大菩薩峠」
が話題なり、以後すっかりて有名になった峠に、その名
も山梨県の大菩薩峠があります。この峠は、明治になっ
てから開かれた「いまの大菩薩峠」(新峠)と、「丹波
大菩薩峠」と「小菅大菩薩峠」の三つの峠があります。
丹波大菩薩峠は、旧の峠でいまは廃道になっています。
小菅大菩薩峠は石丸峠のこと。
いまの大菩薩峠から北に2キロ程登ったところが、大
菩薩連嶺の最高峰の大菩薩嶺(だいぼさつれい・2056.9
m)です。別名を大黒茂ノセリ、大黒茂山(おおくろも
やま)、鍋頭山(なべがしらやま)といい、富士川、多
摩川、相模川の分水嶺になっています。
▼【山名伝説】
「大菩薩」そのものの名のおこりは、(1:甲斐武田
の祖・新羅三郎義光が、平安時代、東北でおこった前九
年・後三年の役の「後三年の役」(1083〜1087年)で、
奥州出陣の際、義光は大菩薩峠で道の迷い難儀をしてい
る時、木こりが現れて道案内をした後、姿を消しました。
義光が峠に立ち、西に目をやるとはるかに八旒(りゅう)
の白旗がひるがえるのが見えました。これぞ軍神の加護
に違いないとはるかに拝し「八幡大菩薩ト高声ニ賛嘆ス
是レニヨリ遂ニ嶺(とうげ)ノ名トナルト云フ」(地誌
『甲斐国志』より)との説があります。
また(2:旧塩山市の上萩原地区にある神部(かんべ)
神社(岩間明神)の山宮がこの山にまつられており、こ
の宮の本地仏(ほんじぶつ)が観音菩薩であることから、
その名が起こったとの説もあります。本地仏とは、本地
垂迹説(すいじゃくせつ)での、この世に姿を現した神
の本当の姿である仏や菩薩をいうそうです。これも『甲
斐国志』に、「中世仏法盛ニ行ナハルヽ頃本地仏ノ観音
ヲ山宮ニ安置セラレシヨリ大菩薩ノ名ヲ得タリ」との同
神社社伝を載せています。
『甲斐国志』(山川の部)萩原山の項に、「萩原山
東ノ方都留郡ニ界フ南ハ初鹿野山・牛奥ヤナナリ嶺(と
うげ)ヲ大菩薩ト云フ(略)、又残簡風土記ニ山梨郡東
ハ限ル神部山トアルモ此ナルベシ」とあります。また(古
跡の部)神部山の項には「神部山 残簡風土記ニ山梨郡
東ハ神部山トアリ今其ノ山ハ適知スベカラズト雖モ疑ウ
ラクハ大菩薩嶺(とうげ)是(こ)レナルベシ」とあり
ます。『甲斐国志』は「嶺」をトウゲと読ませています。
こんなことから、古代は「神部山」と呼び、近世は「萩
原山」と呼んだとのことです。ただ、これは西ろくの旧
塩山市(山梨県)あたりの呼び方です。東ろくの東京都
奥多摩町に近い丹波山村(山梨県)では、大黒茂谷の源
頭にあることから「大黒茂ノセリ、大黒茂山」と呼んで
いました。また「鍋頭山」とも呼び、塩山方面の名で日
川の源流ナベガワラというそうで、そのツメにあること
からという。
この萩原山についてはこんなエピソードもあります。
近世、萩原山は上、下、中の萩原村など現在の塩山市域
にあった山梨郡10ヶ村の入会(いりあい)山でした。
ところが江戸前期の寛文13年(1673)、丹波山村との間
で山論(山に関する争論)が生まれ、延宝2年(1674
年)に幕府の裁許で、ここから北西に延びる尾根を境に
し、北麓、泉水(せんすい)谷南面は丹波山村のものと
され、他の村々の出入りは禁じられてきました。つまり、
村々の間でゴタゴタがおきてお上のご厄介になりまし
た。
▼【雷岩】
さて大菩薩嶺の山頂から南へ少し下ったところに、雷
岩という岩があります。この岩は昔は「神成岩」と書か
れ、神のいます所として崇められ場所。そんなことから、
この岩は同時に雨乞いをする場所の岩にもなっていまし
た。雨を降らせるために雷を呼ぶことから、いつしか「雷
岩」と書くようになったということです。おなじ「かみ
なりいわ」ではあります。
▼【武田勝頼終えんの初鹿野】
大菩薩嶺の山ろくの山梨県初鹿野(はじかの)地区は、
甲斐武田氏の終えんの場所でもあります。織田信長とそ
の同盟者の徳川家康、北条氏政らと戦った「長篠の戦い」
以降、武田勝頼率いる甲斐武田家は次第に勢力が衰えて
いきました。
安土桃山時代の天正10年(1582)3月、織田信長ら
の連合軍に追われに追われた武田勝頼は、自ら韮崎にあ
る新府城(しんぷじょう)に火をかけ、一族とともに甲
斐郡内(ぐんない)へと落ちていきました。郡内とは、
