山旅通信【伝承と神話の百名山】とよだ 時

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▼1168-(百伝068)金峰山「五丈石の池と千代の吹き上げ」

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【本文】

▼【金峰山とは】
 山梨県と長野県境にそびえる金峰山(きんぷさん・標
高2599m)。金峰山は、いまでこそ大弛峠まで車で入り
山頂往復日帰り登山の対象なっています。また山頂から
すぐそこまでカラマツの植林がせまっていますが、かつ
ては奥秩父特有の原始林でおおわれ神秘的な山だったと
いいます。

▼【山名】
 金峰山の読み方について、昔は山梨側では「きんぷう
さん」、長野県側では「きんぽうさん」と呼んでいたそ
うです。最近は「きんぷさん」が一般的のようです。ま
た金峰山だけでなく、金丸山ともいっていました。武田
信玄が残した文書には「金風山」の文字もあるそうです。
このように「金」、「金」と書くもとは、やはり武田氏
の時代、このあたりに金の採掘場所があったことから、
金鉱にかかわっているとの説もあります。

 戦国時代の天文年間(1532〜55年)以降、長野県側川
上村も武田氏の領有になりました。江戸時代中期の儒学
者荻生徂徠(おぎゅうそらい)という人が著した『峡中
紀行』には、奥秩父金峰山山頂は黄金の地だとしていま
す。西ろくには金山(かなやま)という地区もあります。
さらに北ろくにも村内にも金山があって、ここでも武田
信玄の命令で金を採掘したといわれます。

 山名はそのほか、地誌『甲斐國志』によれば「幾日の
峰」(いくかのみね)という呼び方もあったそうです。
これは順徳院の「千隈川春行水ハ澄二ケリ消えテ幾日ノ
峯ノ白雪」(『続千載集』に収納)から出たもの。順徳
院といえば、鎌倉前期の順徳天皇。父の後鳥羽上皇とと
ともに、鎌倉幕府を討とうと挙兵、「承久(じょうきゅ
う)の乱」をおこしましたが敗れて、佐渡に配流されて
た人でもあります。

▼【神社】
 金峰山と書く山はあちこちにあり、『日本山名事典』
(三省堂)でみても10座を超えています。たいがいは山
頂に「金峰神社」がまつってあります。奥秩父の金峰山
も山頂五丈石の基部に金峰山神社の祠があります。金峰
山はまた、昔の農耕の神(雨乞い)の山として、ふもと
の民家の信仰厚く、戦国時代には川端下集落にはお寺が
たくさん建っていたといいます。

 山頂の五丈岩(ごじょういわ)のわきを南(山梨県側)
にまわり込むと、ちょっとした広場があり、壊れかけた
石祠と石灯篭が建っています。かつてここには甲府市、
山梨市、牧丘町などにある金桜神社の山宮(本宮)があ
ったそうですが、いまはすっかり荒れ果ててしまってい
ます。

 かつて山宮には金でつくった大黒天がまつられていた
そうです。それが江戸も末期の慶応年間(1865〜67)、
盗難にあいさらに放火され、山宮は焼失していまったと
いうことです。こんなとろにもドラマが埋もれているで
すね。

▼【歴史】
 五丈岩南側の里宮、甲府市御岳町にある金桜神社の社
伝では、はじめ五丈岩に少彦名命(すくなひこなのみこ
と)をまつったとあります。のち日本武尊が、国家鎮護
の霊地として、須差之男命(すさのおのみこと)と大己
貴命(おおなむちのみこと)を合わせてまつり、社殿を
広場に建立しました。これがこの山宮のはじまりとして
います。

 さらに飛鳥時代の文武(もんむ)天皇の時代(在位697
〜707)に、奈良の金峰山(きんぷせん)から蔵王権現
を勧請し、本宮(山宮)と里宮にまつりました。また長
野県側山ろくにも、数ヶ所金の峰山神社があります。そ
の金峰山縁起には、やはり文武天皇のころ、役行者(え
んのぎょうじゃ)がこの金峰山に蔵王権現をまつり、以
来金峰山は修験道の山として栄えたと伝えています。

 この山梨県側の金桜神社の由緒(社記)が先か、長野
県側の金峰山縁起が伝説が先なのかははっきりしませ
ん。しかし、とにかく飛鳥時代には奈良吉野にある金峰
山の蔵王権現の分身が、この秩父の金峰山にまつられた
のは間違いないようです。そして平安時代初期になり、
智聖(ちしょう)法師が開山したとなっています。

▼【山頂】
 金峰山の山頂には、高さ18mもの大岩があり、五丈岩
と呼ばれています。その形が、遠くから見るといかにも
大黒さまの像に似ていて、「御像石」とか「御影石」と
呼ばれています。その岩は5立方mくらいの方形節理の
巨石でなりたっています。五丈岩の南面には石祠があり
ます。昔は修験者の籠堂があったそうですが、いまは2
基の石灯籠が残っているだけです。

 地誌『甲斐国志』の五丈岩の頂には「甲斐派美」(か
いはみ)という池があったといわれています。この池は
干ばつにも枯れず。甲斐・武蔵・信濃の諸河川の巣源に
鎮座したことから耕作守護神として信仰を集めたといい
ます。これについて、明治時代の登山家、木暮理太郎著
『山の憶い出』には、こんなことが書かれています。

 「頂上の五丈石は、『御影石高サ貳拾五間横拾八間、
其頂ニ小池アリ、形蛤ノ如シ、其水亢旱(こうかん)ニ
モ涸レズ、甲斐派美(カヒハミ)ト称セリ』と甲斐国志
には記載してあるが、実際はその三分の一もおぼつかな
いであろう。上は平坦で長さ一丈幅四尺位しか無いと思
った。------

 ------小池とは大袈裟な言葉で、その実は岩の凹みの溜
水に過ぎない。二日も照りつければ干上がってしまう」。
岩のくぼみに溜まった水を、たしかに大げさですが、農
作物には欠かせない水の恵み、守護神として信仰を集め
たのでしょう。

▼【展望】
 金峰山は、眺望絶景の地として昔から有名で、浅間山、
立山から白山、妙義山、榛名山、佐土国まで見えると古
書にもあるほどで、「勅許甲斐八景」に(金峰暮雪)が
選ばれています。例の『甲斐国志』にも、「山上ヨリ四
方ヲ臨眺スレバ信・越・二毛(上毛野かみつけの、下毛
野しもつけの)・武・相・豆・駿・遠・三・濃・飛諸州
ノ高山一覧シテ御岳(ミタケ)ノ杉栢(ヒノキ)本州に
冠タリ」とあります。

▼【高山植物】
 高山植物もキバナシャクナゲ、トウヤクリンドウ、ミ
ヤマリンドウ、イワカガミ、コケモモなどのお花畑もあ
ります。

▼【役行者伝説】
 役行者が秩父金峰山に、奈良吉野金峰山の蔵王権現を
まつったことについてこんな伝説があります。その昔、
奈良葛城山で修行し吉野金峰山(きんぷせん)で蔵王権
現を感得した役行者が、中山道を東国に向かって諸国行
脚をしていました。ちょうどいまの長野県佐久市にある
塩名田橋(しおなたばし・旧北佐久郡浅科村)にさしか
かった時、ふと川面にめをやりました。

 するとなんと梵字(ぼんじ)が水に浮いて流れてくる
ではありませんか。「これはこの川上に霊神がおわす」
しるしに違いない。そう悟った行者は、千曲川に沿って
長野県南佐久郡川上村(合併せず)川端下集落から金峰
山に登ります。その途中でいろいろな不思議な人物や動
物に案内されながら、6月16日の黄昏時についに山頂に
つきました。そこで「お姿を配させ給え!」行者が念じ
ると、たちまち蔵王権現が姿をあらわれました。

 そして蔵王権現は、「われはその往古(かみ)より、
吉野金峰に鎮座すると雖も、坂東へは遠く普(あまね)
く衆生を度(わた)し難し。よって毎月一日より望(も
ち・15日)までは吉野金峰山に鎮座し、望より下旬まで
この峰に分身を移して群生(ぐんじょう・一切衆生)を
利するなり。されども未だ知る者あらず。汝(なんじ)
東国の衆生(しゅじょう)に我れ住山を知らすべし」と
お告げをして姿を消したといいます。それからというも
の、金峰山は蔵王権現をまつる山であり、修験道の山と
して大いに栄えたということです(長野県側山麓金峰山
神社の縁起)。