山梨県東部の富士吉田市・都留 (つる)市・大月市と南
都留郡・北都留郡の地域をいうそうです。
郡内の大月には、信頼できる岩殿城主の小山田信茂が
いたのです。蛇足ながら、岩殿城は都留郡北部にあり、
小山田氏の詰城とされていますが、小山田氏の本拠であ
る谷村(都留市谷村)とは距離があるため、小山田氏の
城と見るか武田氏の城と見るかで議論があるそうです。
しかしそれはそれ、まあまあでいきましょう。
物語を元に戻します。武田勝頼は、大月にある岩殿の
小山田信茂を頼っていったのですが、その信茂が謀反を
おこし、武田側から寝返ってしまったのです。勝頼一行
は笹子峠まで行きますが、行く手をはばまれ行き場があ
りません。さあ困ったどうする武田勝頼!。仕方なく勝
頼は、旧大和村日川(にっかわ)渓谷の上流にある天目
山(てんもくざん)の栖(せい・棲)雲寺をめざしまし
た。
天目山とは大菩薩山塊のふもとの木賊(とくさ)地区
(いまの甲州市大和町木賊)のあたりのこと。ここにあ
る古刹(こさつ)の栖(棲)雲寺の周辺は、中国杭州の
天目山というところに似ており、この寺に「天目山」の
山号をつけたといいます。しかし一行は天目山まで行き
つかず、田野地区で追撃軍に追いつかれて激戦になりま
した。
少数の武田勝頼軍に対し、がぜん優勢の織田信長らの
連合軍。勝負は目に見えています。勝頼は夫人とともに
自刃、甲斐武田氏は滅亡しました。そのあたりの日川(に
っかわ)は戦死者の血で何日も染まったといい、三日血
川の名が残っています。
その時、勝頼は自刃に際して、武田家重代の家宝であ
る「御旗(みはた)」と「楯無(たてなし)の鎧」を2
人の家臣に託しました。家臣の2人は日川から大菩薩峠
に登り、大菩薩嶺の山ろく裂石バス停そばにある雲峰寺
(うんぽうじ)に、勝頼から預かった重宝類を奉納しま
した。
雲峰寺は、奈良時代に行基菩薩によって建立されたと
いう古刹で、甲斐源氏武田氏累代の祈願所でした。天目
山ろくの田野(いまの甲州市田野)の景徳院には、いま
でも武田勝頼と奥方の自刃の生害石や墓が残っているそ
うです。
▼【大菩薩峠・大峰荷渡し】
さて大菩薩嶺の南方にある大菩薩峠は、江戸時代には
甲州道中の裏街道でもありました。この峠のアップダウ
ンの八里は道が険しく、人家もなく難所としても有名で
「親しらず子しらず」と呼ばれ、遭難事故も時々起こっ
たといいます。
大菩薩峠の八里についてはこんな話もあります。昔、
奈良の大仏を見た甲州人が、その大きさに驚きました。
しかし彼は「甲州に来れば小仏でも3里、大菩薩ともな
れば8里もあるわい」と大口をたたいたという話が伝わ
っています。甲州人の負け惜しみの強さをあらわす話と
して残っています。この峠の物資運搬は苦労が多く「大
峰荷渡し」という無人の荷物引き取りの習慣がありまし
た。
『甲斐国志』(その巻36)には「萩原村ヨリ米穀ヲ小
菅村ノ方ヘ送ルモノ此ノ峠マデ持チ来リ妙見社ノ前ニ置
テ帰ル小菅ノ方ヨリ荷ヲ運ブ者峠ニ置テ彼ノ所レ送ノ荷
物ヲ持チ帰ル此ノ間数日ヲ経ルト雖モ盗ミ去ル者ナシ」
と記しています。昔の峠道は、いまの「妙見の頭」の下
(賽ノ河原)を通っていたのです。この交易は明治初期
まで続き、萩原からは米や塩などが、小菅、丹波山から
は木材や木炭などが運ばれ、『甲斐国志』にもあるよう
に置きっぱなしの荷物を盗むものもいなかったというこ
とです。
▼【高山植物】
お花畑は、雷岩付近の草原に広がりシモツケソウ、テ
ガタチドリ、コウリンカ、ウメバチソウ、オオバギボウ
シ、ヤナギラン、ノアザミなどのがみられます。
▼【新羅三郎伝説】
平安時代、東北でおこった前九年・後三年の役の「後
三年の役」(1083〜1087年)で、八幡太郎義家が奥州
地方の反乱をしずめるために戦っていました。弟の新羅
三郎義光は兄の姿を見ていたたまれず、急遽奥州に向か
いました。途中、ここ甲斐の国にさしかかりましたが、
草木が生い茂ったヤブ山に迷い込み、動きがとれなくな
りました。
その時、不思議な木こりが黒駒とともにあらわれ、道
案内をしてくれるといいます。義光は見通しの利かない
ヤブの中、木こりのあとを歩いていきました。しかし木
こりの前のヤブには、自然に道ができています。不思議
に思ってよく見ると、茂った草木にかくれて目印のよう