▼【千代の吹き上げ伝説】
 この山には、山頂直下に絶壁があります。そこにはこ
んな伝説があります。ある時、この山のふもとに住む信
心深い大工の夫婦が、連れだってこの山に登りました。
しかしこの山は女人禁制の山。その掟を破った妻の千代
は崖から落ちて死んでしまいました。

 夫は山頂にとどまり、7日間断食をして妻の罪を許し
てくれるように神さまに祈りました。7日目に入った時、
一陣の風とともに妻の千代は無傷のまま、崖下から吹き
上がってきたのです。ビックリ仰天した村人は、以来こ
の崖を「千代の吹き上げ」と呼ぶようになったというこ
とです。

▼【山男伝説】
 また金峰山には、大きな山男が出るという伝説もあり
ます。江戸時代の紀行本『遠山奇談』(とおやまきだん
・華誘居士著)に、「金峰山には山夫(やまおとこ)と
いうものがいるといわれる。山夫は人間の3倍もの大き
さがあり、乱れ髪が腰までのびている。若いのは髪の毛
が赤黒く、白けて艶がないのは歳のとったものらしい。
木の葉をつなげて身にまとい、体中が毛だらけで恐ろし
い。…

 …時々小動物を捕まえて喰うらしい。人を見るとこだ
まのような声で呼ぶといいます。「おゝい」と一声呼ぶ
時は大丈夫だが、「おゝい、おゝい」と二声三声せわし
く呼ぶ時は人をさらいに来るので杣人もあわてて山から
逃げ下るといいます。ある時他国から盗賊たちが逃げて
きて、金峰山中に隠れてすんでいましたが、せわしく呼
ぶ山夫に2人がつかまって連れて行かれた。…

 …肝を冷やして逃げてきた残りの3人を、杣人みんな
で盗賊を囲んで取り押さえました。その盗賊は役人に引
き渡され、そのまま江戸へ送られたという」と伝えます。
そんなこともあった山だから(金峰山に行こうと思って
いたが)「必此山へは行べからずと、おしとゞめける故、
やめけり」と、『遠山奇談』にあります。

 このような話しはあちこちの山にあります。、昔は山
には得体の知れない何かがいたのでしょうか。皆さんは
どう思いますか。ちなみに「遠山奇談」は、京都の天明
8年(1788)の大火で炎上した東本願寺の再建のため、
浜松の齢松寺の僧侶が遠山に材木を探し求め伐り出した
時、いろいろな不思議なことにあったことを記したもの
(浄林坊辨惠著)だそうです。

▼【魔子の人穴伝説】
 その昔、金峰山の近くに、「魔子の山」という不気味
な形をした山がありました。そこには、いまにも妖怪が
出てきそうなうす気味悪いほら穴がありました。里人は、
ここを「魔子の人穴」と呼んで、近づかないようにして
いました。その山には昔、魔子爺(まごじじい)という
大男が住んでいたのでした。ジジイは老人とは思えない
頑丈な体で、里へ出てきては家畜や赤ん坊までさらって
いったといいます。

 洞穴の入り口には、家畜や赤ん坊の骨が積み重なって
いて、穴の奧からはいつも生臭い風が吹いていました。
里人はこどもがいつまでも泣きやまなかったりすると
「魔子ジジイが来るゾ」といって泣きやませました。こ
の穴は、1995年(平成7)の調査で、実は古い鉱山の
坑道だと分かったそうです。ここは江戸時代、金鉱があ
るといううわさのあったところで、穴は試し堀をした跡
らしいといいます。「魔子の人穴」は、この鉱山に人が
来ないようにつくられたうわさ話だったということでし
た。

▼【ライチョウ】
 こんな金の山に、かつて絶滅危惧種になっているライ
チョウの数を増やそうと放鳥した話があります。この放
鳥の話しは、富士山が中部山岳地帯と気象条件が似てい
るというので、1960年(昭和35)4合目の標高2400m付
近に放鳥したことからはじまります。富士山に放したの
はオス1羽、メス2羽、ヒナ4羽の合計7羽でしたが翌
年4月から9月にかけての調査のとき、6羽が確認され
たといいます。

 これにならって、山梨県林政課が金峰山にも放鳥しよ
うということになりました。9年後の1969年(昭和44)
8月、南アルプスの北岳からライチョウを一つがいと、
ひな3羽を金峰山に連れて行きました。それから12年後
の1979年(昭和54)には目撃情報とフンなどが確認され
ています。