に、所々に白い旗が立っているのです。木こりの後につ
いていくと、やがて目の前が広々とひらけました。
そして「あとは、この道をまっすぐ行けぱ、奥州へ抜
けられます」との木こりの言葉。ホットした義光が気が
つくと木こりと黒駒の姿は消えていました。そしてヤブ
道を振り返ると、遠く笛吹川のかなたに八本の白旗が見
えました。「これは軍神のご加護だったか」。義光は、「あ
あ、南無八幡大菩薩」と大声で叫び遙拝するのでした。
これが大菩薩の山名の由来だといいます。
これは地誌『甲斐国志』巻之二十三 山川部にある「義
光遙(カ)ニ西顧シテ笛吹川ノ辺(り)ヲ臨眺スレバ、
八旒(※りゅう)ノ白旗風二飄(※ひるが)ヘルヲ見ル、
即(チ)軍神擁護ノ験ナリトテ遙(か)遙拝シテ、於戲
(アア)(※戲は戯の本字)八幡大菩薩ト高声ニ讃嘆ス、
是(レ)ヨリ遂ニ嶺(ノ)名トナルト云フ」という部分
です。
▼【平将門伝説】
大菩薩嶺東ろくの山梨県丹波山村は「将門の乱」の平
将門伝説があるところです。この村には、将門の滅亡後
その一族が、剃髪してこの地に逃れたといういい伝えが
あります。村内の奥秋地区にある「天満宮」という石を
積んだ塚があり、木下家ではこれを「将門さま」と呼ん
でまつっています。
また小菅村の山沢地区にある「山沢神社」のご神体は
将門の鏡だといいます。将門が敵に追われてここまで逃
れてきて、髪を結い直していた時、不意に敵に襲われま
した。将門は鏡と櫛を置いたまま逃げていったといいま
す。山沢地区の人々はその鏡を氏神にしてまつったとい
うことです。丹波山村や小菅村にはそのほか、将門が追
討軍に追われて袂(たもと)を切られた場所だといわれ
る、小菅村田元(たもと)地区など、将門にまつわる地
名伝説がたくさんあります。
▼【裂石集落の伝説】
大菩薩の西ろく登山口、JR塩山駅からのバス停のあ
る地区の伝説です。裂石(甲州市)とは変わった地名で
す。奈良時代の天平17年(745)、人々から慕われ信仰
されていたお坊さんの行基菩薩が、当地の五穀豊穣など
を祈っていた時、大地が揺れて光を帯びた黒雲が、空一
杯に広がりました。すると突然、巨大な岩がまっぷたつ
に割れて、中から十一面観音があらわれ、さらにその裂
け目から萩の大木が出てきました。
これを見た行基菩薩は、その大木で十一面観音を彫っ
て、この地に裂石山雲峰寺を建てて、その観音を納めま
した。いまふたつに裂けたような裂石は、雲峰寺の南西
の大菩薩の湯の近くにあって史跡になっています。石の
前には行基菩薩と、猿田彦をまつったふたつの祠が建っ
ており、昔の伝説をしのばせています。
▼大菩薩嶺【データ】
★【所在地】
・山梨県甲州市塩山(旧同県塩山市)と山梨県北都留郡
丹波山村との境。中央本線塩山駅の北東10キロ。JR
中央線塩山駅からバス、大菩薩登山口から歩いて3時間
20分で大菩薩嶺(3等三角点大菩薩2056.9m)
★【位置】
・大菩薩嶺三角点:北緯35度44分55.68秒、東経138
度50分43.73秒)
★【地図】
・2万5千分の1地形図「大菩薩峠(甲府)」or「柳沢峠
(甲府)」(2図葉名と重なる)
▼【参考文献】
・『あしなか20輯』山村民俗の会
・「アルパインガイド・35」(山と渓谷社)羽賀正太郎
著
・「エリアマップ・山と高原地図・23」(塚田正信著)
昭文社(昭和56年版)
・『甲斐国志2』:「大日本地誌大系45」校訂・佐藤八郎、
佐藤森三(雄山閣)1982年(昭和57)
・『甲斐国志3』:「大日本地誌大系・別巻」(雄山閣出
版)
・『角川日本地名大辞典19・山梨』(角川書店)1991年
(平成3)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本三百名山』毎日新聞社編(毎日新聞社)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本百名山』深田久弥(新潮社)1970年(昭和45)
・『日本歴史地名大系19・山梨』(平凡社)1995年(平
成7)
・『名山の日本史』高橋千劔破(ちはや)(河出書房新
社)2004年(平成16)
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