 しかしそれ以来、生息情報は途絶えたまま。いまでは
放鳥は失敗だったろうと考えられています。これは外敵
から身を隠せるハイマツ帯が少なく捕食されてしまった
ことや、エサになる高山植物が豊富でないことが原因と
見られています。

 同じように富士山への放鳥も失敗でした。ライチョウ
は、絶滅危惧2類に指定されており、国の特別天然記念
物にもなっている高山鳥。20年以上かかって全国を調査
した結果、1985年(昭和60)まで国内に約3千羽が生息
していたことは確認しています。それからさらに20数年
の歳月がたったいま、どのくらいいるのでしょうか。

 現在ライチョウがいる山は、北アルプス・御嶽山・南
アルプス・火打山。かつては中央アルプス、八ヶ岳、蓼
科山、白山などにもいたといいますが絶滅したとされて
います。なお、金峰山を長野県側ではキンポウザンと呼
んでいます。



▼金峰山【データ】
★【所在地】
・【塩山駅から】:
山梨県甲府市と長野県南佐久郡川上村との境。JR中央
本線韮崎駅の北東24キロ。中央本線塩山駅からタクシー
・大弛峠から歩いて1時間45分で金峰山(きんぷさん)。
五丈岩と三等三角点(2595.03m)と標高点(2599m)、
金桜神社の山宮(本宮)跡がある。地形図に山名と三角
点の標高と標高点の標高の記載あり。三角点より北西方
向380mに金峰山小屋がある
・【川上駅から】:
山梨県甲府市と長野県南佐久郡川上村(合併せず)と
の境。JR中央本線韮崎駅の北東24キロ。JR小海線信濃
川上駅からバス終点川端下下車、4時間30分で金峰山(き
んぷさん)。
・【増富温泉・富士見平から】:
山梨県甲府市と長野県南佐久郡川上村(合併せず)との
境。JR中央本線韮崎駅の北東24キロ。JR中央線韮崎駅
からバス増富温泉から瑞牆山荘経由、7時間で金峰山(き
んぷさん)。

★【位置】国土地理院「電子国土ポータルWebシステム」
から検索
・三角点:北緯35度52分17.4秒、東経138度37分31.17


▼【地図】
・2万5千分の1地形図「金峰山(甲府)」or「瑞牆山(甲
府)」(2図葉名と重なる)


★【山行】
・某年6月25日(土・雨のち晴)



▼【参考文献】
・『甲斐国志』(巻之20・山川部第1・巨摩郡北山筋・
金峰山)(松平定能(まさ)編集)1814(文化11年):
大日本地誌大系45『甲斐国志・2』(雄山閣)1973年(昭
和48)
・『角川日本地名大辞典20・長野県』市川健夫ほか編(角
川書店)1990年(平成2)
・『角川日本地名大辞典19・山梨県』磯貝正義ほか編(角
川書店)1984年(昭和59)
・『山岳宗教史研究叢書9・富士・御嶽と中部霊山』鈴
木昭英編(名著出版)1978年(昭和53年)
・『山岳宗教史研究叢書・17』(修験道史料集1・東日
本編)五来重編(名著出版)1983年(昭和58)
・『信州山岳百科3』(信濃毎日新聞社編)1983年(昭
和58)
・『信州百名山』清水栄一(桐原書店)1990年(平成2)
・『新日本山岳誌』日本山岳会(ナカニシヤ出版)2005
年(平成17)
・『旅と伝説」通巻1号・創刊号(三元社)1928年(昭
和3)
・『遠山奇談』江戸時代後期(華誘居士著)後篇「巻之
三」第十九章 金峰山やま男の事:『日本庶民生活史料
集成・第16巻』「奇談・奇聞」編集委員代表・谷川健一
(三一書房)1989年(平成元)
・『日本山岳ルーツ大辞典』村石利夫(竹書房)1997年
(平成9)
・『日本山名事典』徳久球雄ほか(三省堂)2004年(平
成16)
・『日本歴史地名大系19・山梨』(平凡社)1995年(平
成7)
・『日本歴史地名大系20・長野』(平凡社)1990年(平
成2)
・『山の憶い出』小暮理太郎:『日本山岳名著全集2』(あ
かね書房)1962年(昭和37)

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【とよだ 時】 山と田園風物漫画文
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 (主に画文著作で活動)
時【U-moあ-と】画文制作室